平出隆「蕾滴(抄)」(2)(「現代詩手帖」2011年12月号)
きのう書いたことの繰り返しになるのかもしれないけれど。
は、なぜ、次のようなスタイルではないのか。
「頭」で論理的(?)に考えれば、2連、対の形式の方が「意味」として把握しやすいはずである。--というか、対になっていることが、論理形式として見えてくる。
論理というのは不思議なもので、そこにほんとうの論理がなくても、形式が繰り返されると、その形式がひとつの論理のように動いてしまう。形式があるからには、形式自体を支える論理があり、それが「ことば」の意味を超えて自己主張し、読者は(私だけかもしれないが)騙されてしまう。つまり、そこから何かを読みとれるはずだと思い込んでしまう。
論理はほとんどが思い込みであり、その思い込みを、あれやこれやと強引にことばにしてみせるだけのものである。文学とか哲学とか芸術の場合は。物理学になると、ものの存在、運動が論理を「実証」するが、芸術の場合(芸術の論理の場合)、その「実証」というのはむずかしい。何によって「実証」されるといえるのか、よくわからない。
人間の行動によって、ということになるかもしれない。芸術が人間の行動を律していくとき、人間の暮らしをととのえていくとき、幻術の論理は「実証」されるといえるかもしれない。
でもねえ、空論だねえ。
そんなこと、わからないよなあ。
書きながら、私の考えはずいぶんといいかげんなのもだと、ときどきいやになる。
平出の今回の詩の場合、この不思議な「形式破り」のスタイルは、何を実証しているだろうか。そこから人間のどんな行動が見えてくるのか。その行動、その肉体は、私にどんなふうに影響してくるか。どんな印象を与えるか--そのことを書けばいいのかもしれない。私の肉体の体験を語るためにことばを動かせばいいのかもしれない。
私は、今回の平出の詩を読んだ瞬間につまずいたのである。私の肉体が、変な具合に宙ぶらりんになったのである。
この1行には動詞がない。「物の名よ、」というのは、私には呼びかけに聞こえる。そのことばを読むとき、私の肉体のなかには、何か呼びかけるときの声の出し方というものが動く。「よ」ということばひとつが、そういう感覚を呼び覚ます。
けれど、「器につく塵のように。」ということばが、その感覚をすぐに否定する。
「物の名よ、」が「物の名」に対する呼びかけならば、そのあとに「……せよ(しなさい)」というような「命令形」が来る。私の「文の意識」(ことばの肉体)は、そういう動きを予測しながら身構える。準備する。ところが、ことばは、そういう具合に動かない。ここで、私の肉体は、つまずく。私のことばの肉体もつまずく。
「逸脱」を感じるのである。
宙ぶらりんの場にほうりだされたように感じるのである。
そして、その宙ぶらりんの「ひと呼吸」(1行の空白)ののち、平出のことばは、
と動く。この「呼ぶとは」とは「物の名よ、」ということばを「肉体」ではなく「頭」で反復(あるいは反省?)したものである。
「物の名よ、」と呼びかけたのに、その呼びかけを完了せずに、いま自分の肉体のしたこと(ことばのにくたいのしたこと)を、頭が反芻し、いったい何をしたのかと省みている。
呼ぶとは、いったいどういうことか--自問している。
「肉体」は停止し、「頭」が動きはじめる。
「頭の論理」がぐいっというか、ぐにゅっというか、変な力で割り込んでくる。
ここには多くのことばが省略されている。平出の「頭」だけが知っていることばが省略されている。平出の頭にとってわかりきったことばが省略されている。
その省略されたことばを私の勝手で補ってみれば、
ということになる。そして、その場合「何か」と私が仮に呼んだものは、1行目のことばをたよりに言い換えれば、
ということになる。
ここで平出のことばは、「呼ぶ」という「動詞」の哲学を考えるふりをしながら(?)、「呼ばれた・物」という「名詞」にずれていく。
この「ずれの呼吸」が、「呼ぶとはそれを、」ということばのリズム、呼吸になる。
私は、
と平出のことばを書き換えてみたが、そのとき私は「何かを」ということばだけではなく、「呼ぶとは」のあとに読点「、」を補った。つまり、呼吸を補った。
平出の、
には、私の「呼吸」がない。
私の肉体(同時に私のことばの肉体)が「呼吸」するところで、平出は「呼吸」していない。ひとつづきの息のなかで、私の感じている「切断」を渡り切り、「切断」を否定し、「接続」(連続)に変えてしまう。
ここで、私の肉体は完全につまずく。肉体の違いを感じる。平出の肉体(ことばの運動)についていくには、私の肉体は鍛え直さないとむりがうまれる。--つまり、このままでは、ついていけない。(フェルプスのクロールについけいけないようなものである。)
平出の「息」(呼吸、肺活量)は強く、大きい。
という1行は、「呼ぶとは」と「それを」を一息につなげてしまう力で、直前の1行あきをさかのぼり、器の「塵」にたどりつき、「器に/つく(ついている)」「塵」を吹き立てる。
