清水あすか「我が無く、ふるえ。」(2)(「現代詩手帖」2011年12月号)
清水あすか「我が無く、ふるえ。」についてはきのう少し感想を書いたが、どうも書き切れない。書いたという気持ちになれない。
この詩は、私にとって2012年に読んだもっともすばらしい詩である。もっとも感動した詩である。どんなものでもそうだろうけれど、感動すればするほど、書くことがないというか、書けない。ことばは、私の知っている範囲でしか動かない。けれど感動というのは、私の知らないところからやってくるから、それをどんなふうにことばにしていいのかわからないのである。
それでも、私は、それをことばにしてみたい。
すばらしい詩、優れた詩には、どんな注釈もいらない、ただ繰り返し読み、そのことばを自分の肉体のなかに取り込めばいいものだと知っているけれど、私は、やっぱり自分のことばと向き合わせてみたい。
私の読み方では清水の詩の最良の部分は見えなくなるばかりなのかもしれない。つまり、私は、読めば読むほど清水の詩から遠ざかることになってしまうのかもしれないけれど、それでも書いてみたいのである。
この1連目は舌足らずである。何が言いたいのか「正確」にはわからない。これは清水が、ことばを「流通言語」にしていないということである。「流通言語」にはできないのだ。誰もが語っていることば、いえばそのまま「意味」として他人に理解されることばには、できないのだ。
何か衝撃的なことがあると、その衝撃に打ちのめされて、学校教科書にあるような、「正しい日本語」にはならない。これはあたりまえのことである。そして、その衝撃が、まだだれによっても「正確」に語られていないなら、なおのこと、正確には書けない。
ことばは誰かから学びながら動かすものである。
自分しか知らないことを、他人にわかるように、「流通言語」ですぐに書けるはずがない。それがだれかにわかるように書けるようになるまでには時間がかかる。
木村敏夫は『日々の、すみか』で阪神大震災のことを書き、すべては遅れてやって来ると書いたが、遅れてしかやってこないのである。肉体のあらゆるところをとおって、ことばが動きはじめる。いきなり「頭」ではことばは動かせない。
清水は、「おまえ」を「おぼえている」。おまえが「と、思った」といったことを「おぼえている」。いま、ここに清水はいるのだが、そのここは「農協の跡地」であることを「おぼえている」。そして「いま資材置き場になっている」ということを知っている。それから、いま、ここが「ある」ということに直面している。
私(清水)が「いる」と、そこに何かが「ある」。そして、私(清水)が「ある」。「いる」と「ある」をどうつなげばいいのか、そのことばの回路がわからないけれど、清水はまず「ある」ということばにひっぱられている。
「ある」とはどういうことか。「知らない」。ただ「おまえ」をおぼえている。「と、思った」といったことを「おぼえている」。その「おぼえている」が、いま、ここで清水を強烈に動かしている。農協の跡地が「ある」ために。もし、農協の跡地がなければ、「ある」は清水を突き動かさないかもしれない。
失われずに「ある」ものは「ある」。それとは逆に、失われてしまったものも「ある」。同じ「ある」ということばを使いながら、肉体は、そのふたつの「ある」に引き裂かれる感じだ。
そうして、ふたつの「ある」に引き裂かれた肉体が見る(感じる、つかみとる)ものが「この世ではない」かもしれない。
「この世ではない」は、そこ(農協の跡地、資材置き場)に「ある」。しかし、それは清水が、いま、そこに、そこにはない「過去のこの世」を重ねあわせるから「この世でない」が姿をあらわすのである。
清水は「この世」を「おぼえている」。そのおぼえていることが、いま、ここを「この世でない」に「する」。
「この世でない」は、たしかに「ある」。そしてそれは「ある」のだけれど、ほんとうは清水が「この世でない」にしている。(している、という言い方はちょっと変だけれど。)清水が、「かつてのこの世」を「おぼえている」ということによって、「この世でない」が「ある」という状態になる。
では、清水が「かつてのこの世」を思い出さなければ「この世でない」は消えるのか--というと、そんな単純にはいかない。「認識」の算数、意識の算数はそんな単純な計算方法では動いてくれない。簡便な「式」がつくれない。
ことばは、どうしたって矛盾というか、どうにも整理のつかないところを動いていくしかない。
