詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

清水哲男「ブルウス」

2011-12-09 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
清水哲男「ブルウス」(「現代詩手帖」2011年12月号)

 清水哲男「ブルウス」(初出「びーぐる」10、11年01月)読みながら、あ、清水哲男はほんとうに巧い詩人だなあとあらためて思った。

夜が来る
河川敷の野球場を眺めながら
俺はバナナを食っている
わずかな水をくねらせて
高架電車が過剰な灯りを撒いて過ぎる

夜が来る
一度も喚声の上がったことのない球場に
俺の生活と同じ歳月だけは過ぎていった
罠のようだった雑草はみな枯れ果てて
バナナの皮だけが生き生きとしている

夜が来る
バナナのような女の脚が生活の音を立てて
視界をよぎる
なんてことは二度と起こらないだろう
わずかな水に俺の影が影を曳いている

夜が来る
風が俺の生活を外野のあたりに吹き散らし
バナナのようににちゃにちゃした記憶を
よみがえらせる
生活の泡が俺のコートの裾にまとわりつく

夜が来た
ようやく土手から立ち上がるとき
しかしそんな生活の歴史はバナナとともに
ちっぽけなくだらねえ神の手に落ちてしまう。

 「一度も喚声の上がったことのない球場」や「風が俺の生活を外野のあたりに吹き散らし」といった泣かせことば(さび)が抒情をくすぐり、めざめさせる。「生活」ということばをしっかり折り込み、「過ぎる」「枯れ果てる」「二度と起こらない」という「時間」を過去へ押しやりながら、意識を過去へ向けさせる(過去を意識のなかによみがえらせる)手法のことではない。
 それは、たしかに巧い。しかし、それは定石だ。
 驚くのは「バナナ」である。その不思議な効果である。
 ためしに「バナナ」をとりのぞいてみるとわかる。(当然、前後は多少は変化するが。)たとえば1、2連目。

夜が来る
河川敷の野球場を眺めている
わずかな水をくねらせて
高架電車が過剰な灯りを撒いて過ぎる

夜が来る
一度も喚声の上がったことのない球場に
俺の生活と同じ歳月だけは過ぎていった
罠のようだった雑草はみな枯れ果てる

 俺(清水)が見つめている風景は変化しない。そして、「バナナ」がないと、その風景は「純粋すぎる」。つくりものになる。ほんとうにその情景を見なくても書ける風景になる。
 ところが、ここに清水は「俺はバナナを食っている」という1行をもぐりこませる。その瞬間、頭で書ける風景が、頭では書けなくなる。
 バナナがかけ離れすぎている。
 これがレモンなら、頭でも書ける。レモンは抒情詩にたくさん書かれてきた。たくさん書かれていないかもしれないけれど、ありそうな気がする。梶井基次郎の「檸檬」や高村光太郎の詩でレモンは透明な精神(感性)の象徴になってしまった。だから、だれでも美しい何事かを書こうとすると、そこにレモンを持ってくる。レモンは抒情詩の「流通比喩」なのである。
 だから、清水は、そのレモンを遠ざける。そして、バナナを持ってくる。

 バナナ。バナナかあ。抒情的じゃないねえ。どうしてかわからないけれど、私は、そう思う。「バナナのようににちゃにちゃした」という表現が詩のなかに出てくるが、「にちゃにちゃした」ものは抒情じゃないね。
 昔は(私が子どもの頃は、という意味だが)、バナナは高級品だった。いまは、まったく違う。だれでもが、いつでも食べられる。それで抒情的ではなくなったのか。しかし、レモンだって、いまはだれもが食べるからなあ。色だって、レモンもバナナも黄色いのに、なぜだろう。
 まあ、簡単に言えば、だれもバナナをつかって抒情詩を書いて来なかったということにつきると思うのだけれど……。
 つまり、抒情というのは、だれかが書いたことを踏まえて書くものなのだということにつきるのだが……。(言い換えると、「古今」「新古今」の技法が抒情だね。)

 あ、書こうとしていることが、少しずつずれていく。

 清水が巧いのは、抒情の「定型」を崩しながら抒情を書くというところにある。
 過ぎ去る青春(過去)を悲しみでいろどりながらみつめる。ことばにする。その「定型」を守りながら(守ることで読者を安心させながら)、そこに「違和」を持ち込む。そうすることで「定型」が「定型」であることを忘れさせる。
 かつては「くだらねえ」というような乱暴な口語が「定型」を破るノイズとしてつかわれた。
 清水は、そのノイズをさらに「暮らし」の方へぐいと引き寄せる。バナナ、によって。バナナは、いまはもうだれの「暮らし」にもある。バナナを知らない「暮らし」があるとしたら、それは超高級の暮らしである。
 よくわからないけれど、たとえば天皇一家がバナナの皮を剥きながらバナナにくらいつくとか、エリザベス女王が皇太子や孫に、「ほら」といってバナナを渡して「はい、おやつ」というような「暮らし」は私には想像できない。
 バナナは、ものすごく庶民的なのだ。ありきたりすぎるくらい庶民的なのだ。「暮らし」そのものなのだ。「肉体」になりきってしまっている。
 この「肉体」としての「暮らし」のあらわし方(持ってきて、動かす方法)が、清水のいちばんいいところだと私は思う。巧いところだと思う。

 清水は、バナナの庶民の暮らしの力(肉体になっている力)で、抒情を、ごしごし洗っている。
 「ブルウス」は、ある意味では、いつもの清水節(清水的抒情)なのだが、バナナによって、とっても新鮮になっている。野球場も外野も電車も水も忘れてしまっても、きっと、あ、あのバナナを食いながら何かを見る詩、バナナの詩だね、と思い出す--そういう詩である。
 清水は、バナナを書いた最初の詩人として詩の歴史に記録されるだろうと思う。






夕陽に赤い帆―清水哲男詩集
清水 哲男
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八柳李花ー谷内修三往復詩(9)

2011-12-09 00:48:29 | 
くちびるの動きを模写しようと   谷内修三


男が射精するとき思い出すのは腋毛の古くさい倦怠である
シーツに残る汗の不機嫌なにおいが見る前の夢にまでしみ込んできて
内耳の階段を落ちていく掠れた声のかけらを集める
遅れるようにあふれてくるのはおまえのなまぬるい口臭という郷愁

シーツに残る汗の不機嫌なにおいが見る前の夢にまでしみ込んできて
部屋の隅ではコップのなかで水が蛇のように腹を白く輝かせて反転する
遅れるようにあふれてくるのはおまえのなまぬるい口臭という郷愁
くちびるの動きを模写しようと指はさまよい あてどなく

部屋の隅ではコップのなかで水が蛇のように腹を白く輝かせて反転する
いまここにないものを数え直す伏せ字の花よりも
くちびるの動きを模写しようと指はさまよい あてどなく
最後のことばを確かめるように肛門の形をなめてみる舌は

いまここにないものを数え直す伏せ字の花よりも
男が射精するとき思い出すのはふと腋毛の古くさい倦怠である
最後のことばを確かめるように肛門の形をなめてみる舌は
内耳の階段を落ちていく掠れた声のかけらを集める


                          (2011年12月09日)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする