詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

久石ソナ「数センチメートル」再読

2011-12-12 23:59:59 | 現代詩講座
 きょうは久石ソナ「数センチメートル」を読んでみます。「現代詩手帖」2011年11月号の「新人作品欄」に載っている作品です。選者は平田俊子と渡辺玄英で、平田の方が入選に選んでいます。
 まず読んでみましょうか。
 長い作品なので、半分ずつ。

(朗読)

質問 どんなことを感じましたか? 何を感じましたか?
「前半と後半で主語・主体がかわっている」
「人工衛星を皮肉っている」
「おもしろい。想像力がかわっていておもしろい」
「管で生きる人間--という近未来を描いている。数センチメートルというタイトルの意味がわからない」
「わからないことばはない」

 そうですね。私の第一印象はおもしろい、でした。意味がわからないけれどおもしろい。特に前半、人工衛星の部分がおもしろいですね。

質問 このおもしろいを、ほかの言い方で言うと何になりますか?
「舞台が反転する劇を見ている感じ。ここには作者は登場していなくて、作者が舞台を見ているという感じ」
「物語でもない。エッセイでもない。その様式がおもしろい」
「人工衛星について書いているのがおもしろい。未来のことを書いているかな」
「この人工衛星は、人工知能を持っている感じがする。それがおもしろい」

 あ、たくさん「おもしろい」理由が出てきて、ちょっとびっくりします。私は、最初はそんなにたくさん感想が出てこない。
 この作品を選んでいる平田は冒頭の「人工衛星ははやいきいきものでした」を引用して、人工衛星を「はやいいきもの」ととらえたのが新鮮と言っています。
 私が最初に感じたのも、平田の書いているように、新鮮という感じです。
 新鮮、とは、新しい、鮮やかということですね。

 どうして、新しく、鮮やかなのかな?
 平田の言っていることの繰り返しになるけれど、ふつうは人工衛星を「いきもの」とは言わない。久石は人の言わないことを言っているから新鮮で、鮮やか。「人工衛星」は「比喩」ということになるのかもしれないけれど。

質問 では、ふつうは人工衛星をなんと言うのだろう。「いきもの」ではないとしたら、何?
「軌道に乗って、静止している」
「いきものというのは変ですね」
「いきものといっているのもおもしろいけれど、過去形がおもしろい」

 ちょっと、私の質問がわるかったかな?
 「人工衛星」をなんというか、なかなかすぐには思いつかないですね。
 機械。構造物。--「いきもの」ということばにひっぱられて、自分のことばが出てこない。ふつうのことばが出てこない。ふつうは、ひとは人工衛星をなんと呼び変えているのか、ちょっとわからない。
 わかりにくいから、いま出てきたような、返事が返ってきたのだと思うのだけれど--このこと、すぐに「ふつうの言い方」が出てこないということは、詩にとってはとっても大切なことです。
 おもしろい詩、いい詩を読んだとき、これいいなあ、と誰でも思うと思います。
 で、それを、それでは自分のことばで言いなおすとどうなる?
 そう考えたとき、うまくことばが出てこない。そこに書かれていることばにひっぱられて、自分のことばを忘れてしまう。
 西脇順三郎の詩に、宝石箱を覆したような朝という表現があるけれど、そういう表現、そういうことばに触れると、朝の光、朝の印象をほかのことばで言い換えることが一瞬できなくなる。
 詩は、そういう「強いことば」なのだと思います。
 この詩では「いきもの」がそれにあたります。誰もが知っている。だから、疑問におもわない。強いことばだとも思わないかもしれないけれど、強い。
 この詩では「人工衛星」は「いきもの」であるという。その「いきもの」ということばが、簡単だけれど、とても強い。「比喩」なのだけれど、その比喩の意味がわからないくらいに強い。比喩の意味を考える余裕がないくらいに強烈である。

質問 この「いきもの」から、では、何を想像しますか? 「いきもの」を別のことばで言うと、何になりますか? みなさんにとって、「いきもの」とはなんですか?
「自分で呼吸して生きている。まあ、ロボットなんかも生きているかな」
「動物かな。人間によってつくられたものではないもの」
「私も自分で呼吸し、自分で生きているのがいきものだとおもう」