そして、このときの動き。これが、とても美しい。美しいということが清水の詩に対して適切な表現であるかどうかわからないが、私には美しく感じられる。美しいということばしか、いまの私には思いつかない。
「この世でない、がある」と知ってしまった。
それでも、ことばは「この世」とともに動いてしまう。この世を描いてしまう。木材の下の、どくだみの花。西日がさしている。どくだみの花は白い。それは「あの世」でなく「この世」の姿である。
それを見つめ、また何かを思い出す。
「おぼえている」のは、おまえが、やはり清水がどくだみの花に気がついたように、何かに気づいて、我を忘れて(余白の状態で)、何かを見つめていたということだ。おまえが何かを見つめ、立っていた。--それを「知っている」。
おまえが何を見つめていたか、何を感じていたか、それは「知らない」。けれど、ある日、立って、何かを見ていた--その「立っていた」を「おぼえている」。
そして、「おぼえている」ことと「いま/ここ」をつないでみると、
「おそろしい、になる前のおそろしさや/うつくしい、になる前のうつくしい」が「ある」ということに気がつく。
この「ある」は「農協の跡地にあるよ」「この世でない、があるよ」と同じものである。--同じものである、と仮定して、清水の「ある」にこめられた思いを辿ってみたい。
「農協の跡地にある」の「ある」を説明するとき、私は、清水が「おまえが、『と、思った』」と言ったことを「おぼえている」と書いた。「おぼえている」のは「いま」よりも「前(過去)」のことである。
「この世でない、がある」と清水が感じたのも、以前の(過去の)「この世」を「おぼえている」からである。前と比較して、いま/ここを「この世でない」と言っている。
「おぼえている」こと(前のこと)を比較・対比して、いま/ここに「ある」ものを「ある」と言っている。そして、それは「ある」ということしか言えない。ほんとうはそこに「ある」ものを「この世でない」ではなく、別なことばで言いなおさなければならないのだけれど(実際、それは「この世」なのだから)、それが言えないために、この世で「ない」という否定形をつかって、方便として言っているに過ぎない。
という2行は、「この世でない、がある」という表現のように言いなおしてみると、きっと
なのであるけれど、その「おそろしいでない」「うつくしいでない」は、言い換えることばがない。「この世でない」というような便利な(?)ことばが「流通言語」として存在しない。「おそろしいでない」「うつくしいでない」ということばはまだ存在せず、「おそろしい」「うつくしい」ということばしかない。ただし、それは清水が「おぼえている」ような「前のおそろしい」「前のうつくしい」とは完全に違っている。だから、
と書くのだが、これは
があるということであり、
ということでもある。
世界は完全に違ってしまった--それをあらわす「正しいことば」が「ない」と清水はいうのだ。
しかし、「正しいことば」がなくても、人間は語らなくてはならない。語りかけなければならない相手がいる。
清水には「おまえ」がいる。いなくなってしまった「おまえ」が「いる」。--矛盾の形でしか表現できない「おまえ」が「いる」。
「いいんだよ」はもちろん逆説である。逆説でしか、語れない。おぼえている、忘れない。そう語るとき、そこに「墓石」ではなく「石一つ」という現実が立ち上がってくる。それを正直に書く。そこに「美しい」があらわれる。
清水は人を弔うとき「墓」が必要なことを知っているのではなく「おぼえている」。「おぼえている」ことを動かして、墓石のかわりに「石一つ」をつかう。「おぼえている」ということは、肉体を動かし、何かをできるということである。そして、そのできるものを探し出せるとき、ひとはそれを「おぼえている」と言えるのである。
「だいじょうぶ」は「忘れない」「おぼえつづけている」である。おまえを「おぼえつづけている」から、と清水はおまえに言い聞かせ、自分に言い聞かせる。
言い聞かせることで「一体」になる。
でも、さびしい。
これは、絶対的な「さびしい」である。
「おそろしい」や「うつくしい」も、以前に比べると、今の方が絶対的だが、特に「さびしい」は絶対的なのだが--不思議なことに(といっていいのだろうか)、それは人と人を寄り添わせる。こころをつなぐ。
