和合亮一「短い暮らし」(「現代詩手帖」2011年12月号)
和合亮一「短い暮らし」(初出『詩の邂逅』06月発行)も大震災の詩である。大震災・原子力発電所事故後のことを書いている。
「二時間だけの帰宅が許されるなら/私は何をするだろう」と、想像の形でことばが動いていくのだが、実際の体験を書いているような切実さがある。体験したことを、想像の枠組みに入れてみたのかもしれない。現実なのだが、あまりにも理不尽で、現実にはしたくないのかもしれない。
けれど、ことばは、いつでも作者の思いを裏切って動くものである。
大震災を体験したひとの詩を「おもしろい」といっていはいけないのかもしれないが、この詩はとてもおもしろい。興味深い。考えさせられる。
「玄関の靴をそろえる」「持って行きたい本を選んでやめる/パソコンのスイッチを入れてみる」「お風呂場で/お湯を溜めてみようか/トイレの水を流してみようか」--ここに書かれていることは、なんといえばいいのだろう、一種の「むだ」である。二時間の帰宅時間でしなければならないことはほかにもっとあるはずである。しかし、その重要なことがら(生活にほんとうに必要なことがら)をするのではなく、「いつもとおなじこと」をしてしまう。からだが、そんな具合に動いてしまう。人間はそういうことをしてしまうのかもしれない。
--ということがおもしろい、という一面もあるが。
何よりもおもしろいのはと、そういう人間の行動が、そのまま「ことば」になっている、ということがおもしろい。こういうことばは、まだ生きていたのだ。いきて、そこに「ある」のだ。
ことばは、こういう「むだ」を語れるところまでもどってきたのだ。
人間は、矛盾したことをしてしまう。むだなことをしてしまう。それは、行動哲学として、そういうものだと思うが、そのむだなことをするということと、そのむだなことをことばにしてみる。ことばをむだなことのために動かすというのは別のことである。ひとは何をしていいかわからず、「ぼうぜん」とむだなことをする。そこには、意識が動いていない。意識がなくてもというか、意識を裏切って人間のからだは動く。そういうことはある。たしかにある。
それを、しかし、ことばにするというのは違うことだと思う。
大震災直後、ことばには、こういうことができなかった。どう語っていいか、わからなかった。ことばそのものが「ぼうぜん」としていた。その「ぼうぜん」から、ことばはもどってきたのだ。
不思議な安心感を感じるのである。日本語は生きている、と実感する。
ことばにはもっとしなければならない仕事がある--かもしれない。たとえば、悲しみを怒りに変えて、事故を起こしたものを訴える、告発する、非難する。そうすることで、二度とそういうことが起きないようにする、という仕事をこそしなければならなついかもしれない。
それはそれで、大事な仕事なのだが……。
この詩に書かれているような、ささいなこと、むだなことを語ることばを、ひとつひとつ動かして、「ふつう」の形に戻すということも大切なことだと思う。どんなことばもいきつづけなければならない。そのことばにしか語れない何かがある。そのために、あらゆることばは生きつづけなければならない。
あらゆることばを、よみがえらせなければならない。
「玄関の靴をそろえる」「持って行きたい本を選んでやめる/パソコンのスイッチを入れてみる」「お風呂場で/お湯を溜めてみようか/トイレの水を流してみようか」ということばとともに動いている「肉体」。その「肉体」のなかにある、まだ「ことばにならないもの」。それは、いま和合が書いてる「ことば」といっしょに存在する。
まだまだ「ことば」にしなければならないもの、「ことば」にならなければならないものがたくさんある。その「ことばにならないことば」を動かすためには、まず、いま和合が書いていることばが動かなければならない。
そういうことばが、いま、動いているのだ。
この部分も、とてもおもしろい。
これは、学校教科書の日本語なら「電話が通じる/父と母に電話したくなる」である。助詞の「が」が必要である。また、改行の部分には「だから」など、「理由」をつげることばを補うとわかりやすくなる。
しかし、そんな具合にことばを補っている余裕はない。余裕のないまま、ことばが動く。そして、そんなふうに動きながら、その動きが振り落としてきた「が」とか「だから」とかのことばが--なんといえばいいのだろう、ことば自身の「肉体」として息を吹き返そうとしている感じを教えてくれる。何かを、ことばの肉体のなかにある何かをつくり直そうとしている、その力を感じる。そういう力が「ある」ということを感じさせてくれる。
まだまだ、ことばが「ある」のだ。
まだまだ、ことばにならないことば、ふつうのことばが「ある」のだ。
ここには動詞がない。述語がない。けれど、ことばが「ある」。そしてことばによって、そこに「ある」が出現してくる。「もの」が、「いのち」が出現してくる。
そうして、その「ある」には、もちろん人間が「ある」(生きている)、私が「ある」(生きている、存在している)ということがつながってくる。
その「ある」のつながりのなかに、もうひとつ、いままで考えて来なかった「放射能の吐息」がある--というのは、この詩の悲しみなのだけれど。それはそれとして、ことばは受け止め、さらに動いていく。
この詩にははっきりした形の希望は書かれていない。けれど、ことばにならない希望が「ある」。
和合亮一「短い暮らし」(初出『詩の邂逅』06月発行)も大震災の詩である。大震災・原子力発電所事故後のことを書いている。
二時間だけの帰宅が許されるなら
私は何をするだろう
玄関の靴をそろえる
茶の間で泣く
祖母の写真を鞄に入れる
持って行きたい本を選んでやめる
パソコンのスイッチを入れてみる
洗面所の鏡に顔を映す
汗と涙で目元が濡れている
お風呂場で