 久石は、どう考えていたんだろう。
 詩を読みながら、そこに書かれていることばたよりに、少しずつ見ていきますね。

人工衛星ははやいいきものでしたが、つねに浮いていて、地球のことをよく考えていました。

 この書き出しから「いきもの」に関係することばを取り上げるとするなら、何がありますか?
「はやい」--動きがはやいものは「生きている」。
「浮いている」--これは、ちょっと、わからないですね。浮いているものが「いきもの」かどうかはわからない。けれど宙に浮いている、飛んでいる、と考えると「鳥」が思い浮かぶ。「鳥」は「いきもの」になりますね。
 それから「考える」--いきものは考える。まあ、そうだと思います。

質問 で、この「考える」と「いきもの」を結びつけると、何か思い浮かべませんか?
「人間は考える葦である」

 そうですね。パスカルだったかな? フランスの哲学者が言っている。
 考えるいきものは人間ですね。
 久石は人工衛星は「考える」と書いている。で、人工衛星が考えるのか、と思うと、人工衛星がなんとなく、人間のように思えてきませんか?

「人工衛星のなかに人がいるのでは? 人工衛星のなかに人がいるということが省かれた状態で書かれているのでは?」

 あ、それはすごい発想だなあ。
 びっくりしました。それで、考える。うーん、私は思いつきませんでした。
 いまの考え方、ゆっくり考えないといけないのかもしれないけれど、どう考えればいいのか、私はちょっと混乱しています。
 で、それは置いておいて(ごめんなさい)、先をつづけて読んでみますね。私の読み方を少し説明させてください。

人工衛星はみずから地球に関わるお仕事をしていて、それは生まれたときから望んでいたお仕事でしたから、外が暗くても働いているのでした。

 この部分を読んで、私はますます人間っぽいなあと感じました。さっきの○○さんの感想につづけていうと、人工衛星のなかにひとがいるということがますますはっきりしてきた、ということになるかもしれなせん。
 なぜ、人間っぽいのか。
 「働く」ということばが人間を思い出させる。それから「外が暗くても、働いている」というのは熱心なお父さんという感じがしますね。仕事熱心なお母さんもいると思うけれど、私は男なので、ついついお父さんを思い浮かべる。自分に引きつける。ことばを理解するとき、人はだれでも自分に引きつけて考える。これは、自然なことだとは思うけれど。私が女性なら、お母さんを思い浮かべるかもしれないけれど。
 ところで。
 私はこの講座で、詩人は大事なことは何度もことばを変えて繰り返すというようなことを言いました。ここでは「いきもの」であることが、別のことばで言いなおされていることになります。
 「いきもの」は名詞。それを「考える」「働く」という動詞で言いなおしている。
 考える、働く--それが「いきもの」である。
 「いきもの」を動詞にすると「生きる」になる。そして、生きるということは、考えること、働くこと。--そういうふうに言えると思います。
 そうすると、それは、とても人間に似ている。人間と共通項がある。
 そのために、人工衛星が「親しい」ものに見えてきますね。

地球からたまに支給されるあたたかい薬を飲んで(そのたびにゴミも増えるから、息がしづらい)、人工衛星はいきています。人工衛星はよわいいきものです。だからこそ、つねに完璧でなければならない。そうやって、生活する。人工衛星だから。

 「人工衛星」を「人間」、あるいはお父さん(お母さんでもいいのだけれど)、ということばに置き換えて読むと、なんだか親近感がわいている。
 からだは弱い。だからときどき薬を飲む。

「ビタミン剤なんかも飲みますね」

 そうですね。ほんとうの薬ではなく、栄養ドリンクなんかも飲む。この栄養ドリンクというのは、ある意味では「ごみ」みたいなものですね。そんなものは飲まないで生活できれば、きっと、もっといい。どんなものでも異物は肝臓に負担がかかりますから、毒(ごみ)と言えるかもしれない。
 でも、しようがなしに、栄養ドリンクをのんでつらい仕事を乗り切る。
 完璧でなければならない、だから栄養ドリンクをのんでがんばる。
 なにか、けなげでしょ? がんばるお父さんっぽいでしょ?

