詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹「聖火」

2011-12-28 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「聖火」(「歴程」577 、2011年12月20日発行)

 池井昌樹「聖火」は大事にしていた洋燈が引っ越した先で落下し砕け散ったときのことを書いている。いったん、書架の上に置き、それから最後の作業にかかる。
 
最後の作業に取り掛かろうとした私の何処かが書架に触れ、洋燈は落下し大音響とともに呆気無く砕け散った。引っ越しの無事を見届け自らの役は終わったとでも言わんばかりに。台所に居た妻が駆け付け無言で破片を集め始めた。私も無言で見下ろしていた。木端微塵の中に無疵のままの火屋(ほや)があった。拾い上げ、どう透かして見ても疵一つ無かった。その火屋を今は大書架の書物の隙に挿(はさ)んである。窓外の緑の戦(そよ)ぎが火屋の膚(はだえ)に映え映り、心做しか微笑んでいるように見える。
斯くして洋燈は永久(とこしえ)に喪(うしな)われ、その焔は今此処へ、私の胸へ永久に宿ることとなった。しかし、私はかつて一度たりとも洋燈の点(とも)す灯を目にしたことがあるだろうか。どうしても思い出せない。あの美しい揺らめきを、私は誰よりもよく知っているのだが。

 「斯くして洋燈は永久に喪われ、その焔は今此処へ、私の胸へ永久に宿ることとなった。」の「今此処へ」がとても美しい。
 「今此処へ」の「今」はランプが形をとどめていた「かつて」ではなく形を失ってしまった「今」。それはすぐにわかるのだが、「此処へ」の「ここ」はすぐにはわからない。「私の胸へ」と言い換えられて、はじめて、そうか「ここ」とは「胸」のことか、とわかる。
 で、わかった瞬間、あれっ、とも思う。
 ひとは大事なことは何度でも繰り返して言う。言いなおす。「ここ」は「胸」と言いなおされて、切実になる。どこかほかの場所ではなく、「肉体」の内部である「胸」、私(池井)と切り離せないものになる。
 そのとき。
 「ここ」といっしょにあった「今」は?
 「永久」に変わっている。
 私が、あれっ、と思うのはここである。
 なぜ、

その焔は今此処へ、「今」私の胸へ宿ることとなった

 ではないのか。
 「今此処へ」を正確に言いなおすなら、「今私の胸へ」である。「今」と「今」、「此処」と「胸」が対応してこそ、論理的な文になる。しかし、池井は「今」とは言わずに、「永久に」と言う。
 「今」は「永久」ではない。--だから、ここに書かれていることは矛盾していると指摘することが可能である。
 けれど、矛盾とは感じない。
 なぜなんだろう。

 また、「斯くして洋燈は永久に喪われ、その焔は今此処へ、私の胸へ永久に宿ることとなった。」という文には「永久」が繰り返される。この繰り返しも、また変だねえ。いや、変ではないかもしれないけれど、一つの文に「永久」というような重たいことば、おおげさなことばが2回繰り返されるのはみっともない--と、たぶん「学校教科書」の作文なら指摘するだろうねえ。
 なぜ、こんな、推敲されていないような印象をあたえる文を池井は書いたのか。いびつな(?)ことばの運動をさせたのかなあ。
 --と書いたのは、私の方便。
 「永久」が繰り返されることで、おもしろいことが起きている。
 「永久-今-永久」という「時間」を指すことばが、とても強烈に結びつき、「今」のなかで「ひとつ」になるのを感じるのだ。
 そして、最初の「永久」は、ランプそのものが壊れた「過去」から出発して「未来」へと動いていく時間なのに対して、胸のなかの「永久」は「今」から出発して「過去」へと動いている時間である。「胸」が思い起こすのは、「かつて」の壊れていないランプである。
 こういうふたつの逆向きの時間が結びついているが「胸」のなかという「場」なのだけれど、その「場」を、

斯くして洋燈は永久に喪われ、その焔は今私の胸へ永久に宿ることとなった。

 と「此処へ」ということばを省略した形にしてしまうと、何か、物足りない。
 「胸」は「胸」に間違いないのだけれど、「胸」の前に「此処」といってしまって、それを「胸」と言いなおす--そのときに、「此処」「胸」が「場」であるという感じが強くなり、「場」が明確だからこそ、「永久-今-永久」という矛盾した(?)時間の結晶を支えきれるように思える。

 あ、書きたいことから、ちょっと脇道にずれてしまった。
 軌道修正して、少し戻ると……。
 「永久-今-永久」という時間の結びつきは、「過去-今-未来」という現実におきた時間の流れと、「未来-今-過去」という「胸」のなかで起きている時間の流れを矛盾したまま結びつける。
 区別がつかなくなる。
 区別しようとはすればできるけれど、そういうことをするのは、とってもうるさい感じがする。
 だから、あ、「今」という一瞬において、過去と未来が結合して、それは自在にあっちへ行ったりこっちへ来たりしている、と思えばいいと思うのだ。

 で、そういう、あいまいな、というか、いいかげんな「時間」の結晶をランプが潜り抜けるとどうなるか。時間のプリズムをランプの光が潜り抜けると、それはどんなふうに屈折するか。
 これが、またまた、おもしろい。

しかし、私はかつて一度たりとも洋燈の点す灯を目にしたことがあるだろうか。どうしても思い出せない。あの美しい揺らめきを、私は誰よりもよく知っているのだが。

 私(池井)はランプに点った火を見ていない。見た記憶がない。けれど、その火の「美しい揺らめき」を知っている。--見たことがないのに、知っている。
 矛盾でしょ?
 見たことがないのに知っているのというのは、勘違いというものでしょ?
 でも、これは「見る」を肉体の目に限定してのことだね。
 想像力で、言い換えると「心の目」、つまり「胸の目」で、池井はランプの火を見ているのだ。それは、そのランプを買ったとき(買おうとしたとき)見えた火である。そして、それは「想像力」、「胸の目」で見たものだけれど、その「胸の目」こそ、池井にとっては「肉眼」なのである。「肉」になって、体のさまざまな部分で動いている(働いている)目なのである。「肉体になってしまった目」なのである。
 「私は誰よりもよく知っている」と池井は書いているが、この「私」は「私の肉・目」のことである。それは「永久-今-永久」を見ている目でもある。そしてそれは池井ひとりの目ではなく、池井の肉体のなかにある「遺伝子の目」でもある。それは「永久-今永久」のように、「いのち-池井-いのち」という形でつながっている「目」なのだ。
 この「いのち-池井-いのち」のつながりのなかで目が見るものは、すべて「美しい揺らめき」である。

池井昌樹詩集 (現代詩文庫)
池井 昌樹
思潮社
コメント
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