肉体が、その呼吸の強さが、ことばのにくたいに反映して、一気に世界を攪拌する。
「物の名」がテーマなのか、「呼ぶ」がテーマなのか、「塵」がテーマなのか、わからなくなる。
テーマはそれぞれの個別の存在(あるいは行為)ではなく、連続した集合体なのである。結合なのである。
平出の肉体は、私がそれぞれに分離して考えるものを「ひとつ」に結合し、その結合体をそのまま動かす。
平出の肉体(ことばの肉体)には、私のもっていない強い「接着力」がある。瞬間接着剤のように、触れた瞬間にものとものを結びつけてしまう力がある。
呼吸--呼吸のリズムの中に、それがある。
その「接着力」の強さが、次の、「幻よ、」ではじまる1行を、一気に引き寄せてしまう。
「頭」の論理、「頭」で考えることばの運動では、
と対になって整理した方が便利なことばが、肉体の力でねじまげられ、
となっている。
--というのは、しかし、正確(?)な言い方ではないだろう。正確な把握の仕方ではないだろう。
あとから呼吸にあわせてことばを調整したのではなく、ことばが肉体からでてくるとき、自然に、そこにそういうリズムと、論理の不思議な飛躍が紛れ込んだのである。
肉体の「正直」がことばを屈折させるのだ。
そして、この屈折が、平出のことばの輝きである。
それは--肉体を例にいえば、たとえば役者が無理なポーズで動く。そのとき役者の肉体の無理な力が働いている部分で、肉体が輝くのに似ている。はりつめた筋肉にライトがあたり、そのライトが強く反射する、というのに似ている。
平出のことばを借りていえば、肉体の無理の上で、「光が折れ曲」がるのである。
これは、逆の言い方をすれば、平出の肉体、ことばの肉体は、光さえも屈折させ、光を輝かせる、ということになる。
すごい力業だなあ。
きのう書いたことの繰り返しになるのかもしれないけれど。
物の名よ、器につく塵のように。
呼ぶとはそれを、息をふるつて吹き立てることか。幻よ、大地に露のつくように。
見るとはそれを、折れ曲つた光のてあしで、踏みしだくことか。
は、なぜ、次のようなスタイルではないのか。
物の名よ、器につく塵のように。
呼ぶとはそれを、息をふるつて吹き立てることか。
幻よ、大地に露のつくように。
見るとはそれを、折れ曲つた光のてあしで、踏みしだくことか。
「頭」で論理的(?)に考えれば、2連、対の形式の方が「意味」として把握しやすいはずである。--というか、対になっていることが、論理形式として見えてくる。
論理というのは不思議なもので、そこにほんとうの論理がなくても、形式が繰り返されると、その形式がひとつの論理のように動いてしまう。形式があるからには、形式自体を支える論理があり、それが「ことば」の意味を超えて自己主張し、読者は(私だけかもしれないが)騙されてしまう。つまり、そこから何かを読みとれるはずだと思い込んでしまう。
論理はほとんどが思い込みであり、その思い込みを、あれやこれやと強引にことばにしてみせるだけのものである。文学とか哲学とか芸術の場合は。物理学になると、ものの存在、運動が論理を「実証」するが、芸術の場合(芸術の論理の場合)、その「実証」というのはむずかしい。何によって「実証」されるといえるのか、よくわからない。
人間の行動によって、ということになるかもしれない。芸術が人間の行動を律していくとき、人間の暮らしをととのえていくとき、幻術の論理は「実証」されるといえるかもしれない。
でもねえ、空論だねえ。
そんなこと、わからないよなあ。
書きながら、私の考えはずいぶんといいかげんなのもだと、ときどきいやになる。
平出の今回の詩の場合、この不思議な「形式破り」のスタイルは、何を実証しているだろうか。そこから人間のどんな行動が見えてくるのか。その行動、その肉体は、私にどんなふうに影響してくるか。どんな印象を与えるか--そのことを書けばいいのかもしれない。私の肉体の体験を語るためにことばを動かせばいいのかもしれない。
私は、今回の平出の詩を読んだ瞬間につまずいたのである。私の肉体が、変な具合に宙ぶらりんになったのである。
物の名よ、器につく塵のように。
この1行には動詞がない。「物の名よ、」というのは、私には呼びかけに聞こえる。そのことばを読むとき、私の肉体のなかには、何か呼びかけるときの声の出し方というものが動く。「よ」ということばひとつが、そういう感覚を呼び覚ます。
けれど、「器につく塵のように。」ということばが、その感覚をすぐに否定する。
「物の名よ、」が「物の名」に対する呼びかけならば、そのあとに「……せよ(しなさい)」というような「命令形」が来る。私の「文の意識」(ことばの肉体)は、そういう動きを予測しながら身構える。準備する。ところが、ことばは、そういう具合に動かない。ここで、私の肉体は、つまずく。私のことばの肉体もつまずく。
