長谷川龍生「羅漢さん土踏んだ」(「現代詩手帖」2011年12月号)
長谷川龍生「羅漢さん土踏んだ」(初出「歴程」576 、08月発行)は「羅漢」について知っていないとわからないことが書かれているのかもしれない。「羅漢が土を踏む」というのは「意味」が共有されていることがらかもしれない。私は無教養なので、何も知らない。その何も知らない人間がこの詩を読むと、どんなふうに「誤読」するか--きょうの日記はその証明(?)である。
羅漢--について私がわかることは、仏教と関係があるということだけである。羅漢像というものがあるから、仏像なのだろう。私は、見たことがあるかもしれないが、意識できないから見ていないのとかわりはない。
長谷川の詩は次のようにはじまる。
タイトルは「羅漢」なのだが、書き出しは「らかんさん」である。ひらがな表記、さらに「さん」づけされているのは、長谷川にとっては羅漢がなじみのあるもの、親しみのあるものをあらわしていると思う。そのらかんさんが、「見えない石脚の下の方/こまかく 力づよく 土を踏む」というのだが、「見えない石脚」とはなんだろうか。羅漢像ができていて、その脚は「ここ」からは見えないのだが、それが土を踏んでいる、ということだろうか。
何のために?
大震災の詩を読みつづけてきたので、土ということばから私はどうしても大地を思い出してしまう。地震を引き起こした大地。それを踏んでいるのか、と思う。
何のために、かは、まだわからない。わからないけれど、勝手に揺れる大地を鎮めようとしていると想像してしまう。
想像にあわせるようにして、2連目を読みはじめる。
地下に眠る「霊」に、何かを伝える。そうするとこで「地に不動の力」を奮い立たせようとしている。長谷川は「振るい立たせる」という文字をつかっているが、これは、ちょっと不気味である。「振るい」は「地震」とつながって見える。しかし、「不動の力」は「地震」とは逆のものだろう。「不動」は「振動(震動)」とは逆のものだろう。何か、ここには矛盾したものがあるのだが--羅漢は、揺れた大地を「不動」にするための力を地の底から呼び覚まそうとして、土を踏んでいる。
わからないまま、私は、そういう願いをこのことばに夢見る。
詩のつづき。
「凶」は大震災の被害を連想させる。その「凶」を打ち砕こうとしている。「凶」の力を踏みくだこうとしている。
ここまでは、私が先に勝手に想像したように、大地震を起こした大地を鎮めようとしている羅漢というものが浮かび上がってくる。
そのあとが、私にはとても興味深い。
「先守り」は「防人」だろうか。まあ、よくわからないのだが「守」という文字から、やはり何かを守ろうとしている羅漢を想像するのだが、それが
これはつまり、大地の表面(?)を境にして、鏡像のようにして羅漢が地底にいるということになる。それが、地表の羅漢の脚の下にいる。脚の裏(足の裏)をあわせるようにして立っている。
で、不思議。
地上の羅漢が暴れる土を踏みしめるとき、地震は押さえつけられる、というのは想像しやすい。
しかし、もし、地底の羅漢が地表にむけて大地を踏みしめるなら、大地は揺れ、地震がおきるのではないのか? そんなことがまた起きないように、地上の羅漢は地底の大地の脚を脚裏から押さえつけている?
そうなのかな? でも、そうだとしても、変だなあ。
羅漢は仏教と関係がある--という私のテキトウな思い込みが正しいのなら、なぜ仏教と関係のある羅漢が人が苦しむ地震を引き起こすようなことをする?
