詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和合亮一「短い暮らし」

2011-12-25 23:59:59 | 詩集
和合亮一「短い暮らし」(「現代詩手帖」2011年12月号)

 和合亮一「短い暮らし」(初出『詩の邂逅』06月発行)も大震災の詩である。大震災・原子力発電所事故後のことを書いている。

二時間だけの帰宅が許されるなら
私は何をするだろう

玄関の靴をそろえる
茶の間で泣く
祖母の写真を鞄に入れる
持って行きたい本を選んでやめる
パソコンのスイッチを入れてみる

洗面所の鏡に顔を映す
汗と涙で目元が濡れている
お風呂場で
お湯を溜めてみようか
トイレの水を流してみようか

冷蔵庫を開けてみると
いろんなものが冷たくなっている

電話 通じる
父と母に電話したくなる

寝室では 布団に寝転がる
目を閉じる 放射能の吐息


潮鳴り
窓 雲間に光
普通の暮らし

 二時間の終わり

 「二時間だけの帰宅が許されるなら/私は何をするだろう」と、想像の形でことばが動いていくのだが、実際の体験を書いているような切実さがある。体験したことを、想像の枠組みに入れてみたのかもしれない。現実なのだが、あまりにも理不尽で、現実にはしたくないのかもしれない。
 けれど、ことばは、いつでも作者の思いを裏切って動くものである。
 大震災を体験したひとの詩を「おもしろい」といっていはいけないのかもしれないが、この詩はとてもおもしろい。興味深い。考えさせられる。
 「玄関の靴をそろえる」「持って行きたい本を選んでやめる/パソコンのスイッチを入れてみる」「お風呂場で/お湯を溜めてみようか/トイレの水を流してみようか」--ここに書かれていることは、なんといえばいいのだろう、一種の「むだ」である。二時間の帰宅時間でしなければならないことはほかにもっとあるはずである。しかし、その重要なことがら(生活にほんとうに必要なことがら)をするのではなく、「いつもとおなじこと」をしてしまう。からだが、そんな具合に動いてしまう。人間はそういうことをしてしまうのかもしれない。
 --ということがおもしろい、という一面もあるが。
 何よりもおもしろいのはと、そういう人間の行動が、そのまま「ことば」になっている、ということがおもしろい。こういうことばは、まだ生きていたのだ。いきて、そこに「ある」のだ。
 ことばは、こういう「むだ」を語れるところまでもどってきたのだ。
 人間は、矛盾したことをしてしまう。むだなことをしてしまう。それは、行動哲学として、そういうものだと思うが、そのむだなことをするということと、そのむだなことをことばにしてみる。ことばをむだなことのために動かすというのは別のことである。ひとは何をしていいかわからず、「ぼうぜん」とむだなことをする。そこには、意識が動いていない。意識がなくてもというか、意識を裏切って人間のからだは動く。そういうことはある。たしかにある。
 それを、しかし、ことばにするというのは違うことだと思う。
 大震災直後、ことばには、こういうことができなかった。どう語っていいか、わからなかった。ことばそのものが「ぼうぜん」としていた。その「ぼうぜん」から、ことばはもどってきたのだ。
 不思議な安心感を感じるのである。日本語は生きている、と実感する。
 ことばにはもっとしなければならない仕事がある--かもしれない。たとえば、悲しみを怒りに変えて、事故を起こしたものを訴える、告発する、非難する。そうすることで、二度とそういうことが起きないようにする、という仕事をこそしなければならなついかもしれない。
 それはそれで、大事な仕事なのだが……。
 この詩に書かれているような、ささいなこと、むだなことを語ることばを、ひとつひとつ動かして、「ふつう」の形に戻すということも大切なことだと思う。どんなことばもいきつづけなければならない。そのことばにしか語れない何かがある。そのために、あらゆることばは生きつづけなければならない。
 あらゆることばを、よみがえらせなければならない。
 「玄関の靴をそろえる」「持って行きたい本を選んでやめる/パソコンのスイッチを入れてみる」「お風呂場で/お湯を溜めてみようか/トイレの水を流してみようか」ということばとともに動いている「肉体」。その「肉体」のなかにある、まだ「ことばにならないもの」。それは、いま和合が書いてる「ことば」といっしょに存在する。
 まだまだ「ことば」にしなければならないもの、「ことば」にならなければならないものがたくさんある。その「ことばにならないことば」を動かすためには、まず、いま和合が書いていることばが動かなければならない。
 そういうことばが、いま、動いているのだ。

電話 通じる
父と母に電話したくなる

 この部分も、とてもおもしろい。
 これは、学校教科書の日本語なら「電話が通じる/父と母に電話したくなる」である。助詞の「が」が必要である。また、改行の部分には「だから」など、「理由」をつげることばを補うとわかりやすくなる。
 しかし、そんな具合にことばを補っている余裕はない。余裕のないまま、ことばが動く。そして、そんなふうに動きながら、その動きが振り落としてきた「が」とか「だから」とかのことばが--なんといえばいいのだろう、ことば自身の「肉体」として息を吹き返そうとしている感じを教えてくれる。何かを、ことばの肉体のなかにある何かをつくり直そうとしている、その力を感じる。そういう力が「ある」ということを感じさせてくれる。
 まだまだ、ことばが「ある」のだ。
 まだまだ、ことばにならないことば、ふつうのことばが「ある」のだ。


