詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

久石ソナ「数センチメートル」

2011-12-01 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
久石ソナ「数センチメートル」(「現代詩手帖」2011年11月号)

 久石ソナ「数センチメートル」は「新人作品欄」に載っている作品である。選んでいるのは平田俊子。書き出しがユニークでとてもおもしろい。

人工衛星ははやいいきものでしたが、つねに浮いていて、地球のことをよく考えていました。

 平田は選評で「人工衛星を「はやいいきもの」ととらえたのが新鮮でした」と語っている。私もその書き出しに驚いた。「比喩」とはわかっていても、びっくりする。そうか、「いきもの」なのか。
 そこから、どんな世界が見えてくるか。
 というようなことを、考えるひまは、実は私の場合、なかった。「いきもの」以上に、次の「つねに浮いていて」に、
 うーん。
 うなってしまった。
 「つねに浮いていて」は「はやいいきもの」の「はやい」と同じく、人工衛星の客観的描写である。「いきもの」という「比喩」で客観から大きく飛躍したのに、その飛躍をさらに上回るスピードで客観へもどってきてしまう。
 うーん。
 客観→主観(比喩--とは主観だね)→客観。
 この変化がとてもはやい。はやすぎる。で、途中の「比喩」が主観ではなく、「客観」と勘違いしてしまう。いや、「いきもの」が比喩であり、それは嘘であるとわかっているのだが、前後の客観があまりにも明白すぎるので、その明白な客観に主観がまぎれこみ、区別がつかなくなる。
 で、「地球のことをよく考えていました。」--これは客観、主観? むずかしいなあ。人工衛星が「考える」というのは「比喩(嘘)」である、はずなのだが、何のために人工衛星があるかといえば、それは地球を観測し、地球にとって(私たち人間にとって)有効な情報を提供するためにある--そういう情報を提供する(収集する)ために人間がつくりだしたものであるのだから、人工衛星には「主観(人間の考え、感じ方)」が反映している。
 そうすると……。
 論理的に書こうとすると面倒くさいのだが、なんというのだろうか、人工衛星という「客観」には、人間の「主観」がこめられていて(反映していて)、それを人工衛星が自らの「主観」として「生きる」--人工衛星と人間が「主観」のなかで「一体化」する。
 これがおもしろい。
 そうか、「主観」が「一体化」するとき、「いきる」ということばが動くのか。
 「いきる」とは、だれかの「主観」と「一体」になって、「いま/ここ」に存在することである、という「思想(哲学)」が、ユニークな「童話」みたいな感じでしっかり語られている。この話法はおもしろいなあ。

人工衛星はみずから地球にかかわるお仕事をしていて、それは生まれたときから望んでいたお仕事でしたから、外が暗くても、働いているのでした。(略)人工衛星はよわいいきものです。だからこそ、つねに完璧でなければならないのです。

 で、平田が新鮮と指摘している「地球のことをよく考えていました」という見方も、「主観」の「一体化」として読むことができる。そのあと、平田が「最初は「はやいいきもの」だったのがあとで、「よわいいきもの」となり、「だからこそ、つねに完璧でなければならない」というように人工衛星のイメージが少しずつずれていく」ところがおもしろいという指摘もその通りだと思う。
 私が補足することでもないのだろうけれど、補足すると。
 繰り返される「つねに」。これが、おもしろい。「つねに浮いていて」「つねに完璧でなければならない」。こういうとき、「つねに」は「客観」の代名詞である。「普遍」であること、というのは「客観」の重要な要素である。
 そして、この「つねに」は、「すべて」「ずっと」「くりかえす」「いつも」「みんな」という「普遍」につながることばにも言い換えられていきる。

人工衛星の住む町は重力のない町だから、朝も昼も、時間のすべてを手放してしまって、ずっと夜に似た空が繰り返されるのでありした。人工衛星は地球のことを愛しています。友だちと地球について語り合い、それが原因で喧嘩することもあるけど、みんないつも笑顔です。

 そうして人工衛星と人間の「客観」と「主観」が「一体」であると書いたあと、久石は、宇宙から地上におりて「人間」を書いている。
 そうすると、「つねに」が不思議な具合に「変質」する。