変だよねえ。
この「変だなあ」が、次の連で、一気に逆転する。あ、この逆転は日本語になっていないね。私は何か、あ、そうなのか、と突然、「変」と感じていたことを忘れてしまって、何か納得してしまったのだ。
いままでとは違った「夢」に、突然目覚めたのである。
土に生きる--そのとき、ひとは無意識に土を踏む。土の上に立たないことには(土を踏まないことには)、土を耕すことも、土からの恵みも収穫できない。土に感謝しながら、それでも土を踏む。それが土を生きることである。そこにはやはり糧を得ているものを踏む(踏みつける)という「矛盾」がある。
矛盾なのだが、それが生きることであり、矛盾だから思想なのだが……。
この矛盾した「踏む」が矛盾ではなく「くらし」のなかに生きるのは、きっと大地の底で、人間によってでこぼこにされた地底から見た大地をならして生きる羅漢がいるからである。地上からの力を受けとめる羅漢がいるからである。
そういうことを長谷川は言おうとしているのではないのだろうか。
地底の羅漢よ、いままでのように、地底から地表を支える力を呼び覚ませ、と呼びかけているのではないのか。
どんな力も矛盾したものである。破壊することは創造することである。創造するためには破壊しなければならない。けれど、そのときの破壊は破壊のための破壊であってはならない。そうではなく、創造のための破壊であることが重要なのだ。
--というのは、ちょっと私が「頭」で考えたことで、書きながら、あ、何かずれてしまったという思いがある。
私が、この連で、何かが突然「わかった」と感じたのは、
この1行の「おぼえたのだろう」、「おぼえる」ということばに出会ったからである。私たちには「知っている」こと以外に「おぼえている」ことがある。
ここから、どんどん脱線していく(詩から離れていく)のだが--というか、我田引水(誤読)になるのだが。
この作品の最初のことば「らかんさん」。この「羅漢」については、私は何も知らない。けれど、「らかんさん」という言い方に、あ、長谷川は羅漢をとても身近に感じているということを感じる。それは「知っている」ではなく、私の「おぼえている」ことがらと重なるのだ。何々仏、ということばを、たとえば私の母を知らない。知らないまま「ほとけさん」という。「さん」をつけて呼ぶとき、その対称を知っているわけではないけれど、自分と切り離せないものと感じている、そのときの「感じ」が「さん」にこめられる。このことを私は「知っている」ではなく「おぼえている」。母が「ほとけさん」といっていたことをおぼえていることをとおして。
で、「らかんさん」。私は羅漢については何も知らない。けれど、それが仏教と関係していることは「おぼえている」。仏教と関係する仏や僧を「○○さん」という呼び方をすることを、私は「おぼえている」のだ。
で、(さらに、で、である)。
私は、いま急に気がついたのだ。私は、仏教のことなど何も理解していないくせに「なんまいだぶつ」と毎晩仏壇に向かって声をあげる母をバカにしていたが、母は仏教のことは何も知らないが、「なんまいだぶつ」といえば極楽へ行けると信じ、それを「おぼえていた」。この「おぼえる」はきっと強い。知識では極楽へ行けないが、肉体(たましい)が「おぼえている」なら、その肉体(たましい)は極楽へしか行けない。人間は「おぼえている」ところへ勝手に進んでしまうのだ。「おぼえる」ために「なんまいだぶつ」と繰り返していたのだ。私の肉体(たましい)は、何もおぼえていないから、極楽へは行けないなあ。地獄へも行けないなあ。
脱線した。
長谷川は「羅漢」のことをもちろん知っているのだろうけれど、その「知っている」が「おぼえている」にまで深まっている。肉体になっている。そして、その「おぼえている」ことが、いま、長谷川のことばを動かしている。
そう感じた瞬間、私は「わかった」と感じたのだ。この「わかった」はほんとうは「わかった」ではないかもしれない。実際、私は何がわかったのか、きちんと言うことができない。けれど、長谷川はほんとうのことを言っている。長谷川の言っていることは、わからないけれど、信じていいのだ、と思ったのだ。長谷川は「おぼえている」ことを言っている。
こういうことばは信じていい。間違っていない。--私の肉体が「おぼえている」ことと、しっかり重なり合う。
私が何かをする。そのとき、反対側(?)で私の間違いを正してまっすぐにするように何かが動いている。その動きを感じて、自分のできることをしつづけること。繰り返されてきたことがら、肉体が「おぼえている」ことがらをていねいによみがえらせれば、そこから未来ははじまる--そういうことを私は「おぼえている」。私の記憶ではないかもしれない。それは「いつの日 おぼえたのだろう」か、きっと、私のうまれる前から私の肉体が「おぼえている」ことだと思う。
長谷川の詩の最後は、とても美しい。長谷川のことばの先に「極楽」がある、と感じてしまう。何が書いてあるのか説明しろ、谷内のことばで言いなおしてみろ、と言われたら、私のことばはつまずくだけだが、声に出して読みたい、そこにある音を自分の肉体の中へ取り入れたいという気持ちが知らず知らずわいてくるのだ。
ここには長谷川の「しっている」とこばではなく、「おぼえている」ことばだけが動いている。
「生きよう!」--その美しい響き。おぼえたい。おぼえなければならいない。
長谷川龍生「羅漢さん土踏んだ」(初出「歴程」576 、08月発行)は「羅漢」について知っていないとわからないことが書かれているのかもしれない。「羅漢が土を踏む」というのは「意味」が共有されていることがらかもしれない。私は無教養なので、何も知らない。その何も知らない人間がこの詩を読むと、どんなふうに「誤読」するか--きょうの日記はその証明(?)である。
羅漢--について私がわかることは、仏教と関係があるということだけである。羅漢像というものがあるから、仏像なのだろう。私は、見たことがあるかもしれないが、意識できないから見ていないのとかわりはない。
長谷川の詩は次のようにはじまる。
らかんさん 肩よせあい
思い思いの顔つき 仕ぐさをするが
見えない石脚の下の方
こまかく 力づよく 土を踏む
タイトルは「羅漢」なのだが、書き出しは「らかんさん」である。ひらがな表記、さらに「さん」づけされているのは、長谷川にとっては羅漢がなじみのあるもの、親しみのあるものをあらわしていると思う。そのらかんさんが、「見えない石脚の下の方/こまかく 力づよく 土を踏む」というのだが、「見えない石脚」とはなんだろうか。羅漢像ができていて、その脚は「ここ」からは見えないのだが、それが土を踏んでいる、ということだろうか。
何のために?