 詩のつづきです。

人工衛星の住む町は重力のない町だから、朝も昼も、時間のすべてを手放してしまって、ずっと夜が繰り返されるのでありました。


「これは宇宙のことかな? 宇宙は暗いから夜」

 そうですね。私も、そう思います。宇宙は暗い。だから夜。夜がずっと繰り返される。 さらにつづきを読みますね。

人工衛星は地球のことを愛しています。友だちと地球について語り合い、それが原因で喧嘩もするけれど、みんないつも笑顔です。このとおり、地球以外のお仕事が増えないように、みんないつも笑顔です。

 これも、人間を想像させますね。人間は、地球のこと--自分が生まれた場所、家庭かな? 家庭を考える。そうして暮らしについて友だちと語り合う。また喧嘩もする。けれども、友だちだから、なんとなく笑顔でいる。
 読めば読むほど、人間に見えてきますね。

「私はブラッドベリの『万華鏡』という小説を思い出しました。影響を受けているんじゃないかな? その小説のなかでは人工衛星の1個に一人が乗っている。交信しながら動いている。でも、だんだん人工衛星が離れていってしまって、ひとりになる。一人乗りの人工衛星。それが自分」
「私はハヤブサのことを思いました。ハヤブサが行方不明になった。そのとき地上の科学者たちは、ハヤブサが帰ってきてくれと祈った。人間を心配するみたいに、祈った。ほら、この詩にも『祈りをささげて』ということばがある。」

 あ、先に言われちゃった。
 さらに、つづき。「祈り」の部分です。

人工衛星は太陽と月に出会うたびに、祈りをささげて、あらゆることがらに感謝します。信仰は心から生まれてくるものだと、人工衛星は知っています。太陽がおもむろに姿をあらわす。

 「感謝」や「祈り」や「信仰」ということばが、やっぱり「人間」を想像させますね。久石は「人工衛星」と書いているけれど、なんとなく「人工衛星」は「人間」の「比喩」なのかもしれないなあ、と思ってしまう。

「人間同士の関係が描かれているのかな。人間っぽいですね」

 そうですね。読めば読むほど、人工衛星なのに、人間に近づいてくる。
 そして、そんなことを考える、感じていたら、突然、ことばが「人工衛星」から離れてしまう。「地球」というか、地上のことが語られはじめる。それが2連目。
 2連目に入る前に、もう一度、2連目だけを読んでみましょうか。

(朗読)

 書き出しです。

ぼくたちはATMでお金を下ろす。

 この1行だけで質問をするのは、ちょっと意地悪なのだけれど、質問します。私は何度もひとは大事なことを繰り返して言いなおす--と言っています。で、ここでも久石は大事なことを言いなおしている、と仮定して読んでみます。仮定して、読んでみてください。
 で、意地悪な質問です。

質問 「ぼくたちはATMでお金を下ろす。」が、「人工衛星ははやいいきものでしたが、つねに浮いていて、地球のことを考えていました。」の言い直しだとしたら、どういうことばを補うと、より「言い直し」であることがわかると思いますか?
「地球からの薬がお金ということかな」
 うーん、私の質問が意地悪すぎるのかな? 1行だけというか、ひとつの文章だけで考えてみてくください。
「いきもの」

 それ、です。「いきもの」。「いきもの」ということばを2連目の書き出しに補うとどうなりますか?

ぼくたちはATMでお金を下ろす「いきもの」です。

 こんなふうになりませんか?
 最初に印象的だった「いきもの」ということばを補うと、「人工衛星」と「ぼくたち」の違いがわかるというか、1連目と2連目の重なり具合がよく見えてきます。重ならない部分も見えてくると思います。
 「いきものです」ということばを補いながら読んでみますね。

満員電車の吊り革は汚いから、なるべくだれも掴んでいなさそうな部分を探り、新聞の文字を順々に掘り起こす「いきものです」。一通り耕して、ぼくたちは相手に会話をあわせ、提供することをつねとする「いきものです」。

 なんとなく、「ぼくたち」を「人工衛星」にすると、そのまま1連目に引き返していく感じがするでしょ? 1連目に書いてあっことが繰り返されている感じがしてくるでしょ?
 「ぼくたち」を「人工衛星」にして、それから「いきものです」を補って、いままでの部分を繰り返してみましょうか? 

