詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

西岡寿美子「畑で祖父(じい)やんと」

2011-12-02 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
西岡寿美子「畑で祖父(じい)やんと」(「二人」294 、2011年12月05日発行)

 西岡寿美子「畑で祖父(じい)やんと」は畑仕事をしているとき、「祖父やん」がふいにあの世からやってくる詩である。と、書いてしまったら、うーん、あとをどうつづけていいのかわからなくなるのだが、その祖父やんがやってくる直前の部分、そしてそれがそのまま祖父やんにつながっていく部分が、あ、いいなあ。思わず声が出る。

こうして
畑で年を数えるようになって何年になるか
爪元は逆剥け
背も腰も痛んで這い這いだが
幼い目が見覚えていた農の手順再現に
どれだけ骨を折ってきたことか

それを静かに見守ってくれたのは
父方の繁之助祖父やんで
予告もなく
柿の木の下へひょっ、と現れるのには驚くが

 「幼い目が見覚えていた農の手順再現に/どれだけ骨を折ってきたことか」の「見覚えていた」が強い。
 私は百姓の子どもだったので「わかる」のかもしれないが、仕事というのは「見覚える」ものなのである。人が働くのを見る。それを「からだ」全体で真似る。見ながら、自分の「からだ」の動きと、「手本」をただ見比べて「覚える」。
 そうか、あれは「見・覚える」だったのか。
 もちろん父や母は、いくらか教えてはくれるのだが、それはやはり教えてもらうというよりは、見て、「からだ」で覚える。
 しかし、不思議なものだなあ。「見・覚える」といっても、そのとき自分自身の姿を鏡か何かに映してみて、「手本」と違うということを発見するのではない。「見て」、それを真似るのけれど、どうも何かが違うと感じる。このとき「手本」を「見る」のは「目」だが、自分の「からだ」の動きを見るのは「目」ではない。「目」では自分の「からだ」の動きは見えない。
 何が見えるか。たとえば、鍬で耕した畑の土、その掘り起こし具合が見える。そして、そこから逆算するように(?)、自分の「からだ」が見える。「からだ」は直接見えるのではなく、耕された畑の土の状態から、想像力をとおして見える。もちろん、これは方便であって、そのとき「想像力」というものなど、子どもは(子どもだった私は)考えはしない。
 で、そういう肉体労働を繰り返していると、なんといえばいいのだろうか、畑を耕したときの土の状態から、あ、父に似てきたなあ、私のからだの動きはいくらか父の領域に似てきたなあ、とこれは手本を見るわけでも、私のからだを見るわけでもないのに、感じるのである。わかるのである。
 これが「見覚える」。「見て・(からだで)覚える」かな。そして、そのとき「からだ」は--「からだ」は、とことわるのは「目」ではなく、という意味である。「からだ」全体が「目」になって、耕した畑の土も、そこにいない父をも「見る」。
 何かを「見覚え」たなら、そこから先は「目」ではなく、「からだ」が見るのである。
 で、「からだ」がそういう状態になったとき、西岡は、ふいに「祖父やん」を見る。もちろん、それは「目」で見るのではない。「からだ」で見るのである。「肉体」で「見る」のである。そして、「覚えている」ことを思い出すのである。
 たとえば、西岡が苦労して畑仕事を、なんとか「覚えている」かたちですすめているとき、それを見守ってくれているひとがいることに。その祖父やんは、きっと西岡の父が仕事を「見覚える」ときの手本になったひとだろう。祖父-父-西岡と結ぶ時間が、その瞬間、一気に凝縮する。結晶する。「からだ」そのものになる。「見覚える」とは、そういう変化を引き起こすものである。
 そうして、その瞬間、時間が結晶するということは。
 ちょっといいかげんな言い方になってしまうが、時間を超越するということなのだ。時間が、時間の幅(?)というか、長さ(?)を失って、大きさがなくなる。過去も未来もなくなってしまう。
 「この世」「あの世」の区別がなくなる。

そうか
あの時からあちらの世界は始まるのか
温顔で
清げな痩せ身の人であったが
この頃では顎の下に白い山羊髭まで蓄え
何やら神さびて
祖父やんは
仙人さんというものになったんやね

 「そうか」というのは、まあ、いいかげんな言い方だが、「そうか」なのだ。「そうか」としか言えない。「からだ」が勝手に納得してしまう。
 「あちらの世界」なんて、「目」では見えない。でも「からだ」でなら見える。そして、そのとき「あちらの世界」が見えるのは、「からだ」が「仕事」を「見覚えている」からなのである。
 --この言い方は、きっと、伝わらないなあ。何を書いているか、わからない、と言われてしまいそうだなあ。
 でも、そういう具合にしか、私には言えない。書けない。
 「からだ」が「見覚える」。そしてしっかり「見覚える」と、それから先は「からだ」が見るのである。「からだ」のなかに、世界が始まるのである。
 そうして、つぎのようなことが起きる。

 お前(まん)は鈍いが筋は悪うはない
 うん
 大根、高菜の肥料やりも丁度(ぼっちり)じゃ

声ではない声がわたしに聞こえる

 「見る」が「目」ではなく、「からだ」で「見る」であったように、「聞く」も「耳」ではなく「からだ」で「聞く」。からだで聞いている声は、ほかのひとには聞こえない。それはいわゆる「声」ではないのだ。西岡の「からだ」だけが聞くことができる「声」である。「声」は西岡の「からだ」のなかに響いているのだ。






北地-わが養いの乳
西岡 寿美子
西岡寿美子
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八柳李花ー谷内修三往復詩(7)

2011-12-02 01:38:08 | 
歌が逆さまに落ちてゆく  谷内修三



 歌が逆さまに落ちてゆく街角で、きのう私はほんとうの分岐点を見つけたと思い、そのことばの角を曲がってみたが、新しいものはなにもなかった。アスファルトの色が変わるところに立てば、十一月の冷気がしみついた枯葉の比喩も、日記の罫線のような薄い雨の比喩も、どんな意味かわかってしまった。

 前を歩く男のことばのふりをして歩きはじめてみるが(追い抜かないように)、痛みを抱えてうずくまっているはずのことばは、私が近づくと幾つものに分かれ、地下鉄の階段を互いに追いかけるように駆け降りてゆくか、交差し、ぶつかりあって違う音になり、方角をあいまいに散乱させてしまうのだった。

 こんなところで見つけられるものは、気を紛らわすためにメモ帳のことばを消した瞬間に感じる漠然とした余白だけである。あるいは繰り返したどる、いつものことばの道順そのものである。結局私は、同じ論理を二度と踏まないために、強引に分岐点を作っただけに過ぎない。

 歌が逆さまに落ちてゆく街角で、
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