小原宏延「木馬のように」(「ひょうたん」45、2011年11月15日発行)
比喩とはなんだろうか。私は単純に、いま/ここにあるのものを、いま/ここにないものを借りて言いなおすことだと考えている。言いなおす--とは、いままでとは違ったところへ行くということである。
小原宏延「木馬のように」は、そういう比喩の力のあり方を、とても自然に語っている。
野外のどこか、公園の一角なのだろうか。何個かの形の違った椅子が置かれている。何につかわれていたのかわからない。向きはばらばらである。
私が引用したのは2連目から。「無言の枝」の「無言」が少しうるさい感じがする。「枝」は無言にきまっている。しゃべったりしたら、びっくりしてしまう。こういう神経にさわってくるような比喩を私は「うるさい」と感じる。
「瞬間の微塵の音」もうるさい。「瞬間」と小さい単位である。そこでは音が小さくても不思議ではない。大きい音にも一瞬の音というものがあるだろうけれど、瞬間と小さい(微、および塵)は似通っていて、裏切られた気持ちになれない。比喩は、一瞬、意識が裏切られ、それから一気に逆流してくるものだ。うらぎりがないところに比喩は存在しない。それでも比喩にしてしまうとき、そこにうるささがあふれてくる。
「光の雨音」もうるさい。光には音がない。--という点ではこの比喩は常識を裏切っている。光はまた雨の日ではなく晴れた日の方が明るい。そして量がきっと多い。そういう意味では、雨もまた常識を裏切った比喩である。ところが、重なってしまうと、裏切りが裏切りではなく、作為が目についてしまう。自然に生まれてきた「比喩」ではなく、作り上げた「比喩」という感じがするのだ。--私は、つくられた「比喩」を否定しているわけではないのだが、この、一種の「流通言語」的な比喩は好きになれない。
その、私の嫌いな比喩の問題は、ここではもう触れないことにして。
おもしろいのは、少し地味(?)比喩をつかったためにだろうと想像するのだが、3連目では比喩が氾濫する。比喩をつかうことによって脳が覚醒し、暴走しはじめるのかもしれない。
とは、言っても。
「底の磨り減ったあまり/ぽっかりと穴のあいた旅の靴」はロマンチックだけれど、その分、振るい感じが残る。「握りしめる力がついに尽きて/草むらに落ちた最後の鉛筆」もロマンチックである。「夜の空に駆け上がり/ただひとつだけ/点っていた夢の電燈」もなんだか大正時代(あ、私は、もちろん知らないのだけれど)みたいだ。
ふーん、と思いながら読んでいたのだが。
次の、
が唐突で、びっくりする。
これは何?
最終連で、馬(木馬)の顔だとわかる。
あれっ、最終連の1行が、先走り(おくれて? どっちだろう)、前の連に紛れ込んでしまう。
ほんとう(?)ならば、つまり学校教科書の「作文文法」では1行あきは、「点っていた夢の電燈」と「その顔をあげよ」のあいだになければならない。
で、ここが、とってもおもしろい。突然、この詩を好きになってしまう。
古くさい(?)比喩だけれど、比喩をつかったために、ことばが自分自身の肉体で動きはじめるのだ。小原の意識を突き破って動いてしまうのだ。
比喩が追いかけているものが何なのか、よくわからない。「旅の靴」「鉛筆」「夢の電燈」というふうに書いてみたが、何かが違う。ことばがもっと違うところへ行きたがっている。そして、実際に、行ってしまう。
「その顔」と書いているけれど、「その」が指し示すことばは「その」の前にはない。その先に、最終連にあるのだが、まるで予言するように(予知するように)、「その」が動いてしまう。
ふと見えたものを、忘れないうちに書いておく。
学校作文の文法では、そういうことが許されないだろうけれど、詩は、許される。
予知を確かめるようにして、最終連のことばが動く。
椅子は木馬。木馬は、次の瞬間ほんものの馬にかわり、タテガミも必要になってくる。 ここが、ほんとうに楽しい。
遠くから見ると、椅子は黒い木馬のように「見える」。小原は書いていないが、木馬のように「見える」。その「見える木馬」が、「見えない」タテガミを立てている。
「見える」と「見えない」が共存しているのである。この共存は「矛盾」である。「見える」ものが「見えない」というのは変である。
だからこそ、ここに詩があるのだ。
小原は、それまで「見える」比喩を書いてきた。「見える比喩」というのは、もうありきたりになってしまっているということかもしれない。古い、ロマンチックという感じがするのは、ありきたりだからかもしれない。
それが最後になって「見えない」が(ほんとうに、いま/ここに存在しないものが)出てきて、強烈な光を放つ。ほんとうに「いま/ここ」では「見えない」ものだからこそ、「比喩になる」必要があったのだ。
比喩を動かしているうちに、ほんとうの比喩が出てきて、小原のことばをのっとってしまったのである。これはことばの肉体のしわざである。
いいなあ。
比喩とはなんだろうか。私は単純に、いま/ここにあるのものを、いま/ここにないものを借りて言いなおすことだと考えている。言いなおす--とは、いままでとは違ったところへ行くということである。
小原宏延「木馬のように」は、そういう比喩の力のあり方を、とても自然に語っている。