「人工衛星」はATMでお金を下ろす「いきもの」です。満員電車の吊り革は汚いから、なるべくだれも掴んでいなさそうな部分を探り、新聞の文字を順々に掘り起こす「いきものです」。一通り耕して、「人工衛星」は相手に会話をあわせ、提供することをつねとする「いきものです」。

 ね、そっくりでしょ? 1連目は、働くとか考えるとか、ちょっと抽象的なことば、一般的なことばで書かれているのでわかりにくいけれど、働くとか考えるとかの動詞をもっと具体的にすると2連目にぐいっと近づく。
 あとも、ちょっと「いきものです」を補って読んでみますね。

感心なんて無粋だから。ぼくたちは与えられた仕事をこなしつつ、相手がみていないところで息をする「いきものです」。吐く。たばこをくわえる「いきものです」。ふかす「いきものです」。

 あとは省略します。
 で、詩のつづき。

夜になっても満員電車。窓に映る自分の顔を見て、不満を抱き、口を開けて寝ているサラリーマンを見る。なにくわぬ顔で電車に降りた瞬間、生ぬるい風がぼくたちの癇癪を芽生えさせた。

 この部分は、1連目の、暗くても働いて、薬・栄養ドリンクをのんでがんばる人工衛星お父さんの姿に重なりませんか? ただ、ぴったり重なるのではなく、ずれながら重なっている。つらくてもがんばる。だらしないかっこうをさらして、がんばりきれていないのだけれど、それが人間の生き方ですね。暮らしですね。「常に完璧でなければならない。」と思っているけれど、まあ、完璧ではない。だらしなく口をあけて居眠りしながら「そうやって生活する」。「そうやって生活する」は1連目のことばです。
 1連目には「重力のない町」が書かれていたけれど、ここでは「重力のある町」が書かれ、「この町に重力がなかったら」と夢見られている。
 「重力」は、まあ、なにかの「比喩」なのかもしれませんね。
 自分ひとりが生きるのではなく、みんなで生きなければならない。家族全員が生きなければならない。重い責任。肩に重くのしかかってくる荷物のようなもの。その重さ、この重さも抽象的なことばだけれど、それをさらに「重力」という抽象的なことばで言っているのかもしれません。
 1連目に書いたことを、裏返して言いなおしていることになると思います。
 1連目で「常に完璧でなければならない」と書かれていたことは、2連目では裏返して、だらしなく口をあけて夜の電車で居眠りするお父さんという具合ですね。

もしも、この町に重力がなかったらぼくたちは、もっとまともな景色が見られたのだと思う。景色がつねにいけないからぼくたちは、管の小さい酸素ボンベをかついでいるのだ。

 ここは、さっき言った「肩の重荷」のことを言いなおしているのだと思います。そういう「重荷」がなかったら、もっとまともな景色が見られたかもしれない。
 この「景色」は、私は、だらしなく口をあけて居眠りしているお父さんなどの姿のことだと思って読みました。
 そのつづき。

家に帰り、食事を済ませ、妻とセックスをしてようやくぼくたちは、いきものなのだと実感する。

 ここの部分、とてもおもしろいですね。
 2連目を読むとき「いきものです」を補って読んできたけれど、ここでは「いきもの」が突然、久石によって書かれている。
 
質問 どうして「いきもの」ということばを、久石はつかったんだろう。想像してみてください。どうしてですか?
「現実感がない。自分自身が何もしない。その自分が突然でてきて、説明している感じ」「人間の本能が、ここで書かれている。人工衛星から人間にもどる。そして本能をいきるということを書きたいのかもしれない」
「重力がある。宇宙だと無重力だけれど、地球には重力がある」

