詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山口賀代子「薔薇園(Ⅱ)」

2011-12-27 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
山口賀代子「薔薇園(Ⅱ)」(「左庭」21、2011年12月15日発行)

 山口賀代子「薔薇園(Ⅱ)」は、書かれていることがはっきりしない。けれど、文体ははっきりしている。そこがおもしろい。

薔薇園の薔薇の根もとに埋めてきたものがある
おもいだしたくないこと
それは恥やわかいころ他人にあたえた酷い仕打ちや欺瞞だったかもしれないが
埋めたという記憶だけがのこり
こまかなできごとを忘れている あるいは
忘れたふりをしている

 「埋めてきたもの」が何であるか、ここでは明確には書かれていない。何かが書かれると、すぎにそれは否定される。「何か」は「おもいだしたくないこ」「恥」「わかいころ他人にあたえた酷い仕打ち」「欺瞞」と抽象的に語られたあと「埋めたという記憶だけ」になっている。
 「もの」(対象)は存在せず、「記憶する」という動詞だけが残っている。
 けれど、これもまたすぐに否定される。「記憶している」はずが、「こまかなできごとを忘れている」。「忘れる」という動詞が「記憶する」という動詞を否定していく。
 おもしろいのは、このあとさらに山口が「忘れたふりをしている」と書いていることである。「記憶する」も「忘れる」も否定し「ふりをする」が残る。「忘れたふりをしている」なら、「記憶しているふり」もできるはずである。
 「ふりをする」とき、「記憶する」も「忘れる」も同義なのである。正反対のこと、正反対の動詞が「同じ」になってしまう。
 山口が書いているのは、この、すべてを「同質」にしてしまうことばの運動である。
 ことばは書かれることで、すべてを「同質」にしてしまうのである。そして、この「同質」の感じが、文体を強靱にしている。

 詩に戻る。
 「記憶している」と「忘れている」は同質である。--この1連目の「定義」は2連目で繰り返される。繰り返されることによって、すべてを「同質」にする文体が、より一層強くなる。

いくつかのできごとをわたしは忘れている
あるいはなまなましく記憶している

 ここでわかることは、「同質」をつくりだすことばが、「あるいは」という逆説をあらわすことばであるということだ。
 普通「同質」なのものは、逆説ではなく、あるいは否定ではなく、「肯定」によって証明される。いいかえると、「イコール」が「同質」ということなのだが、山口は逆に「否定」が「同質」であるというのである。
 この2連目の「あるいは」は1連目の最後の方にも出ている。そして、書かれていないが、実はそれより前にも存在している。

おもいだしたくないこと
それは恥やわかいころ他人にあたえた酷い仕打ちや欺瞞だったかもしれないが

 ここに「あるいは」を補って読むことができる。わかりやすくするために(あとでする説明のために)、改行をくわえて補足してみると……。

おもいだしたくないこと
それは恥や「あるいは」
わかいころ他人にあたえた酷い仕打ちや「あるいは」
欺瞞だったかもしれないが

 という具合になる。
 「や」は普通は並列(同等)をあらわすが、山口は「同等」ではなく「あるいは」を含んだもの、逆説を含んだものとして書いていることがわかる。
 逆説というのは「イコールではない」ということなのだが、山口は逆説もまたひとつの「イコール」である。「特別なイコール」である、と言っているようである。

 逆説というイコール。「あるいは」ということばのなかには、何が動いているのか。
 ただ動くということだけをめざしているものがある。そういうエネルギーがあるのだ。そして、そのエネルギーが文体を強靱にしているのだ。

 逆説という特別なイコール。そのなかで動くもの。それは、それではいったい何の役に立つのか。わからないねえ。役に立たないかもしれない。
 だからこそ、逆説としてのイコールは「虚無」を感じさせ、虚無というのは強靱になればなるほど、手ごわい。強い印象が生まれる。どうしていいかわからない。
 虚無の逆説の強靱さを残して、ことばは動いていく。

 なまなましい記憶はいずれ薔薇の養分として吸収され
 花を咲かせるだろう
けれども忘れられ 塵のように埋められたものたちはどうなのか
かりに忘れてしまったはずのものたちが
どこかで
記憶をおもいださせようと企んでいるのだとしたら
隠蔽されたことを恨んでいるのだとはしたら
たとえそれが誰かの悪意であっても
掘りおこされ おもいだされることを待っているのだとしたら

 ここにも「あるいは」は隠れている。
 記憶をおもいださせようと企んでいるのだとしたら、「あるいは」隠蔽されたことを恨んでいるのだとはしたら。
 あ、これは、おもしろいなあ、と思う。
 「あるいは」は逆説と私は書いたが、いま補った「あるいは」はほんとうに逆説なのか。--というのは、「あるいは」だけを見ていてもわからない。
 いま補った「あるいは」は、その位置をとって占める唯一のことばか、と考えると、おかしなことが起きるのである。
 「あるいは」は絶対ではない。
 この「あるいは」は、「そして」に置き換わっても何の不思議はない。「そして」は、ふつうはことばをつみかさねるときにつかう。それも「同質」のことば、肯定のことばをつみかさねるとき(矛盾しないことがらをつみかさねるとき)、つかわれる。
 「逆説」(否定)と「肯定」には差はないのである「逆説(否定)」と「肯定」は「土質」なのである。
 --変だねえ。矛盾しているねえ。
 こういう矛盾、へんなところへ紛れ込んでいってしまうことばこそ、詩なのだと私は思う。
 で、この視点から、つまり「逆説(否定)」と「肯定」は「同質」であるというところから1連目を読み直してみる。

おもいだしたくないこと
それは恥であり、「そして」
わかいころ他人にあたえた酷い仕打ちであり、「そして」
欺瞞だったかもしれないが

 「や」は「あるいは」を含んでいると最初に読んだが、そうではなく「であり、そして」をも含んでいる。
 さて、どっちをとる?
 どっちでも、可能だ。
 ことばは、否定も肯定も区別せず、同じ強さで動いて行けるのである。

だからわたしはこうして時々薔薇園を見まわりにくる
記憶が雨に流されないように
獣にほりおこされないように
わたし自身が覚醒しないように

 これは、2種類に読むことができる。

だからわたしはこうして時々薔薇園を見まわりにくる
記憶が雨に流されないように「あるいは」
獣にほりおこされないように「あるいは」
わたし自身が覚醒しないように

だからわたしはこうして時々薔薇園を見まわりにくる
記憶が雨に流されないように「そして」
獣にほりおこされないように「そして」
わたし自身が覚醒しないように

 どう読んでも「意味」は同じである。同じになるように、「同質」になるように、山口は書いている。すべてのことばを「同質」にする虚無の文体--私は、こういう文体がとても好きである。
 そこには虚無に耐える力がある。虚無に耐えてきたから、「同質」にも耐えることができるのだと思う。











詩集 海市
山口 賀代子
砂子屋書房
コメント
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