西岡寿美子「畑で祖父(じい)やんと」(「二人」294 、2011年12月05日発行)
西岡寿美子「畑で祖父(じい)やんと」は畑仕事をしているとき、「祖父やん」がふいにあの世からやってくる詩である。と、書いてしまったら、うーん、あとをどうつづけていいのかわからなくなるのだが、その祖父やんがやってくる直前の部分、そしてそれがそのまま祖父やんにつながっていく部分が、あ、いいなあ。思わず声が出る。
「幼い目が見覚えていた農の手順再現に/どれだけ骨を折ってきたことか」の「見覚えていた」が強い。
私は百姓の子どもだったので「わかる」のかもしれないが、仕事というのは「見覚える」ものなのである。人が働くのを見る。それを「からだ」全体で真似る。見ながら、自分の「からだ」の動きと、「手本」をただ見比べて「覚える」。
そうか、あれは「見・覚える」だったのか。
もちろん父や母は、いくらか教えてはくれるのだが、それはやはり教えてもらうというよりは、見て、「からだ」で覚える。
しかし、不思議なものだなあ。「見・覚える」といっても、そのとき自分自身の姿を鏡か何かに映してみて、「手本」と違うということを発見するのではない。「見て」、それを真似るのけれど、どうも何かが違うと感じる。このとき「手本」を「見る」のは「目」だが、自分の「からだ」の動きを見るのは「目」ではない。「目」では自分の「からだ」の動きは見えない。
何が見えるか。たとえば、鍬で耕した畑の土、その掘り起こし具合が見える。そして、そこから逆算するように(?)、自分の「からだ」が見える。「からだ」は直接見えるのではなく、耕された畑の土の状態から、想像力をとおして見える。もちろん、これは方便であって、そのとき「想像力」というものなど、子どもは(子どもだった私は)考えはしない。
で、そういう肉体労働を繰り返していると、なんといえばいいのだろうか、畑を耕したときの土の状態から、あ、父に似てきたなあ、私のからだの動きはいくらか父の領域に似てきたなあ、とこれは手本を見るわけでも、私のからだを見るわけでもないのに、感じるのである。わかるのである。
これが「見覚える」。「見て・(からだで)覚える」かな。そして、そのとき「からだ」は--「からだ」は、とことわるのは「目」ではなく、という意味である。「からだ」全体が「目」になって、耕した畑の土も、そこにいない父をも「見る」。
何かを「見覚え」たなら、そこから先は「目」ではなく、「からだ」が見るのである。
で、「からだ」がそういう状態になったとき、西岡は、ふいに「祖父やん」を見る。もちろん、それは「目」で見るのではない。「からだ」で見るのである。「肉体」で「見る」のである。そして、「覚えている」ことを思い出すのである。
たとえば、西岡が苦労して畑仕事を、なんとか「覚えている」かたちですすめているとき、それを見守ってくれているひとがいることに。その祖父やんは、きっと西岡の父が仕事を「見覚える」ときの手本になったひとだろう。祖父-父-西岡と結ぶ時間が、その瞬間、一気に凝縮する。結晶する。「からだ」そのものになる。「見覚える」とは、そういう変化を引き起こすものである。
そうして、その瞬間、時間が結晶するということは。
ちょっといいかげんな言い方になってしまうが、時間を超越するということなのだ。時間が、時間の幅(?)というか、長さ(?)を失って、大きさがなくなる。過去も未来もなくなってしまう。
「この世」「あの世」の区別がなくなる。
「そうか」というのは、まあ、いいかげんな言い方だが、「そうか」なのだ。「そうか」としか言えない。「からだ」が勝手に納得してしまう。
「あちらの世界」なんて、「目」では見えない。でも「からだ」でなら見える。そして、そのとき「あちらの世界」が見えるのは、「からだ」が「仕事」を「見覚えている」からなのである。
--この言い方は、きっと、伝わらないなあ。何を書いているか、わからない、と言われてしまいそうだなあ。
でも、そういう具合にしか、私には言えない。書けない。
「からだ」が「見覚える」。そしてしっかり「見覚える」と、それから先は「からだ」が見るのである。「からだ」のなかに、世界が始まるのである。
そうして、つぎのようなことが起きる。
お前(まん)は鈍いが筋は悪うはない
うん
大根、高菜の肥料やりも丁度(ぼっちり)じゃ
「見る」が「目」ではなく、「からだ」で「見る」であったように、「聞く」も「耳」ではなく「からだ」で「聞く」。からだで聞いている声は、ほかのひとには聞こえない。それはいわゆる「声」ではないのだ。西岡の「からだ」だけが聞くことができる「声」である。「声」は西岡の「からだ」のなかに響いているのだ。
西岡寿美子「畑で祖父(じい)やんと」は畑仕事をしているとき、「祖父やん」がふいにあの世からやってくる詩である。と、書いてしまったら、うーん、あとをどうつづけていいのかわからなくなるのだが、その祖父やんがやってくる直前の部分、そしてそれがそのまま祖父やんにつながっていく部分が、あ、いいなあ。思わず声が出る。