さびしいはおまえにも「ある」(あった)。それを清水は気づかないできた--というと言いすぎになるのかもしれないけれど、そのことにはっといま気がついた。それは、いま、ここにいないおまえは、いまここにいるおまえよりももっとさびしいと気づくことでもある。
「この世でない」ところを体験しているおまえ、いままで知っているおそろしいものを超える絶対的なおそろしさを体験したおまえ、そのおまえは、いまここにいる私(清水)よりも絶対的にさびしい。
たどりつけないさびしさにいる。
そういうさびしさがある。
だから、清水は、おまえに呼びかける。
おまえのさびしさを、資材置き場の余白につれてもどっておいで、石ひとつにさびしさを託してもどっておいで。おまえがどんなにさびしいか、私(清水)は「おぼえている」。だから、おまえが資材置き場の余白に、あるいは石にさびしさを託せば、それが私にはわかる。おぼえていることは間違いなくわかる。
ね、ちゃんと、おまえと会ったよ。会っているよ--清水は、そう語りかけている。
1行1行、書きすすめながら、清水はおまえに会っている。私(清水)が見ている「この世」は私一人で見ているのではない。「この世」に私が「ある」とき私ひとりではない。いつもおまえが私とともに「ある」。
さびしさでしっかり結びついて、いっしょに「ある」。
さびしくない--とはいわない。さびしい。いっしょに「さびしい」と言おう、と呼びかけている。
清水あすか「我が無く、ふるえ。」についてはきのう少し感想を書いたが、どうも書き切れない。書いたという気持ちになれない。
この詩は、私にとって2012年に読んだもっともすばらしい詩である。もっとも感動した詩である。どんなものでもそうだろうけれど、感動すればするほど、書くことがないというか、書けない。ことばは、私の知っている範囲でしか動かない。けれど感動というのは、私の知らないところからやってくるから、それをどんなふうにことばにしていいのかわからないのである。
それでも、私は、それをことばにしてみたい。
すばらしい詩、優れた詩には、どんな注釈もいらない、ただ繰り返し読み、そのことばを自分の肉体のなかに取り込めばいいものだと知っているけれど、私は、やっぱり自分のことばと向き合わせてみたい。
私の読み方では清水の詩の最良の部分は見えなくなるばかりなのかもしれない。つまり、私は、読めば読むほど清水の詩から遠ざかることになってしまうのかもしれないけれど、それでも書いてみたいのである。
おまえの「と、思った」は
農協の跡地にあるよ。
今資材置き場になっているとこだよ。
この1連目は舌足らずである。何が言いたいのか「正確」にはわからない。これは清水が、ことばを「流通言語」にしていないということである。「流通言語」にはできないのだ。誰もが語っていることば、いえばそのまま「意味」として他人に理解されることばには、できないのだ。
何か衝撃的なことがあると、その衝撃に打ちのめされて、学校教科書にあるような、「正しい日本語」にはならない。これはあたりまえのことである。そして、その衝撃が、まだだれによっても「正確」に語られていないなら、なおのこと、正確には書けない。
ことばは誰かから学びながら動かすものである。
自分しか知らないことを、他人にわかるように、「流通言語」ですぐに書けるはずがない。それがだれかにわかるように書けるようになるまでには時間がかかる。
木村敏夫は『日々の、すみか』で阪神大震災のことを書き、すべては遅れてやって来ると書いたが、遅れてしかやってこないのである。肉体のあらゆるところをとおって、ことばが動きはじめる。いきなり「頭」ではことばは動かせない。
清水は、「おまえ」を「おぼえている」。おまえが「と、思った」といったことを「おぼえている」。いま、ここに清水はいるのだが、そのここは「農協の跡地」であることを「おぼえている」。そして「いま資材置き場になっている」ということを知っている。それから、いま、ここが「ある」ということに直面している。
私(清水)が「いる」と、そこに何かが「ある」。そして、私(清水)が「ある」。「いる」と「ある」をどうつなげばいいのか、そのことばの回路がわからないけれど、清水はまず「ある」ということばにひっぱられている。
「ある」とはどういうことか。「知らない」。ただ「おまえ」をおぼえている。「と、思った」といったことを「おぼえている」。その「おぼえている」が、いま、ここで清水を強烈に動かしている。農協の跡地が「ある」ために。もし、農協の跡地がなければ、「ある」は清水を突き動かさないかもしれない。
