詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

江代充「トポスの夢」

2011-12-14 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
江代充「トポスの夢」(「現代詩手帖」2011年12月号)

 江代充の詩は、私にはわかりにくい。「トポスの夢」(初出「文藝春秋」11年02月号)は父の愛人のことを書いているのだろうか。

父が以前なじみの人をそこに住まわせていたが
いまはあまり表立たず
ただ古いままであるという離れの空部屋が
家の裏手の一部に据え置かれている
わきの通路の塀ぎわに倒されたまま
不規則に積みかさなった木材の高みから
枝のあるとなりの家の木々が手ずからわたしに口伝えをする
祭りの行われる場所へあの人が向かっていて
左右に石垣の支えのある
静かな道のなかに来ているということを

 ある1行が、どのことばと接続しているのかわからない。そして、わからないことによって、その1行がすくっと立っている。たとえば2行目の「いまはあまり表立たず」。これは何の述語? あるいは何の修飾節?
 「なじみの人」が「いまはあまり表立たず」なのか。
 「いまはあまり表立たず」は「離れ空き部屋」を修飾しているのか。
 もし「離れの空部屋」を修飾しているのだとしたら、その直前の「ただ古いままであるという」は何? 「いまはあまり表立たず」といっしょになって、「離れの空部屋」を修飾している? そのとき「古いままであるという」の「という」は何? 伝聞? だれからの?
 そして、「離れの空部屋が」の「が」は「離れの空部屋」が「主語」であることを告げているが、では、その「述語」は? 次の行の「据え置かれている」なのか。変だねえ。「離れの空部屋」は「据え置かれる」もの? 部屋って「据え置く」もの? 椅子なら「据え置く」ことができる。でも「部屋」は? きっと、これは「空部屋」は「空部屋」のまま、据え置かれている、放置されている、ほったらかしにされている、ということなのだろう。
 という具合に、なんとか「意味」(論理)を追っていると。

 あれ? 私は「いまはあまり表立たず」という2行目を問題にしていたのではなかったっけ……。

 そうなんだなあ、知らない内に、意識がどこかへずれていく。それも形をなくしてというのではなく、固いまま(?)というか、固まったまま、何かをくぐりぬけて、別なところへ流動してしまっているのに気がつく。
 そして、その流動にのっかって流れるままに、

いまはあまり表立たず……据え置かれている

 という「論理的(?)」な構文ができあがり、そうか、「離れの空部屋」はもう誰にも注目されることもなく(ほら、父の愛人がそこにいるよ、とささやかれることもなく)、空部屋のまま放置されている。誰もつかわない状態がつづいている、という「意味」になる。

 だけなら、いいのだが。

 いま解決(?)したばかりの「据え置かれている」は、次の行の「わきの通路の塀際に倒されたまま」「据え置かれる」という具合にも読むことができる。えっ、空部屋が、「倒されたまま」「据え置かれる」? 
 変だねえ。
 変です。
 「据え置かれる」は、さらに次の行の「不規則に積みかさなった木材」に連結してしまう。「木材」が「据え置かれる」--ね、文章になるでしょ? 「意味」になるでしょ? そのとき「不規則に積みかさなったまま」は「木材」を修飾することばになる。
 この「不規則のまま積みかさなった」ということばの働きは、その前にみた「ただ古いままであるという」ということばに似ている。「ただ古いままであるという」は「いまはあまり目立たず」ということばをいったん切断し、独立させる。そうして、独立-孤立させておいて、その切断する力によって、次の「据え置かれている」へとジャンプして接続する。
 何かを飛び越し、何かが流動する。障害物(?)を飛び越して、遠くにあるものが一気に結びつく。--けれど、その飛び越しは「方便」としての表現であって、印象としては飛び越しではなく流動である。

 あ、何か、書いていることが、おかしいね。

 簡単に(?)言い直すと、江代のことばは、脈絡がねじれている。切断と接続が、「学校教科書」の文章のようにすっきりしていない。そして、そのことばは「意味」を無視して、あ、この響き、いいじゃないか、この1行美しいじゃないか、というような印象だけを浮かび上がらせる。

いまはあまり表立たず

 いいでしょ? どこかにつかいたいでしょ? 何に、どういう具合につかうかめどがあるわけではないけれど、このことばをさりげなくつかうとおもしろいだろうなあ、と思う。ちょっと盗作したくなる。そして、この1行は盗作したって、だれにもわからない。特に特徴があるわけではない。その1行自体に「意味」があるわけではないのだから。
 で、そんなふうにして書いてみると。
 そういうふうに特に目立たないことばを1行として独立させ、さらに、その1行をまわりのことばに次々に触れさせながら流動させ、気がついたら別のことばと接続しているという具合に動かすのが江代のことばの運動なのだと気づく。

 気づくのだけれど。
 で、これは何?

 「木材」から「枝」を通り越して「木々」が結びついたあと、

祭りの行われる場所へあの人が向かっていて
左右に石垣の支えのある
静かな道のなかに来ているということを

 あの人(父の愛人)が「向かっていて」、「来ている」。どこかへ向かっている? それともどこかから「来ている」。どっち? 「向かう」と「来る」は方角が反対で、そんなことばが結びついたら「矛盾」でしょ?
 「矛盾」か……。しかし、これが「矛盾」ではないのだなあ。
 「視点」を固定すると「向かう」と「来る」は矛盾する。しかし、父の愛人が「向かう」「来る」という運動をすることを先回りして、「わたし(江代)」が先回りしていたら? 向かう先へ先について、そこで出迎えると「来る」になる。
 江代のことばの「視点」は複数ある。複合する視点がことばを統一している。
 これは、絵で言うと「キュビズム」になるのかな? キュビズムから発達した、たとえばピカソの「泣く女」のような感じになるのかな? ひとつの「存在」が複数の視点からとらえおなされ「平面」に統一された絵。右から見た目と正面から見た目がひとつの顔のなかに統一された絵。時間も複数の時間がある。1分前、5分前の表情がひとつに組み合わされた絵。--それと同じことを、江代は、ことばでやっているのだ。
 だから、わからない。1行1行、あるいはそれぞれの部分部分は納得できるが、それが同じ詩のなかのどのことばと結合しているのか、よくわからない。どのことばとも結合しながら、結合する瞬間に、形をかえる。意味をかえる。「主語」「述語」の関係が一定しない。時間も一定しない。でも、それを無理に「ひとつ」の関係に限定せず、動いているのだ、と思うと--つまり、自分を(読者の視線を)流動させると、そこにひとつの「場」が浮かび上がってくる。「トポス」が浮かび上がってくる。



隅角 ものかくひと
江代 充
思潮社
コメント
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