「逸脱」を感じるのである。
宙ぶらりんの場にほうりだされたように感じるのである。
そして、その宙ぶらりんの「ひと呼吸」(1行の空白)ののち、平出のことばは、
呼ぶとは
と動く。この「呼ぶとは」とは「物の名よ、」ということばを「肉体」ではなく「頭」で反復(あるいは反省?)したものである。
「物の名よ、」と呼びかけたのに、その呼びかけを完了せずに、いま自分の肉体のしたこと(ことばのにくたいのしたこと)を、頭が反芻し、いったい何をしたのかと省みている。
呼ぶとは、いったいどういうことか--自問している。
「肉体」は停止し、「頭」が動きはじめる。
「頭の論理」がぐいっというか、ぐにゅっというか、変な力で割り込んでくる。
呼ぶとはそれを、
ここには多くのことばが省略されている。平出の「頭」だけが知っていることばが省略されている。平出の頭にとってわかりきったことばが省略されている。
その省略されたことばを私の勝手で補ってみれば、
何かを呼ぶとは、その呼んだ対称である何かを、
ということになる。そして、その場合「何か」と私が仮に呼んだものは、1行目のことばをたよりに言い換えれば、
物の名を呼ぶとは、その呼んだ対称である物を、
ということになる。
ここで平出のことばは、「呼ぶ」という「動詞」の哲学を考えるふりをしながら(?)、「呼ばれた・物」という「名詞」にずれていく。
この「ずれの呼吸」が、「呼ぶとはそれを、」ということばのリズム、呼吸になる。
私は、
何かを呼ぶとは、その呼んだ対称である何かを、
と平出のことばを書き換えてみたが、そのとき私は「何かを」ということばだけではなく、「呼ぶとは」のあとに読点「、」を補った。つまり、呼吸を補った。
平出の、
呼ぶとはそれを、
には、私の「呼吸」がない。
私の肉体(同時に私のことばの肉体)が「呼吸」するところで、平出は「呼吸」していない。ひとつづきの息のなかで、私の感じている「切断」を渡り切り、「切断」を否定し、「接続」(連続)に変えてしまう。
ここで、私の肉体は完全につまずく。肉体の違いを感じる。平出の肉体(ことばの運動)についていくには、私の肉体は鍛え直さないとむりがうまれる。--つまり、このままでは、ついていけない。(フェルプスのクロールについけいけないようなものである。)
平出の「息」(呼吸、肺活量)は強く、大きい。
呼ぶとはそれを、息をふるつて吹き立てることか。
という1行は、「呼ぶとは」と「それを」を一息につなげてしまう力で、直前の1行あきをさかのぼり、器の「塵」にたどりつき、「器に/つく(ついている)」「塵」を吹き立てる。
肉体が、その呼吸の強さが、ことばのにくたいに反映して、一気に世界を攪拌する。
「物の名」がテーマなのか、「呼ぶ」がテーマなのか、「塵」がテーマなのか、わからなくなる。
テーマはそれぞれの個別の存在(あるいは行為)ではなく、連続した集合体なのである。結合なのである。
平出の肉体は、私がそれぞれに分離して考えるものを「ひとつ」に結合し、その結合体をそのまま動かす。
平出の肉体(ことばの肉体)には、私のもっていない強い「接着力」がある。瞬間接着剤のように、触れた瞬間にものとものを結びつけてしまう力がある。
呼吸--呼吸のリズムの中に、それがある。
その「接着力」の強さが、次の、「幻よ、」ではじまる1行を、一気に引き寄せてしまう。
「頭」の論理、「頭」で考えることばの運動では、
物の名よ、器につく塵のように。
呼ぶとはそれを、息をふるつて吹き立てることか。
幻よ、大地に露のつくように。
見るとはそれを、折れ曲つた光のてあしで、踏みしだくことか。
と対になって整理した方が便利なことばが、肉体の力でねじまげられ、
物の名よ、器につく塵のように。
呼ぶとはそれを、息をふるつて吹き立てることか。幻よ、大地に露のつくように。
見るとはそれを、折れ曲つた光のてあしで、踏みしだくことか。
となっている。
--というのは、しかし、正確(?)な言い方ではないだろう。正確な把握の仕方ではないだろう。
あとから呼吸にあわせてことばを調整したのではなく、ことばが肉体からでてくるとき、自然に、そこにそういうリズムと、論理の不思議な飛躍が紛れ込んだのである。
肉体の「正直」がことばを屈折させるのだ。
そして、この屈折が、平出のことばの輝きである。
それは--肉体を例にいえば、たとえば役者が無理なポーズで動く。そのとき役者の肉体の無理な力が働いている部分で、肉体が輝くのに似ている。はりつめた筋肉にライトがあたり、そのライトが強く反射する、というのに似ている。
平出のことばを借りていえば、肉体の無理の上で、「光が折れ曲」がるのである。
これは、逆の言い方をすれば、平出の肉体、ことばの肉体は、光さえも屈折させ、光を輝かせる、ということになる。
すごい力業だなあ。
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