詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

伊藤比呂美「雲」

2011-12-07 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
伊藤比呂美「雲」(「現代詩手帖」2011年12月号)

 「現代詩手帖」の12月号は年鑑。読み落としてきた詩がたくさんある。その感想を少しずつ書いてみる。
 伊藤比呂美「雲」(初出、「読売新聞」10年11月20日)は、飛行機に乗っているときに見た光景を書いている。(あ、あまりに簡単すぎる要約かもしれない。)

土地のうねりは風がつくる。
同じ方向に吹かれてうねる。
道路がひとつの線に見える。
灌木の群れ。雲が近づいて来る。
いや来ない。動いているのは私。
私が近づく。雲を横切る。

 書き出しの6行である。その6行目の「私が近づく。」は、「私が(あるいは私の乗った飛行機が)雲に近づく。」である。そして「私の乗った飛行機が(あるいは私が)雲を横切る。」である。
 --ということを、私は最初気がつかなかった。
 その前の行に「(飛行機に乗って)動いているのは私。」とある。私は、どうも、そのことばを読み落としたらしい。
 そして、

 雲が、私となって、私に近づいて来る。雲が、私となって、私を横切っていく。

 という「意味」で読んでしまった。
 ここから、「私」消える。「雲」が「主役」となる。「雲」だけではなく、伊藤が見たものが「主役」となる。

雲の大群。
森。森。森。森。森。
雲の大群。
岩。土。うねり。線。
赤い土波。赤い山波。とても赤い。
盛りあがる。それも赤い。
崩れ落ちる。それも赤い。

 ここに書かれていることば(対象)は、「私」の乗った飛行機が動くことで接近し、新たに見えてきたものなのだが、私には、風景ではなく、伊藤自身が変身しながら大陸を、その大地を疾走しているように感じられる。
 「土波」というのは造語だろう。その影響を受けて「山波」になる。ふつうは「山並(山脈)」だろうけれど、「波」。「波乗り」の「波」。あくまで「からだ」に密着する何か。そして、その動き(波は動く)を自分の「からだ」で感じる何か。
 「からだ」で感じるとき、対象と「からだ」の関係があいまいになる。どこまでが「対象」でどこからが「からだ」かわからなくなるが--これを、私は「一体感」と呼ぶ。
 そのとき「波」が近づいて来るのではない。「私」が「波」そのものになって「私」をのみこむ。土の波。山の波。波だから、盛り上がり、崩れ落ちる。それは波といっしょに「私」そのものが盛り上がり、崩れ落ちることだ。「見ている」のではない。伊藤は、土の、山の「波」になっている。その「赤い」色そのものになっている。
 このリズム、この音がとても気持ちがいい。
 伊藤はさらに「変身」しつづける。

雲の群れ。
雲があかあか。
陽は沈みかけ。
山から川が大きな川に。
流れ込む。線がつたう。
太い線。力強い線。
縦横の耕地。縦横の線。
掻きとられた大地。
弧を描く崖。伸びる川。
抉りとられた大地。

 「山から川が大きな川に」という1行の、強い変化がすばらしい。「変身」は、強くなることなのだ。大きくなることなのだ。
 短いことば。そのリズム。
 どこからどこまで飛んだのか、この詩からだけではわからないが、広大な大陸を横断している感じがする。そして、伊藤が「大陸」そのものになっている、その「なる」の感じがほんとうに強烈だ。
 で、そのあと。

沈みきって砂色。みわたすかぎり。
灯が点る。線の交差する辺(ほとり)に。
火が点る。山裾に。線の上に。
町の灯がぼんやり集まる。
あちこちに。山が近づく。
小型機が通る。点滅する。
徐々に降下のため。
機内の灯を落とすのアナウンス。
傾く。近づく。傾く。
眼下、いちめんにきらきらと町の灯。

 「機内の灯を落とすのアナウンス」で、初めて「飛行機」に引き戻される。--というか、私は、この行に出会うまで、実は伊藤が飛行機に乗っているということを知らなかった。大陸を裸で歩いている、大陸を裸で踏みしめて、「からだ」で大陸と向き合い、「一体」になっているとばかり思っていて、あ、飛行機に乗っていたのか、「私が近づく。」は「私が(飛行機に乗って)雲に近づく。」だったのかと驚いたのだ。
 ぎゃっ、と叫んでしまったのだ。
 はじめて、この作品を読んだ瞬間に。
 えっ、私の読んでいたのは「誤読」?

 そして、この感想を書きはじめたのである。
 なぜ、こんな単純な(?)詩を「誤読」したのだろう。

 先に書いたが、ことばのリズム。短さがもつ「強さ」が、たぶん「誤読」の引き金である。
 目--視力というのは、「私」がいて「対象」があり、そこに「距離」がないと見えない。目(視覚)というのは「距離」のなかで成立する感覚である。
 この詩で動いている伊藤のことばは、「対象」との「距離」がない。「対象」が「からだ」そのものになっている。伊藤が裸で大地を歩いていると私が錯覚したのは「裸」の方が大地と密着するからである。余分なものがない。「距離」がない。
 だから、私は伊藤がまさか飛行機に乗っているとは、終わりの数行に出会うまで気がつかなかった。