大震災の詩を読みつづけてきたので、土ということばから私はどうしても大地を思い出してしまう。地震を引き起こした大地。それを踏んでいるのか、と思う。
何のために、かは、まだわからない。わからないけれど、勝手に揺れる大地を鎮めようとしていると想像してしまう。
想像にあわせるようにして、2連目を読みはじめる。
らかんの石脚 土踏んだ
地の下の霊に 何か伝えている
土を踏みつつ 地に不動の力を振るい立たせようとしている
らかんさんの石脚 土踏んだ
地下に眠る「霊」に、何かを伝える。そうするとこで「地に不動の力」を奮い立たせようとしている。長谷川は「振るい立たせる」という文字をつかっているが、これは、ちょっと不気味である。「振るい」は「地震」とつながって見える。しかし、「不動の力」は「地震」とは逆のものだろう。「不動」は「振動(震動)」とは逆のものだろう。何か、ここには矛盾したものがあるのだが--羅漢は、揺れた大地を「不動」にするための力を地の底から呼び覚まそうとして、土を踏んでいる。
わからないまま、私は、そういう願いをこのことばに夢見る。
詩のつづき。
凶を踏みくだいている 果報をよこせ
あさの露くさの下 すこし力をよこせ
地の霊の先守りは もう一体のらかんさん
石脚の下に もう一体のらかん さかさまに屹立し 埋(うず)もれている
「凶」は大震災の被害を連想させる。その「凶」を打ち砕こうとしている。「凶」の力を踏みくだこうとしている。
ここまでは、私が先に勝手に想像したように、大地震を起こした大地を鎮めようとしている羅漢というものが浮かび上がってくる。
そのあとが、私にはとても興味深い。
「先守り」は「防人」だろうか。まあ、よくわからないのだが「守」という文字から、やはり何かを守ろうとしている羅漢を想像するのだが、それが
石脚の下に もう一体のらかん さかさまに屹立し 埋(うず)もれている
これはつまり、大地の表面(?)を境にして、鏡像のようにして羅漢が地底にいるということになる。それが、地表の羅漢の脚の下にいる。脚の裏(足の裏)をあわせるようにして立っている。
で、不思議。
地上の羅漢が暴れる土を踏みしめるとき、地震は押さえつけられる、というのは想像しやすい。
しかし、もし、地底の羅漢が地表にむけて大地を踏みしめるなら、大地は揺れ、地震がおきるのではないのか? そんなことがまた起きないように、地上の羅漢は地底の大地の脚を脚裏から押さえつけている?
そうなのかな? でも、そうだとしても、変だなあ。
羅漢は仏教と関係がある--という私のテキトウな思い込みが正しいのなら、なぜ仏教と関係のある羅漢が人が苦しむ地震を引き起こすようなことをする?