お湯を溜めてみようか
トイレの水を流してみようか
冷蔵庫を開けてみると
いろんなものが冷たくなっている
電話 通じる
父と母に電話したくなる
寝室では 布団に寝転がる
目を閉じる 放射能の吐息
風
潮鳴り
窓 雲間に光
普通の暮らし
二時間の終わり
「二時間だけの帰宅が許されるなら/私は何をするだろう」と、想像の形でことばが動いていくのだが、実際の体験を書いているような切実さがある。体験したことを、想像の枠組みに入れてみたのかもしれない。現実なのだが、あまりにも理不尽で、現実にはしたくないのかもしれない。
けれど、ことばは、いつでも作者の思いを裏切って動くものである。
大震災を体験したひとの詩を「おもしろい」といっていはいけないのかもしれないが、この詩はとてもおもしろい。興味深い。考えさせられる。
「玄関の靴をそろえる」「持って行きたい本を選んでやめる/パソコンのスイッチを入れてみる」「お風呂場で/お湯を溜めてみようか/トイレの水を流してみようか」--ここに書かれていることは、なんといえばいいのだろう、一種の「むだ」である。二時間の帰宅時間でしなければならないことはほかにもっとあるはずである。しかし、その重要なことがら(生活にほんとうに必要なことがら)をするのではなく、「いつもとおなじこと」をしてしまう。からだが、そんな具合に動いてしまう。人間はそういうことをしてしまうのかもしれない。
--ということがおもしろい、という一面もあるが。
何よりもおもしろいのはと、そういう人間の行動が、そのまま「ことば」になっている、ということがおもしろい。こういうことばは、まだ生きていたのだ。いきて、そこに「ある」のだ。
ことばは、こういう「むだ」を語れるところまでもどってきたのだ。
人間は、矛盾したことをしてしまう。むだなことをしてしまう。それは、行動哲学として、そういうものだと思うが、そのむだなことをするということと、そのむだなことをことばにしてみる。ことばをむだなことのために動かすというのは別のことである。ひとは何をしていいかわからず、「ぼうぜん」とむだなことをする。そこには、意識が動いていない。意識がなくてもというか、意識を裏切って人間のからだは動く。そういうことはある。たしかにある。
それを、しかし、ことばにするというのは違うことだと思う。
大震災直後、ことばには、こういうことができなかった。どう語っていいか、わからなかった。ことばそのものが「ぼうぜん」としていた。その「ぼうぜん」から、ことばはもどってきたのだ。
不思議な安心感を感じるのである。日本語は生きている、と実感する。
ことばにはもっとしなければならない仕事がある--かもしれない。たとえば、悲しみを怒りに変えて、事故を起こしたものを訴える、告発する、非難する。そうすることで、二度とそういうことが起きないようにする、という仕事をこそしなければならなついかもしれない。
それはそれで、大事な仕事なのだが……。
この詩に書かれているような、ささいなこと、むだなことを語ることばを、ひとつひとつ動かして、「ふつう」の形に戻すということも大切なことだと思う。どんなことばもいきつづけなければならない。そのことばにしか語れない何かがある。そのために、あらゆることばは生きつづけなければならない。
あらゆることばを、よみがえらせなければならない。
「玄関の靴をそろえる」「持って行きたい本を選んでやめる/パソコンのスイッチを入れてみる」「お風呂場で/お湯を溜めてみようか/トイレの水を流してみようか」ということばとともに動いている「肉体」。その「肉体」のなかにある、まだ「ことばにならないもの」。それは、いま和合が書いてる「ことば」といっしょに存在する。
まだまだ「ことば」にしなければならないもの、「ことば」にならなければならないものがたくさんある。その「ことばにならないことば」を動かすためには、まず、いま和合が書いていることばが動かなければならない。
そういうことばが、いま、動いているのだ。
電話 通じる
父と母に電話したくなる
この部分も、とてもおもしろい。
これは、学校教科書の日本語なら「電話が通じる/父と母に電話したくなる」である。助詞の「が」が必要である。また、改行の部分には「だから」など、「理由」をつげることばを補うとわかりやすくなる。
しかし、そんな具合にことばを補っている余裕はない。余裕のないまま、ことばが動く。そして、そんなふうに動きながら、その動きが振り落としてきた「が」とか「だから」とかのことばが--なんといえばいいのだろう、ことば自身の「肉体」として息を吹き返そうとしている感じを教えてくれる。何かを、ことばの肉体のなかにある何かをつくり直そうとしている、その力を感じる。そういう力が「ある」ということを感じさせてくれる。
まだまだ、ことばが「ある」のだ。
まだまだ、ことばにならないことば、ふつうのことばが「ある」のだ。
風
潮鳴り
窓 雲間に光
普通の暮らし
ここには動詞がない。述語がない。けれど、ことばが「ある」。そしてことばによって、そこに「ある」が出現してくる。「もの」が、「いのち」が出現してくる。
風「がある」
潮鳴り「がある」
窓「がある」 雲間に光「がある」
普通の暮らし「がある」
そうして、その「ある」には、もちろん人間が「ある」(生きている)、私が「ある」(生きている、存在している)ということがつながってくる。
その「ある」のつながりのなかに、もうひとつ、いままで考えて来なかった「放射能の吐息」がある--というのは、この詩の悲しみなのだけれど。それはそれとして、ことばは受け止め、さらに動いていく。
この詩にははっきりした形の希望は書かれていない。けれど、ことばにならない希望が「ある」。
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