伊藤比呂美「雲」(「現代詩手帖」2011年12月号)
「現代詩手帖」の12月号は年鑑。読み落としてきた詩がたくさんある。その感想を少しずつ書いてみる。
伊藤比呂美「雲」(初出、「読売新聞」10年11月20日)は、飛行機に乗っているときに見た光景を書いている。(あ、あまりに簡単すぎる要約かもしれない。)
書き出しの6行である。その6行目の「私が近づく。」は、「私が(あるいは私の乗った飛行機が)雲に近づく。」である。そして「私の乗った飛行機が(あるいは私が)雲を横切る。」である。
--ということを、私は最初気がつかなかった。
その前の行に「(飛行機に乗って)動いているのは私。」とある。私は、どうも、そのことばを読み落としたらしい。
そして、
雲が、私となって、私に近づいて来る。雲が、私となって、私を横切っていく。
という「意味」で読んでしまった。
ここから、「私」消える。「雲」が「主役」となる。「雲」だけではなく、伊藤が見たものが「主役」となる。
ここに書かれていることば(対象)は、「私」の乗った飛行機が動くことで接近し、新たに見えてきたものなのだが、私には、風景ではなく、伊藤自身が変身しながら大陸を、その大地を疾走しているように感じられる。
「土波」というのは造語だろう。その影響を受けて「山波」になる。ふつうは「山並(山脈)」だろうけれど、「波」。「波乗り」の「波」。あくまで「からだ」に密着する何か。そして、その動き(波は動く)を自分の「からだ」で感じる何か。
「からだ」で感じるとき、対象と「からだ」の関係があいまいになる。どこまでが「対象」でどこからが「からだ」かわからなくなるが--これを、私は「一体感」と呼ぶ。
そのとき「波」が近づいて来るのではない。「私」が「波」そのものになって「私」をのみこむ。土の波。山の波。波だから、盛り上がり、崩れ落ちる。それは波といっしょに「私」そのものが盛り上がり、崩れ落ちることだ。「見ている」のではない。伊藤は、土の、山の「波」になっている。その「赤い」色そのものになっている。
このリズム、この音がとても気持ちがいい。
伊藤はさらに「変身」しつづける。
「山から川が大きな川に」という1行の、強い変化がすばらしい。「変身」は、強くなることなのだ。大きくなることなのだ。
短いことば。そのリズム。
どこからどこまで飛んだのか、この詩からだけではわからないが、広大な大陸を横断している感じがする。そして、伊藤が「大陸」そのものになっている、その「なる」の感じがほんとうに強烈だ。
で、そのあと。
「機内の灯を落とすのアナウンス」で、初めて「飛行機」に引き戻される。--というか、私は、この行に出会うまで、実は伊藤が飛行機に乗っているということを知らなかった。大陸を裸で歩いている、大陸を裸で踏みしめて、「からだ」で大陸と向き合い、「一体」になっているとばかり思っていて、あ、飛行機に乗っていたのか、「私が近づく。」は「私が(飛行機に乗って)雲に近づく。」だったのかと驚いたのだ。
ぎゃっ、と叫んでしまったのだ。
はじめて、この作品を読んだ瞬間に。
えっ、私の読んでいたのは「誤読」?
そして、この感想を書きはじめたのである。
なぜ、こんな単純な(?)詩を「誤読」したのだろう。
先に書いたが、ことばのリズム。短さがもつ「強さ」が、たぶん「誤読」の引き金である。
目--視力というのは、「私」がいて「対象」があり、そこに「距離」がないと見えない。目(視覚)というのは「距離」のなかで成立する感覚である。
この詩で動いている伊藤のことばは、「対象」との「距離」がない。「対象」が「からだ」そのものになっている。伊藤が裸で大地を歩いていると私が錯覚したのは「裸」の方が大地と密着するからである。余分なものがない。「距離」がない。
だから、私は伊藤がまさか飛行機に乗っているとは、終わりの数行に出会うまで気がつかなかった。
へえーっ、そうなのか。そうなんだ。
何がそうなんだか--それは、ことばにならないのだけれど、そうなんだ、と思ってしまう。
そして、伊藤が飛行機に乗って、これから「町」に降り立つとわかっても、私はまたちがったことを感じてしまう。「誤読」してしまう。
伊藤は「町」に「なる」のだ、と。
伊藤が、これまで雲になり、森になり、大陸になり、川になったように、これから「町」に「なる」。「暮らし」に「なる」。そして、女に「なる」。
そうか、そうなんだ。
そうやって、伊藤は「自分(私)」に「なる」のだ。「帰る」というのは「私になる」ことなのだ、と思った。
「誤読」だったと理解し、読み返してみても、私の「誤読」はかわらなかった。つまり、飛行機に乗って、空から大陸を見ている--と読んでしまうと、ぜんぜんおもしろくない。大陸を裸で歩いていると読むのが「誤読」だとしたら、飛行機に乗って、そこから見える風景と伊藤は「一体」になっていた。見える風景は伊藤の「からだ」そのものだった--と読み直すだけである。
いとうのことばの強い響き。そのリズムは、対象と伊藤の「からだ」の一体感から生まれている、と私は思う。この大陸は伊藤の「からだ」なのである。「町」は伊藤の「からだ」なのである。
「現代詩手帖」の12月号は年鑑。読み落としてきた詩がたくさんある。その感想を少しずつ書いてみる。
伊藤比呂美「雲」(初出、「読売新聞」10年11月20日)は、飛行機に乗っているときに見た光景を書いている。(あ、あまりに簡単すぎる要約かもしれない。)
土地のうねりは風がつくる。
同じ方向に吹かれてうねる。
道路がひとつの線に見える。
灌木の群れ。雲が近づいて来る。
いや来ない。動いているのは私。
私が近づく。雲を横切る。