ぼくたちは相手に会話を合わせ、提供することをつねとする。

 人工衛星では「つねに」が「客観」であった。でも人間の生活では「つねに」は存在しない。「つね」は人間がつくりだしてゆく。人間が自分の意思で「繰り返す」ことで、あることがら(主観にすぎないことがら)を「つね」であるように「する」のである。
 「つね」に「する」と、「つね」に「なる」。
 「つねに」は「客観」ではなく、「主観」。どこまで行っても「主観」。「客観」にはならない--というのが人間の暮らしのようである。

景色がつねにいけないからぼくたちは、管の小さい酸素ボンベをかついているのだ。家に帰り、食事を済ませ、妻とセックスをしてようやくぼくたちは、いきものなのだと実感する。
 
 人間が「いきもの」であるというのは「客観」的事実のようだが--でも、そうではない、と久石は言うのだ。それは「主観」を「つね」に動かし、その動きが「つね」であるとき、はじめて「いきもの」になる。
 「主観」と「主観」を「合わせ」る。(会話を合わせるように)
 それも「つねに」になるように、繰り返す。「つね」と「する」、「つね」に「した」ことだけが「つね」になる。

 ほーっ。

 セックスは、このとき、なんといえばいいのか、とても悲しいというか、切実である。よろこびというより、何かいきるための、苦悩。久石の書いていることばでいえば「実感」のための「方法」である。
 「主観」を「実感」する。
 「主観」を「実感」する。それが「いきる」というのは--これはこれは、重たい哲学だなあ。




現代詩手帖 2011年 11月号 [雑誌]
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ジョン・キャメロン・ミッチェル監督「ラビット・ホール」(★★★)

2011-12-01 19:40:31 | 映画
監督 ジョン・キャメロン・ミッチェル 出演 ニコール・キッドマン、アーロン・エッカート、ダイアン・ウィースト

 ニコール・キッドマン主演の「ドッグヴィル」(★★★★)は映像の情報量を「舞台」的にそぎ落としたおもしろい映画だった。
今度の「ラビット・ホール」は映像情報量が多くてというか、ことばの情報量が少なくてちょっと困る。たとえば、ニコール・キッドマン、アーロン・エッカートの住んでいる家。これだけの家に住むにはどういう経済状況が必要なのか――そういう変なところが気になってしまう。すごく裕福そうなんだけれど、理由が全然説明されない。まあ、説明はなくてもいいのかもしれないけれど。あふれかえる「裕福な家庭」の情報のなかで、ニコール・キッドマン、アーロン・エッカートが「ことば」抜きで苦悩するのだけれど、その「こころの声」は2人がどんなに頑張っても背景の「裕福家庭」にのみこまれて、非常に薄まってしまう。これでは、映画にならない。どんなに顔のアップがあっても、妙に「薄い」のである。
ニコール・キッドマンが加害者の少年と密会するシーンは、とても象徴的だ。何もない公園で会い、「パラレルワールド」(ラビット・ホール)の話をするのだが、それまでのシーンが「ことば」のない「顔」でみせる映画だったので、ここも同じ路線でストーリーを展開するしかないのだが、そうすると「情報量」が少なすぎて、どこを見ていいか分からなくなる。少ないことば、その少なさを補う顔(表情)。うーん、無理だなあ。
こういうシーンは、舞台で「しゃべりまくる」方が、「過去」が噴出してきておもしろいだろう。だって、「パラレルワールド」を「ことば」で説明するんだから。(漫画も出てくるけどね。)その「ことば」を引き継いで、ニコール・キッドマンの「ことば」が「過去」から「未来」へ動いて行かないと、何をやっているか分からない。顔(表情)で「過去」を「未来」へ動かしていくのは、とても難しいと思うなあ。
繊細な演技ではなく、激動の演技。その「激動」が、完全に欠けている。――つらい「過去」を乗り越え、「未来」へ歩み出すというのは、激動だよなあ・・・。

で、最後がね。映画じゃないでしょ? 芝居でしょ? パーティー(食事会?)でどんな話をするか、どうふるまうか、「ことば」でストーリーを動かしている。時間を動かしている。顔(表情)は一歩引いている。
妙に、ちぐはぐなのである。映像の情報量と、ことばの情報の関係が、しっくりいっていない。「芝居」にして、「激動」を見せた方が、悲しみが静かに浮かぶと思う。




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