平出隆「蕾滴(抄)」(「現代詩手帖」2011年12月号)
平出隆「蕾滴(抄)」(初出『蕾滴』07月)は強靱な文体が美しい。そして、その強靱さは、繊細をつらぬく強靱さである。どこまでも繊細であること。繊細であることを通り越して透明になろうとすることばの運動である。
「物の名よ」と呼びかけられている。そのときの「物」とはなんだろうか。抽象的すぎてわからない。この抽象的すぎることがらを、ことばで微かに汚して、それを自分でぬぐいさってみせるのが平出の語法かもしれない。
--というようなことを書きはじめているのは、もうすでに平出のことばの運動にのみこまれているということなのかもしれない。
わざと、思っていないことを書いてみたい。思っていないことを書くと、思いがけず、あ、そうかもしれないと思うものである。
この1行は何のことかわからない。わからないけれど、まあ、平出は「物の名」(名詞?)を器についた塵ようのなものと考えているらしい、と私は想像してみる。
で、その1行を平出は、
と言いなおす。「物の名」を呼ぶ。「呼ぶ」という動詞の中に、書き出しの「物の名」が呼び込まれる。呼ぶとは声を出すことである。声をだすということは、肉体の中に吸い込んだ「息」を肉体の中から出すことである。そのとき、のど(声帯)を通り、口をとおって息が出てくる。吐き出される。この息の動きを「吹く」ということもできる。
そのとき、平出は最初に書いた「器についた塵」を呼び寄せる。息を「吹く」とうっすらとついた塵が吹き飛ぶ。吹き立つ。
物の名を呼ぶ--そうするとその声といっしょに出る息のために、器についた塵が吹かれて飛び立つように、何かが飛び立つ。
それは、何か--まあ、わからないね。ただ、あ、そんな細かいところを平出は見つめ、その見えたものにあわせてことばを動かしているということがわかる。
おもしろいのは、次だな。
ほんとうは、この詩は、
という形式にすると、1連目と2連目の対応がわかりやすくなる。そのわかりやすいことを書いてしまうと(ようするに、私がわかったと「誤読」したことを書いてしまうと、という意味だが)……。
1連目で、物の名を呼ぶということは、声を出すこと、息を出すことで、物の表面(器と書かれているのだが)の塵を、吹いて飛び散らせるようなものである。飛び立たせるようなものである。表層の何かが、宙にきらめく。
これは、まあ、幻かもしれない。
で、2連目。--その幻を、言いなおしてみる。
幻とは、大地についた露のようなものかもしれない。そして、それが「吹き立つ」の「立つ」の影響からゆがめられて、大地に立つ「露」になると、それは「霜柱」になるかもしれない。--というのは、あとに出てくることばを先回りして書いてしまうことになるが……。
もどろう。
呼ぶ(声に出す)ということは、物の表面から何かを吹き飛ばすようなもの。
そして、見るとは、その物の表面(ここでは、ものは「大地」になる)を光のてあしで、踏みしだくこと。まるで、霜柱を踏みしだくように。
このとき、平出は「てあし」ということばをつかっているが、「てあし」よりも「光」になってしまっている。「肉体」をあらわすことばをつかっているが、何か「肉体」を超越したものになっている。
「光」そのものに「同化」している。
この「光との同化」(光そのものになってしまうこと)があるから--まあ、透明という感じがするのだろうなあ。
でも、なぜ、
という対の形式ではなく、
なのか。
なぜ、「幻よ」の前に段落がないのか。1行あきがないのか。
簡単にいってしまえば、平出は「対」を拒否していることになる。
世の中には「対」は存在しない。
それは向き合うのではなく、連続してつながっている。
「物」と「意識」、「物」と「ことば」は、「物」があり「ことば」があるという関係ではないのだ。
対称ではない。
つながっていて、区別がつかない。
というか--ことばと物は互いを貫きあう。互いをくぐりぬけるようにして交渉する。その接続と、くぐりぬけの交渉が
の中にあるのだ。「幻よ、」の前の改行のないところ、1行あきのないところに、動いているのだ。
なんだか同じことばかりを書いているなあ。めんどうくさいなあ。と、書きながら思う。
そして、この私の感じるめんどうくささというのは、説明がむずかしいが(いや簡単すぎるかもしれない)、平出のことばが強靱であるという証拠なのである。
私がどれだけ書いてみても、平出の書いている「繊細」なことばの運動の領域を説明しきれない。説明しようとすればするほどずれてしまう。遠くなる。
平出の書こうとしている繊細な感覚--それも肉体の感覚というよりも、ことばそのものへの感覚、五感ではなく「語感」、といっても辞書に書かれているような「ことばの与える感じ」「ことばに対する感覚」とは少し違って、ことばがことばを生きている感覚(肉体が肉体自身で生きている感覚に似たもの)にはたどり着けない。
あ、ここに、こんなふうに「ことば」が「ことば」として存在してしまっている。そういう感じかなあ。そのことばは、もうそこで完結していて、ほかのどこへも行きようがない。
詩として、そこに存在するしかない。
こういう作品については、感想は書いてみてもしようがない--という感想を書くしかない。
だから、ね、何も書いていることにはならない。
虚無。
虚無的な、あまりに虚無的な、虚無。
究極のことばの到達点?