失われずに「ある」ものは「ある」。それとは逆に、失われてしまったものも「ある」。同じ「ある」ということばを使いながら、肉体は、そのふたつの「ある」に引き裂かれる感じだ。
そこに、この世でない、があるよ。
そうして、ふたつの「ある」に引き裂かれた肉体が見る(感じる、つかみとる)ものが「この世ではない」かもしれない。
「この世ではない」は、そこ(農協の跡地、資材置き場)に「ある」。しかし、それは清水が、いま、そこに、そこにはない「過去のこの世」を重ねあわせるから「この世でない」が姿をあらわすのである。
清水は「この世」を「おぼえている」。そのおぼえていることが、いま、ここを「この世でない」に「する」。
「この世でない」は、たしかに「ある」。そしてそれは「ある」のだけれど、ほんとうは清水が「この世でない」にしている。(している、という言い方はちょっと変だけれど。)清水が、「かつてのこの世」を「おぼえている」ということによって、「この世でない」が「ある」という状態になる。
では、清水が「かつてのこの世」を思い出さなければ「この世でない」は消えるのか--というと、そんな単純にはいかない。「認識」の算数、意識の算数はそんな単純な計算方法では動いてくれない。簡便な「式」がつくれない。
ことばは、どうしたって矛盾というか、どうにも整理のつかないところを動いていくしかない。
そして、このときの動き。これが、とても美しい。美しいということが清水の詩に対して適切な表現であるかどうかわからないが、私には美しく感じられる。美しいということばしか、いまの私には思いつかない。
木材下、西日から伸びるどくだみの花の白さ
ぶっちゃられた、足が短い引き出しの見とれる木目
そんな余白におまえ
立っていた、を知っているよ。
「この世でない、がある」と知ってしまった。
それでも、ことばは「この世」とともに動いてしまう。この世を描いてしまう。木材の下の、どくだみの花。西日がさしている。どくだみの花は白い。それは「あの世」でなく「この世」の姿である。
それを見つめ、また何かを思い出す。
「おぼえている」のは、おまえが、やはり清水がどくだみの花に気がついたように、何かに気づいて、我を忘れて(余白の状態で)、何かを見つめていたということだ。おまえが何かを見つめ、立っていた。--それを「知っている」。
おまえが何を見つめていたか、何を感じていたか、それは「知らない」。けれど、ある日、立って、何かを見ていた--その「立っていた」を「おぼえている」。
そして、「おぼえている」ことと「いま/ここ」をつないでみると、
アスファルトの突起でできた影や
としょうりがくわえて歩いていった煙っ端に
おそろしい、になる前のおそろしさや
うつくしい、になる前のうつくしいがある。
「おそろしい、になる前のおそろしさや/うつくしい、になる前のうつくしい」が「ある」ということに気がつく。
この「ある」は「農協の跡地にあるよ」「この世でない、があるよ」と同じものである。--同じものである、と仮定して、清水の「ある」にこめられた思いを辿ってみたい。
「農協の跡地にある」の「ある」を説明するとき、私は、清水が「おまえが、『と、思った』」と言ったことを「おぼえている」と書いた。「おぼえている」のは「いま」よりも「前(過去)」のことである。
「この世でない、がある」と清水が感じたのも、以前の(過去の)「この世」を「おぼえている」からである。前と比較して、いま/ここを「この世でない」と言っている。
「おぼえている」こと(前のこと)を比較・対比して、いま/ここに「ある」ものを「ある」と言っている。そして、それは「ある」ということしか言えない。ほんとうはそこに「ある」ものを「この世でない」ではなく、別なことばで言いなおさなければならないのだけれど(実際、それは「この世」なのだから)、それが言えないために、この世で「ない」という否定形をつかって、方便として言っているに過ぎない。
おそろしい、になる前のおそろしさや
うつくしい、になる前のうつくしいがある。
という2行は、「この世でない、がある」という表現のように言いなおしてみると、きっと
おそろしいでない、がある
うつくしいでない、がある