野外のどこか、公園の一角なのだろうか。何個かの形の違った椅子が置かれている。何につかわれていたのかわからない。向きはばらばらである。
その椅子の座板を
無言の枝から落ちてきた
木の実がひとつ打ち叩く
瞬間の微塵の響きを聴いたのだ
きりもない光の雨音が
降っては消え
消えては降るそのあいだに
これはもしかすると
底の磨り減ったあまり
ぽっかりと穴のあいた旅の靴
握りしめる力がついに尽きて
草むらに落ちた最後の鉛筆
夜の空に駆け上がり
ただひとつだけ
点っていた夢の電燈
その顔をあげよ
遠くから見ると
すべての椅子は
黒い木馬のように
木の実の音に遅れまいと
見えないタテガミを逆立てて
風に盛んにふるえていた
(谷内注・「タテガミ」の原文は漢字。髪の下の方が「友」ではなく
「鼠」に似ている。私は目が悪いのでよくわからない。たぶん、タ
テガミと読むのだと思う。)
私が引用したのは2連目から。「無言の枝」の「無言」が少しうるさい感じがする。「枝」は無言にきまっている。しゃべったりしたら、びっくりしてしまう。こういう神経にさわってくるような比喩を私は「うるさい」と感じる。
「瞬間の微塵の音」もうるさい。「瞬間」と小さい単位である。そこでは音が小さくても不思議ではない。大きい音にも一瞬の音というものがあるだろうけれど、瞬間と小さい(微、および塵)は似通っていて、裏切られた気持ちになれない。比喩は、一瞬、意識が裏切られ、それから一気に逆流してくるものだ。うらぎりがないところに比喩は存在しない。それでも比喩にしてしまうとき、そこにうるささがあふれてくる。
「光の雨音」もうるさい。光には音がない。--という点ではこの比喩は常識を裏切っている。光はまた雨の日ではなく晴れた日の方が明るい。そして量がきっと多い。そういう意味では、雨もまた常識を裏切った比喩である。ところが、重なってしまうと、裏切りが裏切りではなく、作為が目についてしまう。自然に生まれてきた「比喩」ではなく、作り上げた「比喩」という感じがするのだ。--私は、つくられた「比喩」を否定しているわけではないのだが、この、一種の「流通言語」的な比喩は好きになれない。
その、私の嫌いな比喩の問題は、ここではもう触れないことにして。
おもしろいのは、少し地味(?)比喩をつかったためにだろうと想像するのだが、3連目では比喩が氾濫する。比喩をつかうことによって脳が覚醒し、暴走しはじめるのかもしれない。
とは、言っても。
「底の磨り減ったあまり/ぽっかりと穴のあいた旅の靴」はロマンチックだけれど、その分、振るい感じが残る。「握りしめる力がついに尽きて/草むらに落ちた最後の鉛筆」もロマンチックである。「夜の空に駆け上がり/ただひとつだけ/点っていた夢の電燈」もなんだか大正時代(あ、私は、もちろん知らないのだけれど)みたいだ。
ふーん、と思いながら読んでいたのだが。
次の、
その顔をあげよ
が唐突で、びっくりする。
これは何?
最終連で、馬(木馬)の顔だとわかる。
あれっ、最終連の1行が、先走り(おくれて? どっちだろう)、前の連に紛れ込んでしまう。
ほんとう(?)ならば、つまり学校教科書の「作文文法」では1行あきは、「点っていた夢の電燈」と「その顔をあげよ」のあいだになければならない。
で、ここが、とってもおもしろい。突然、この詩を好きになってしまう。
古くさい(?)比喩だけれど、比喩をつかったために、ことばが自分自身の肉体で動きはじめるのだ。小原の意識を突き破って動いてしまうのだ。
比喩が追いかけているものが何なのか、よくわからない。「旅の靴」「鉛筆」「夢の電燈」というふうに書いてみたが、何かが違う。ことばがもっと違うところへ行きたがっている。そして、実際に、行ってしまう。
その顔をあげよ
「その顔」と書いているけれど、「その」が指し示すことばは「その」の前にはない。その先に、最終連にあるのだが、まるで予言するように(予知するように)、「その」が動いてしまう。
ふと見えたものを、忘れないうちに書いておく。
学校作文の文法では、そういうことが許されないだろうけれど、詩は、許される。
予知を確かめるようにして、最終連のことばが動く。
椅子は木馬。木馬は、次の瞬間ほんものの馬にかわり、タテガミも必要になってくる。 ここが、ほんとうに楽しい。
遠くから見ると、椅子は黒い木馬のように「見える」。小原は書いていないが、木馬のように「見える」。その「見える木馬」が、「見えない」タテガミを立てている。
「見える」と「見えない」が共存しているのである。この共存は「矛盾」である。「見える」ものが「見えない」というのは変である。
だからこそ、ここに詩があるのだ。
小原は、それまで「見える」比喩を書いてきた。「見える比喩」というのは、もうありきたりになってしまっているということかもしれない。古い、ロマンチックという感じがするのは、ありきたりだからかもしれない。
それが最後になって「見えない」が(ほんとうに、いま/ここに存在しないものが)出てきて、強烈な光を放つ。ほんとうに「いま/ここ」では「見えない」ものだからこそ、「比喩になる」必要があったのだ。
比喩を動かしているうちに、ほんとうの比喩が出てきて、小原のことばをのっとってしまったのである。これはことばの肉体のしわざである。
いいなあ。