平出隆「蕾滴(抄)」(初出『蕾滴』07月)は強靱な文体が美しい。そして、その強靱さは、繊細をつらぬく強靱さである。どこまでも繊細であること。繊細であることを通り越して透明になろうとすることばの運動である。
物の名よ、器につく塵のように。
呼ぶとはそれを、息をふるつて吹き立てることか。幻よ、大地に露のつくように。
見るとはそれを、折れ曲つた光のてあしで、踏みしだくことか。
「物の名よ」と呼びかけられている。そのときの「物」とはなんだろうか。抽象的すぎてわからない。この抽象的すぎることがらを、ことばで微かに汚して、それを自分でぬぐいさってみせるのが平出の語法かもしれない。
--というようなことを書きはじめているのは、もうすでに平出のことばの運動にのみこまれているということなのかもしれない。
わざと、思っていないことを書いてみたい。思っていないことを書くと、思いがけず、あ、そうかもしれないと思うものである。
物の名よ、器につく塵のように。
この1行は何のことかわからない。わからないけれど、まあ、平出は「物の名」(名詞?)を器についた塵ようのなものと考えているらしい、と私は想像してみる。
で、その1行を平出は、
呼ぶとはそれを、息をふるつて吹き立てることか。
と言いなおす。「物の名」を呼ぶ。「呼ぶ」という動詞の中に、書き出しの「物の名」が呼び込まれる。呼ぶとは声を出すことである。声をだすということは、肉体の中に吸い込んだ「息」を肉体の中から出すことである。そのとき、のど(声帯)を通り、口をとおって息が出てくる。吐き出される。この息の動きを「吹く」ということもできる。
そのとき、平出は最初に書いた「器についた塵」を呼び寄せる。息を「吹く」とうっすらとついた塵が吹き飛ぶ。吹き立つ。
物の名を呼ぶ--そうするとその声といっしょに出る息のために、器についた塵が吹かれて飛び立つように、何かが飛び立つ。
それは、何か--まあ、わからないね。ただ、あ、そんな細かいところを平出は見つめ、その見えたものにあわせてことばを動かしているということがわかる。
おもしろいのは、次だな。
ほんとうは、この詩は、
物の名よ、器につく塵のように。
呼ぶとはそれを、息をふるつて吹き立てることか。
幻よ、大地に露のつくように。
見るとはそれを、折れ曲つた光のてあしで、踏みしだくことか。
という形式にすると、1連目と2連目の対応がわかりやすくなる。そのわかりやすいことを書いてしまうと(ようするに、私がわかったと「誤読」したことを書いてしまうと、という意味だが)……。
1連目で、物の名を呼ぶということは、声を出すこと、息を出すことで、物の表面(器と書かれているのだが)の塵を、吹いて飛び散らせるようなものである。飛び立たせるようなものである。表層の何かが、宙にきらめく。
これは、まあ、幻かもしれない。
で、2連目。--その幻を、言いなおしてみる。
幻とは、大地についた露のようなものかもしれない。そして、それが「吹き立つ」の「立つ」の影響からゆがめられて、大地に立つ「露」になると、それは「霜柱」になるかもしれない。--というのは、あとに出てくることばを先回りして書いてしまうことになるが……。
もどろう。
呼ぶ(声に出す)ということは、物の表面から何かを吹き飛ばすようなもの。
そして、見るとは、その物の表面(ここでは、ものは「大地」になる)を光のてあしで、踏みしだくこと。まるで、霜柱を踏みしだくように。
このとき、平出は「てあし」ということばをつかっているが、「てあし」よりも「光」になってしまっている。「肉体」をあらわすことばをつかっているが、何か「肉体」を超越したものになっている。
「光」そのものに「同化」している。
この「光との同化」(光そのものになってしまうこと)があるから--まあ、透明という感じがするのだろうなあ。
でも、なぜ、
物の名よ、器につく塵のように。
呼ぶとはそれを、息をふるつて吹き立てることか。
幻よ、大地に露のつくように。
見るとはそれを、折れ曲つた光のてあしで、踏みしだくことか。
という対の形式ではなく、
物の名よ、器につく塵のように。
呼ぶとはそれを、息をふるつて吹き立てることか。幻よ、大地に露のつくように。
見るとはそれを、折れ曲つた光のてあしで、踏みしだくことか。
なのか。
なぜ、「幻よ」の前に段落がないのか。1行あきがないのか。
簡単にいってしまえば、平出は「対」を拒否していることになる。
世の中には「対」は存在しない。
それは向き合うのではなく、連続してつながっている。
「物」と「意識」、「物」と「ことば」は、「物」があり「ことば」があるという関係ではないのだ。
対称ではない。
つながっていて、区別がつかない。
というか--ことばと物は互いを貫きあう。互いをくぐりぬけるようにして交渉する。その接続と、くぐりぬけの交渉が
呼ぶとはそれを、息をふるつて吹き立てることか。幻よ、大地に露のつくように。
の中にあるのだ。「幻よ、」の前の改行のないところ、1行あきのないところに、動いているのだ。
なんだか同じことばかりを書いているなあ。めんどうくさいなあ。と、書きながら思う。
そして、この私の感じるめんどうくささというのは、説明がむずかしいが(いや簡単すぎるかもしれない)、平出のことばが強靱であるという証拠なのである。
私がどれだけ書いてみても、平出の書いている「繊細」なことばの運動の領域を説明しきれない。説明しようとすればするほどずれてしまう。遠くなる。
平出の書こうとしている繊細な感覚--それも肉体の感覚というよりも、ことばそのものへの感覚、五感ではなく「語感」、といっても辞書に書かれているような「ことばの与える感じ」「ことばに対する感覚」とは少し違って、ことばがことばを生きている感覚(肉体が肉体自身で生きている感覚に似たもの)にはたどり着けない。
あ、ここに、こんなふうに「ことば」が「ことば」として存在してしまっている。そういう感じかなあ。そのことばは、もうそこで完結していて、ほかのどこへも行きようがない。
詩として、そこに存在するしかない。
こういう作品については、感想は書いてみてもしようがない--という感想を書くしかない。
だから、ね、何も書いていることにはならない。
虚無。
虚無的な、あまりに虚無的な、虚無。
究極のことばの到達点?
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