なのであるけれど、その「おそろしいでない」「うつくしいでない」は、言い換えることばがない。「この世でない」というような便利な(?)ことばが「流通言語」として存在しない。「おそろしいでない」「うつくしいでない」ということばはまだ存在せず、「おそろしい」「うつくしい」ということばしかない。ただし、それは清水が「おぼえている」ような「前のおそろしい」「前のうつくしい」とは完全に違っている。だから、
おそろしい、になる前のおそろしさや
うつくしい、になる前のうつくしいがある。
と書くのだが、これは
私がおぼえている「おそろしいではない」おそろしさが、いま、ここに「ある」
私がおぼえている「うつくしいではない」うつくしさが、いま、ここに「ある」
があるということであり、
私はいまここで体験しているおそろしいではないおそろしいをおぼえている
私はいまここで体験しているうつくしいではないうつくしいをおぼえている
ということでもある。
世界は完全に違ってしまった--それをあらわす「正しいことば」が「ない」と清水はいうのだ。
しかし、「正しいことば」がなくても、人間は語らなくてはならない。語りかけなければならない相手がいる。
清水には「おまえ」がいる。いなくなってしまった「おまえ」が「いる」。--矛盾の形でしか表現できない「おまえ」が「いる」。
ね、そこらへんの石一つを
おまえの墓石にしたって、いいんだよ。
だいじょうぶ。
「いいんだよ」はもちろん逆説である。逆説でしか、語れない。おぼえている、忘れない。そう語るとき、そこに「墓石」ではなく「石一つ」という現実が立ち上がってくる。それを正直に書く。そこに「美しい」があらわれる。
清水は人を弔うとき「墓」が必要なことを知っているのではなく「おぼえている」。「おぼえている」ことを動かして、墓石のかわりに「石一つ」をつかう。「おぼえている」ということは、肉体を動かし、何かをできるということである。そして、そのできるものを探し出せるとき、ひとはそれを「おぼえている」と言えるのである。
「だいじょうぶ」は「忘れない」「おぼえつづけている」である。おまえを「おぼえつづけている」から、と清水はおまえに言い聞かせ、自分に言い聞かせる。
言い聞かせることで「一体」になる。
でも、さびしい。
あぁたしかに、さびしい、はあるねぇ!
これは、絶対的な「さびしい」である。
「おそろしい」や「うつくしい」も、以前に比べると、今の方が絶対的だが、特に「さびしい」は絶対的なのだが--不思議なことに(といっていいのだろうか)、それは人と人を寄り添わせる。こころをつなぐ。
あのふくらみにふくらんだ
空き缶いっぱいのビニル袋を二つもしばりゆらつく自転車。
あそこに入っているのは、さびしい、になる前のさびしさだ。
花の白さにも、木目にも
影にも煙のきわにもあったものだ。そして
そこへ立っていたおまえにも。
さびしいはおまえにも「ある」(あった)。それを清水は気づかないできた--というと言いすぎになるのかもしれないけれど、そのことにはっといま気がついた。それは、いま、ここにいないおまえは、いまここにいるおまえよりももっとさびしいと気づくことでもある。
「この世でない」ところを体験しているおまえ、いままで知っているおそろしいものを超える絶対的なおそろしさを体験したおまえ、そのおまえは、いまここにいる私(清水)よりも絶対的にさびしい。
たどりつけないさびしさにいる。
そういうさびしさがある。
だから、清水は、おまえに呼びかける。
資材置き場を見つけたね。余白を
そこらへんの石一つに
託したって、
いいよ。
おまえのさびしさを、資材置き場の余白につれてもどっておいで、石ひとつにさびしさを託してもどっておいで。おまえがどんなにさびしいか、私(清水)は「おぼえている」。だから、おまえが資材置き場の余白に、あるいは石にさびしさを託せば、それが私にはわかる。おぼえていることは間違いなくわかる。
おまえの「と、思った」は
農協の跡地にあるよ。
今資材置き場になっているとこだよ。
ね、ちゃんと、おまえと会ったよ。会っているよ--清水は、そう語りかけている。
1行1行、書きすすめながら、清水はおまえに会っている。私(清水)が見ている「この世」は私一人で見ているのではない。「この世」に私が「ある」とき私ひとりではない。いつもおまえが私とともに「ある」。
さびしさでしっかり結びついて、いっしょに「ある」。
さびしくない--とはいわない。さびしい。いっしょに「さびしい」と言おう、と呼びかけている。
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