変だよねえ。
この「変だなあ」が、次の連で、一気に逆転する。あ、この逆転は日本語になっていないね。私は何か、あ、そうなのか、と突然、「変」と感じていたことを忘れてしまって、何か納得してしまったのだ。
いままでとは違った「夢」に、突然目覚めたのである。
土を踏み込む脚さばきは
いつの日 おぼえたのだろう
とおいらかんさんの親たち み親たち
野に山に 仕事を汗に 踏んでいた
土に生きる--そのとき、ひとは無意識に土を踏む。土の上に立たないことには(土を踏まないことには)、土を耕すことも、土からの恵みも収穫できない。土に感謝しながら、それでも土を踏む。それが土を生きることである。そこにはやはり糧を得ているものを踏む(踏みつける)という「矛盾」がある。
矛盾なのだが、それが生きることであり、矛盾だから思想なのだが……。
この矛盾した「踏む」が矛盾ではなく「くらし」のなかに生きるのは、きっと大地の底で、人間によってでこぼこにされた地底から見た大地をならして生きる羅漢がいるからである。地上からの力を受けとめる羅漢がいるからである。
そういうことを長谷川は言おうとしているのではないのだろうか。
地底の羅漢よ、いままでのように、地底から地表を支える力を呼び覚ませ、と呼びかけているのではないのか。
どんな力も矛盾したものである。破壊することは創造することである。創造するためには破壊しなければならない。けれど、そのときの破壊は破壊のための破壊であってはならない。そうではなく、創造のための破壊であることが重要なのだ。
--というのは、ちょっと私が「頭」で考えたことで、書きながら、あ、何かずれてしまったという思いがある。
私が、この連で、何かが突然「わかった」と感じたのは、
いつの日 おぼえたのだろう
この1行の「おぼえたのだろう」、「おぼえる」ということばに出会ったからである。私たちには「知っている」こと以外に「おぼえている」ことがある。
ここから、どんどん脱線していく(詩から離れていく)のだが--というか、我田引水(誤読)になるのだが。
この作品の最初のことば「らかんさん」。この「羅漢」については、私は何も知らない。けれど、「らかんさん」という言い方に、あ、長谷川は羅漢をとても身近に感じているということを感じる。それは「知っている」ではなく、私の「おぼえている」ことがらと重なるのだ。何々仏、ということばを、たとえば私の母を知らない。知らないまま「ほとけさん」という。「さん」をつけて呼ぶとき、その対称を知っているわけではないけれど、自分と切り離せないものと感じている、そのときの「感じ」が「さん」にこめられる。このことを私は「知っている」ではなく「おぼえている」。母が「ほとけさん」といっていたことをおぼえていることをとおして。
で、「らかんさん」。私は羅漢については何も知らない。けれど、それが仏教と関係していることは「おぼえている」。仏教と関係する仏や僧を「○○さん」という呼び方をすることを、私は「おぼえている」のだ。
で、(さらに、で、である)。
私は、いま急に気がついたのだ。私は、仏教のことなど何も理解していないくせに「なんまいだぶつ」と毎晩仏壇に向かって声をあげる母をバカにしていたが、母は仏教のことは何も知らないが、「なんまいだぶつ」といえば極楽へ行けると信じ、それを「おぼえていた」。この「おぼえる」はきっと強い。知識では極楽へ行けないが、肉体(たましい)が「おぼえている」なら、その肉体(たましい)は極楽へしか行けない。人間は「おぼえている」ところへ勝手に進んでしまうのだ。「おぼえる」ために「なんまいだぶつ」と繰り返していたのだ。私の肉体(たましい)は、何もおぼえていないから、極楽へは行けないなあ。地獄へも行けないなあ。
脱線した。
長谷川は「羅漢」のことをもちろん知っているのだろうけれど、その「知っている」が「おぼえている」にまで深まっている。肉体になっている。そして、その「おぼえている」ことが、いま、長谷川のことばを動かしている。
そう感じた瞬間、私は「わかった」と感じたのだ。この「わかった」はほんとうは「わかった」ではないかもしれない。実際、私は何がわかったのか、きちんと言うことができない。けれど、長谷川はほんとうのことを言っている。長谷川の言っていることは、わからないけれど、信じていいのだ、と思ったのだ。長谷川は「おぼえている」ことを言っている。
こういうことばは信じていい。間違っていない。--私の肉体が「おぼえている」ことと、しっかり重なり合う。
私が何かをする。そのとき、反対側(?)で私の間違いを正してまっすぐにするように何かが動いている。その動きを感じて、自分のできることをしつづけること。繰り返されてきたことがら、肉体が「おぼえている」ことがらをていねいによみがえらせれば、そこから未来ははじまる--そういうことを私は「おぼえている」。私の記憶ではないかもしれない。それは「いつの日 おぼえたのだろう」か、きっと、私のうまれる前から私の肉体が「おぼえている」ことだと思う。
長谷川の詩の最後は、とても美しい。長谷川のことばの先に「極楽」がある、と感じてしまう。何が書いてあるのか説明しろ、谷内のことばで言いなおしてみろ、と言われたら、私のことばはつまずくだけだが、声に出して読みたい、そこにある音を自分の肉体の中へ取り入れたいという気持ちが知らず知らずわいてくるのだ。
ここには長谷川の「しっている」とこばではなく、「おぼえている」ことばだけが動いている。
地上からも踏み込む 地下からも踏み上げる
一つに 一面に 一糸に 未来を指す音
あなたが もし 無名のらかんさんならば
もう一体のらかんが 石脚の下に 佇(た)つ
らかんさん 肩よせあい
思い思いの顔つき 仕ぐさをするのが
石脚の下 もう一体のらかん 個の力量で 過去をさばき
土を踏み 地の上をたたき 「宇(う)」をにらみつける
五百羅漢の石脚 土を踏んでいる
地の上の「化生(けしょう)」に 何かをつたえる
土を踏みつつ 地の知恵を 一系の愛のコトバを投げかけている 生きよう!
らかんさんの石脚 きいヴも 土踏んだ
「生きよう!」--その美しい響き。おぼえたい。おぼえなければならいない。
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