 へえーっ、そうなのか。そうなんだ。
 何がそうなんだか--それは、ことばにならないのだけれど、そうなんだ、と思ってしまう。

 そして、伊藤が飛行機に乗って、これから「町」に降り立つとわかっても、私はまたちがったことを感じてしまう。「誤読」してしまう。
 伊藤は「町」に「なる」のだ、と。
 伊藤が、これまで雲になり、森になり、大陸になり、川になったように、これから「町」に「なる」。「暮らし」に「なる」。そして、女に「なる」。
 そうか、そうなんだ。
 そうやって、伊藤は「自分(私)」に「なる」のだ。「帰る」というのは「私になる」ことなのだ、と思った。

 「誤読」だったと理解し、読み返してみても、私の「誤読」はかわらなかった。つまり、飛行機に乗って、空から大陸を見ている--と読んでしまうと、ぜんぜんおもしろくない。大陸を裸で歩いていると読むのが「誤読」だとしたら、飛行機に乗って、そこから見える風景と伊藤は「一体」になっていた。見える風景は伊藤の「からだ」そのものだった--と読み直すだけである。
 いとうのことばの強い響き。そのリズムは、対象と伊藤の「からだ」の一体感から生まれている、と私は思う。この大陸は伊藤の「からだ」なのである。「町」は伊藤の「からだ」なのである。






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スティーヴン・スピルバーグ監督「タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密」(★★★)

2011-12-07 10:31:47 | 映画
監督 スティーヴン・スピルバーグ、出演 ジェイミー・ベル、アンディ・サーキス、ダニエル・クレイグ

 この映画の一番おもしろいシーンは、砂漠が突然大海原にかわるところである。アンディ・サーキス船長がアルコールが切れ、禁断症状のなかで見るあざやかな記憶(おじいさんの体験、父だったかな?)なのだが、砂漠のうねりが、そのまま巨大な波のうねりになり、その向こう側から帆船があらわれる。「未知との遭遇」で巨大宇宙船が山を超えながら宙返りをするシーンみたいに、うわーっと声をもらしてしまう。
 次におもしろいのは、そのアンディ・サーキス船長が宿敵の海賊の末裔ダニエル・クレイグとクレーンで対決するシーン。これは大航海時代に船長と海賊が帆船で闘ったときの再現。クレーンは巨大なマスト。船のいのちであるマストをぶつけ合って相手の船を破壊するように、クレーンをぶつけ合って闘う。そうか、帆船なんていまは滅多にないから、帆船の闘いは再現できないのだ。
 で、こうやって書いてみて思うのだが、あれっ、主役は? 一番おもしろいシーンでタンタンが活躍していないではないか。「ユニコーン号の秘密」なので、タンタンは脇役にまわったということかな? 狂言回しにまわったということかな?
 うーん。
 ちょっと、違うなあ。何か、映画の王道を外していない?

 タンタンの登場するシーンでおもしろいのはふたつある。ひとつは海賊をバイクで追跡するシーン。途中でバイクが壊れ、空中に舞い上がる。洗濯物(?)を干すロープか電線(?)をバイクの破片を利用して滑車のように滑っていく。もうひとつは、海賊の鷹(?)に盗まれた手紙を奪い合うシーン。タンタンが鷹の脚にぶらさがる。
 このふたつは、アニメならではの嘘があってとてもいい。特に鷹のシーン。ロープのシーンは、まあ、実写でもありうる映像だが、鷹の脚にぶらさがるというのは実写では絶対にむり。タンタンがいくら軽くても人間に脚をつかまれたまま鷹は飛べない。アニメになると、人間は「重量」をもたなくなる。その利点を生かしている。
 でも、この重量のないキャラクターというのは、同時に別の問題も持っている。どんな危険が迫っても、その危険が生身の危険という感じがしない。どうせ、紙に描かれたもの、という感じがしてしまう。
 たとえばプロペラ機で逃げるシーン。途中、タンタンが落ちそうになる。頭が(髪が)プロペラにまきこまれそうになる。とっても危ないのに、ぜんぜんはらはらしない。実写の人間の顔ならきっとはらはらするのに……。
 (船長と海賊がクレーンで闘うシーンも、重量感はないのだけれどね。)

 こうやって書いてみてあらためて思うのだが、この映画はアニメの利点と欠点を併せ持っている。欠点を克服しきれていない。
 それでもなんとかおもしろいのは、映像のスピードによる。いろいろなアクションがあるが、どのアクションも実写よりワンテンポ速い。人間の行動では再現不可能なスピードでキャラクターが動く。
 このスピードは、もし、この映画にスローモーションのシーンがあれば、もっと引き立っただろう。たとえば「マトリックス」でキアヌ・リーブスが弾丸をよけるときのイナバウアーのようなシーンが。この映画では「スロー」はフランス人の2人組の刑事が担っているのだが、それは「頭」ではわかっても、視覚ではどうもちぐはぐである。うまく拮抗しない。興奮につながらない。意識して見なかったが、たぶん、刑事のアクションも実写よりは速いのかもしれない。
 3D映画ではスローなシーンはむずかしいのかもしれないが、スローな映像があると、この映画は、もっと生々しくなる。あ、スピルバーグは生々しい感覚は嫌い? そうかもしれないね。

 書きそびれたが、本編前の、タンタンの活躍を描いたシルエットのアニメがとてもよかった。「ピンクパンサー」のアニメのようなものだが、軽快でスマートでうれしくなる。




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