こうして
畑で年を数えるようになって何年になるか
爪元は逆剥け
背も腰も痛んで這い這いだが
幼い目が見覚えていた農の手順再現に
どれだけ骨を折ってきたことか
それを静かに見守ってくれたのは
父方の繁之助祖父やんで
予告もなく
柿の木の下へひょっ、と現れるのには驚くが
「幼い目が見覚えていた農の手順再現に/どれだけ骨を折ってきたことか」の「見覚えていた」が強い。
私は百姓の子どもだったので「わかる」のかもしれないが、仕事というのは「見覚える」ものなのである。人が働くのを見る。それを「からだ」全体で真似る。見ながら、自分の「からだ」の動きと、「手本」をただ見比べて「覚える」。
そうか、あれは「見・覚える」だったのか。
もちろん父や母は、いくらか教えてはくれるのだが、それはやはり教えてもらうというよりは、見て、「からだ」で覚える。
しかし、不思議なものだなあ。「見・覚える」といっても、そのとき自分自身の姿を鏡か何かに映してみて、「手本」と違うということを発見するのではない。「見て」、それを真似るのけれど、どうも何かが違うと感じる。このとき「手本」を「見る」のは「目」だが、自分の「からだ」の動きを見るのは「目」ではない。「目」では自分の「からだ」の動きは見えない。
何が見えるか。たとえば、鍬で耕した畑の土、その掘り起こし具合が見える。そして、そこから逆算するように(?)、自分の「からだ」が見える。「からだ」は直接見えるのではなく、耕された畑の土の状態から、想像力をとおして見える。もちろん、これは方便であって、そのとき「想像力」というものなど、子どもは(子どもだった私は)考えはしない。
で、そういう肉体労働を繰り返していると、なんといえばいいのだろうか、畑を耕したときの土の状態から、あ、父に似てきたなあ、私のからだの動きはいくらか父の領域に似てきたなあ、とこれは手本を見るわけでも、私のからだを見るわけでもないのに、感じるのである。わかるのである。
これが「見覚える」。「見て・(からだで)覚える」かな。そして、そのとき「からだ」は--「からだ」は、とことわるのは「目」ではなく、という意味である。「からだ」全体が「目」になって、耕した畑の土も、そこにいない父をも「見る」。
何かを「見覚え」たなら、そこから先は「目」ではなく、「からだ」が見るのである。
で、「からだ」がそういう状態になったとき、西岡は、ふいに「祖父やん」を見る。もちろん、それは「目」で見るのではない。「からだ」で見るのである。「肉体」で「見る」のである。そして、「覚えている」ことを思い出すのである。
たとえば、西岡が苦労して畑仕事を、なんとか「覚えている」かたちですすめているとき、それを見守ってくれているひとがいることに。その祖父やんは、きっと西岡の父が仕事を「見覚える」ときの手本になったひとだろう。祖父-父-西岡と結ぶ時間が、その瞬間、一気に凝縮する。結晶する。「からだ」そのものになる。「見覚える」とは、そういう変化を引き起こすものである。
そうして、その瞬間、時間が結晶するということは。
ちょっといいかげんな言い方になってしまうが、時間を超越するということなのだ。時間が、時間の幅(?)というか、長さ(?)を失って、大きさがなくなる。過去も未来もなくなってしまう。
「この世」「あの世」の区別がなくなる。
そうか
あの時からあちらの世界は始まるのか
温顔で
清げな痩せ身の人であったが
この頃では顎の下に白い山羊髭まで蓄え
何やら神さびて
祖父やんは
仙人さんというものになったんやね
「そうか」というのは、まあ、いいかげんな言い方だが、「そうか」なのだ。「そうか」としか言えない。「からだ」が勝手に納得してしまう。
「あちらの世界」なんて、「目」では見えない。でも「からだ」でなら見える。そして、そのとき「あちらの世界」が見えるのは、「からだ」が「仕事」を「見覚えている」からなのである。
--この言い方は、きっと、伝わらないなあ。何を書いているか、わからない、と言われてしまいそうだなあ。
でも、そういう具合にしか、私には言えない。書けない。
「からだ」が「見覚える」。そしてしっかり「見覚える」と、それから先は「からだ」が見るのである。「からだ」のなかに、世界が始まるのである。
そうして、つぎのようなことが起きる。
お前(まん)は鈍いが筋は悪うはない
うん
大根、高菜の肥料やりも丁度(ぼっちり)じゃ
声ではない声がわたしに聞こえる
「見る」が「目」ではなく、「からだ」で「見る」であったように、「聞く」も「耳」ではなく「からだ」で「聞く」。からだで聞いている声は、ほかのひとには聞こえない。それはいわゆる「声」ではないのだ。西岡の「からだ」だけが聞くことができる「声」である。「声」は西岡の「からだ」のなかに響いているのだ。
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