潮鳴り
窓 雲間に光
普通の暮らし

 ここには動詞がない。述語がない。けれど、ことばが「ある」。そしてことばによって、そこに「ある」が出現してくる。「もの」が、「いのち」が出現してくる。

風「がある」
潮鳴り「がある」
窓「がある」 雲間に光「がある」
普通の暮らし「がある」

 そうして、その「ある」には、もちろん人間が「ある」(生きている)、私が「ある」(生きている、存在している)ということがつながってくる。
 その「ある」のつながりのなかに、もうひとつ、いままで考えて来なかった「放射能の吐息」がある--というのは、この詩の悲しみなのだけれど。それはそれとして、ことばは受け止め、さらに動いていく。

 この詩にははっきりした形の希望は書かれていない。けれど、ことばにならない希望が「ある」。






詩の邂逅
和合亮一
朝日新聞出版
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ビリー・ワイルダー監督「情婦」(★★★)

2011-12-25 20:01:00 | 午前十時の映画祭
監督 ビリー・ワイルダー 出演 タイロン・パワー、マレーネ・ディートリッヒ、チャールズ・ロートン

 私は「結末は言わないで」という映画が好きになれない。苦手だ。なぜ、言ってはだめ? 映画ってストーリーじゃないでしょ? 私はどんな推理物でも、犯人が分かっていても、全然気にならない。むしろ面倒くさい「謎解き」に頭を使わなくてもいいから、「犯人」を聞いていた方が楽に見られる。悩むのは自分の問題だけで十分――と思う。
 で、この映画。
 「結末は言わないで」と断っているけれど、チャールズ・ロートンが自分で「どうもおかしい」と自分で言ってしまっているのだから、言うも言わないも、どうでもいいじゃない? 力点は、ストーリーそのものというより、ストーリーの周辺の人物の描き方に置かれている。(だから、「結末」なんて、どうでもいいじゃないか、とよけいに思う。)
 紋切り型かもしれないけれど、チャールズ・ロートンの「人間味」の描き方がていねいだねえ。葉巻が吸いたい。でも、止められている。看護婦がそばにいる。病み上がりなので殺人事件の弁護人なんか、したくない。――のだけれど、依頼に来た人の胸のポケットに葉巻があるのを見て、「それじゃ、お話をうかがいましょう」と事務室へひっぱりこむ。葉巻をねだる。それから、肝心のマッチがないことを知り、タイロン・パワーも事務室に引っ張り込む。直接話を聞くという名目で・・・。このあたりのリズムがなかなか楽しい。
 そして、この一種の「正直」丸出しのチャールズ・ロートンと曲者のタイロン・パワーが関係してくるのだから、これはもう、タイロン・パワーが犯人に決まっているのだけれど、まあ、私なんかは、気づかなかったふりをしてそのまま映画を見ているのだけれど。
 それから、「正直」というより、色男ぶりを利用して女に近づいてゆくタイロン・パワーの「甘さ」――それを見ながら、なるほどねえ、女はこうやって「甘さ」で誘うんだなあと感心する。(チャールズ・ロートンは看護婦に手を焼かせ「ほんとうに、面倒みてやらないと大変なんだから」と「甘やかせる」楽しみを与えるのとは逆だね。)
 そのタイロン・パワーの「甘さ」に、マレーネ・ディートリッヒの「硬質」が出会って、あらあら、あんな気位の高そうな(ほほ骨が高いだけ?)の女も、やはり「甘さ」にひかれるんだなあ。もしかすると、タイロン・パワーが私(マレーネ・ディートリッヒ)の中に、誰も知らない「甘さ」があって、それが共鳴しているのかしら、と勘違いするのかなあ。
 最後まで映画を見ていくと、まあ、マレーネ・ディートリッヒの女の「甘さ」が、「正直」として噴出してくる――これは確かにおもしろいなあ。そしてこの瞬間、理論的に見えたチャールズ・ロートンの「甘さ」も初めて浮かび上がる。チャールズ・ロートン自身は、どこかで自分の詰めが「甘い」と感じていたけれど、最後にそれを知るという構造だけれど。
 で。そのおもしろさって、「結末」を知っていた方が、くっきりわかるんじゃないのかなあ。ストーリーに気を取られていたら、3人の「正直」と「甘さ」のぶつかり合いが見えないんじゃないかなあ。なぜ、「結末」を言ってはいけないのかな?
 監督も役者も、苦労したのは「ストーリー」ではなく、「肉付け」でしょ?
 「ストーリー」は小説で、すでにわかっていたのでは?

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