書き出しの6行である。その6行目の「私が近づく。」は、「私が(あるいは私の乗った飛行機が)雲に近づく。」である。そして「私の乗った飛行機が(あるいは私が)雲を横切る。」である。
--ということを、私は最初気がつかなかった。
その前の行に「(飛行機に乗って)動いているのは私。」とある。私は、どうも、そのことばを読み落としたらしい。
そして、
雲が、私となって、私に近づいて来る。雲が、私となって、私を横切っていく。
という「意味」で読んでしまった。
ここから、「私」消える。「雲」が「主役」となる。「雲」だけではなく、伊藤が見たものが「主役」となる。
雲の大群。
森。森。森。森。森。
雲の大群。
岩。土。うねり。線。
赤い土波。赤い山波。とても赤い。
盛りあがる。それも赤い。
崩れ落ちる。それも赤い。
ここに書かれていることば(対象)は、「私」の乗った飛行機が動くことで接近し、新たに見えてきたものなのだが、私には、風景ではなく、伊藤自身が変身しながら大陸を、その大地を疾走しているように感じられる。
「土波」というのは造語だろう。その影響を受けて「山波」になる。ふつうは「山並(山脈)」だろうけれど、「波」。「波乗り」の「波」。あくまで「からだ」に密着する何か。そして、その動き(波は動く)を自分の「からだ」で感じる何か。
「からだ」で感じるとき、対象と「からだ」の関係があいまいになる。どこまでが「対象」でどこからが「からだ」かわからなくなるが--これを、私は「一体感」と呼ぶ。
そのとき「波」が近づいて来るのではない。「私」が「波」そのものになって「私」をのみこむ。土の波。山の波。波だから、盛り上がり、崩れ落ちる。それは波といっしょに「私」そのものが盛り上がり、崩れ落ちることだ。「見ている」のではない。伊藤は、土の、山の「波」になっている。その「赤い」色そのものになっている。
このリズム、この音がとても気持ちがいい。
伊藤はさらに「変身」しつづける。
雲の群れ。
雲があかあか。
陽は沈みかけ。
山から川が大きな川に。
流れ込む。線がつたう。
太い線。力強い線。
縦横の耕地。縦横の線。
掻きとられた大地。
弧を描く崖。伸びる川。
抉りとられた大地。
「山から川が大きな川に」という1行の、強い変化がすばらしい。「変身」は、強くなることなのだ。大きくなることなのだ。
短いことば。そのリズム。
どこからどこまで飛んだのか、この詩からだけではわからないが、広大な大陸を横断している感じがする。そして、伊藤が「大陸」そのものになっている、その「なる」の感じがほんとうに強烈だ。
で、そのあと。
沈みきって砂色。みわたすかぎり。
灯が点る。線の交差する辺(ほとり)に。
火が点る。山裾に。線の上に。
町の灯がぼんやり集まる。
あちこちに。山が近づく。
小型機が通る。点滅する。
徐々に降下のため。
機内の灯を落とすのアナウンス。
傾く。近づく。傾く。
眼下、いちめんにきらきらと町の灯。
「機内の灯を落とすのアナウンス」で、初めて「飛行機」に引き戻される。--というか、私は、この行に出会うまで、実は伊藤が飛行機に乗っているということを知らなかった。大陸を裸で歩いている、大陸を裸で踏みしめて、「からだ」で大陸と向き合い、「一体」になっているとばかり思っていて、あ、飛行機に乗っていたのか、「私が近づく。」は「私が(飛行機に乗って)雲に近づく。」だったのかと驚いたのだ。
ぎゃっ、と叫んでしまったのだ。
はじめて、この作品を読んだ瞬間に。
えっ、私の読んでいたのは「誤読」?
そして、この感想を書きはじめたのである。
なぜ、こんな単純な(?)詩を「誤読」したのだろう。
先に書いたが、ことばのリズム。短さがもつ「強さ」が、たぶん「誤読」の引き金である。
目--視力というのは、「私」がいて「対象」があり、そこに「距離」がないと見えない。目(視覚)というのは「距離」のなかで成立する感覚である。
この詩で動いている伊藤のことばは、「対象」との「距離」がない。「対象」が「からだ」そのものになっている。伊藤が裸で大地を歩いていると私が錯覚したのは「裸」の方が大地と密着するからである。余分なものがない。「距離」がない。
だから、私は伊藤がまさか飛行機に乗っているとは、終わりの数行に出会うまで気がつかなかった。
へえーっ、そうなのか。そうなんだ。
何がそうなんだか--それは、ことばにならないのだけれど、そうなんだ、と思ってしまう。
そして、伊藤が飛行機に乗って、これから「町」に降り立つとわかっても、私はまたちがったことを感じてしまう。「誤読」してしまう。
伊藤は「町」に「なる」のだ、と。
伊藤が、これまで雲になり、森になり、大陸になり、川になったように、これから「町」に「なる」。「暮らし」に「なる」。そして、女に「なる」。
そうか、そうなんだ。
そうやって、伊藤は「自分(私)」に「なる」のだ。「帰る」というのは「私になる」ことなのだ、と思った。
「誤読」だったと理解し、読み返してみても、私の「誤読」はかわらなかった。つまり、飛行機に乗って、空から大陸を見ている--と読んでしまうと、ぜんぜんおもしろくない。大陸を裸で歩いていると読むのが「誤読」だとしたら、飛行機に乗って、そこから見える風景と伊藤は「一体」になっていた。見える風景は伊藤の「からだ」そのものだった--と読み直すだけである。
いとうのことばの強い響き。そのリズムは、対象と伊藤の「からだ」の一体感から生まれている、と私は思う。この大陸は伊藤の「からだ」なのである。「町」は伊藤の「からだ」なのである。
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