 なんだかむずかしい答えばっかり返ってきました。
 うーん。
 私は、すごく単純に考えました。
 私は、ここで「いきもの」ということばを省略すると、文章にならないから、「いきもの」ということばをつかって文章にした、とだけ考えました。「いきもの」にかわることばがない。それがあれば「いきもの」のかわりにつかうのだろうけれど、みつからない。だから「いきもの」ということばをつかった。
 2連目を読むとき、「いきもの」ということばを補って読んできました。
 そして、それを補っても、文章の「意味」が通じた。あるいは、よりわかりやすくなった。そういう読み方をしました。
 そのとき、私は、久石が2連目の書き出しでは、書かなくてもわかる「いきもの」を省略したのだと思いました。だから、補ったのです。
 もちろん書かなくてもいいと思うのは、久石の個人的な事情ですね。
 これは私の考え方ですが、人間は、だれでも自分がよくわかっていることを省略してしまう。無意識の内に、自分で補って言っている。無意識に補ってしまっているので、書こうという気持ちが起きない。
 でも、そういうことばは、あるとき、どうしてもそれをつかわないと文章として成り立たないときがある。それで、そのことばをつかう。
 こういうことばを私は「キーワード」と呼んでいます。絶対に必要なことば、ですね。特別な「意味」をもったことばです。
 そして、ちょっと話が前後するのだけれど、「いきもの」がキーワードだとわかると、さっき「いきもの」ということばを補いながら読んだことは、実は、間違いではなかったということがわかります。
 久石にとって、「いきもの」ということばは、「思想」なのです。特別な「意味」を持っているのです。
 詩の書き出しの「人工衛星ははやいいきものでしたが、」の「いきもの」のつかい方が、ふうつの「いきもの」、私たちが「いきもの」ということばであらわすものと違っていますね。そこに独特の久石の思い、彼独自の「思想」があるのです。
 「いきもの」ということばが「思想」というのは、わかりにくいかもしれませんね。
 でも、わかりにくいのが「思想」です。
 「いきもの」ということばが、ありきたりというか、だれでもが知っているからこそ、わかりにくいのかもなれない。久石が「いきもの」ということばにどういう「意味」をこめているか考えるより前に、自分の知っている「いきもの」ということばをあてはめて考えてしまいますからね。

 そのひとがほんとうに大切に考えつづけたことというのは、そのひとは独自のものだから、どうしたってわかりにくいのです。そして、それは、わからなくたっていいのです。何を言いたいか正確にはわからない。これはきっと久石にもわからない。だれにでもわかることばで書こうとすると書けない--それが「思想」です。
 「いきもの」と「思想」については、あとでまた考えます。
 最後を読みます。

それでも必要なのは睡眠とお金。熟れる。いつの間にか来ている朝を飲み込み、ぼくたちはATMで金を下ろす。電車がホームに参ります。

 これなんでしょうねえ。人間は「いきもの」です。それも「睡眠とお金」が必要な「いきもの」です。「いつの間にか来ている朝を飲み込み、ぼくたちはATMで金を下ろすいきものです。」と、ただ繰り返しているのだと思います。
 特に何かが書かれているわけではなく、詩を終わるために書いているのだと思います。
(休憩--の前に、こんな話もしました。「キーワード」についてです。)
 谷川俊太郎の「女に」という詩集を読んだときのことです。ことばは簡単で、一篇一篇は短い。人間が生まれ、だれかに出会い、愛を育てる--そういうことがテーマとして書かれている。
「だれにでも書けるのでは、という印象がする詩集ですね」
 そうですね。
 で、その詩集に、一回だけ「少しずつ」ということばが出てくる。それを読んだとき、私は、あ、谷川はこの詩集では「少しずつ」とういことばがキーワードなのだと思いました。一回しかつかわれていないけれど、それはほんとうはつかいたくなかった一回。つかわないと、どうしても文章の意味が通らないからつかった。けれど、よく読んでみると、その「少しずつ」はあらゆる行間に書かれている。ある行と別の行の間に「少しずつ」を補うと、谷川の書いていることがとってもよくわかる。人間は、生まれてきて、誰かに出会い、愛を育てる。それは「少しずつ」の積み重ね。「少しずつ」が積みかさなって、大きな愛になる。「少しずつ」が愛にとっては大切なんですよ、という思想がそこにこめられていると私は感じました。

休憩が終わって……)

 さて、「いきもの」と「思想」の関係だけれど……。
 ここからは現代詩というよりも、哲学の講座になるかもしれない。「思想」について考えるので、ちょっとめんどうくさいかもしれないけれど、つきあってくださいね。

質問 この詩のなかで、「いきもの」以外に、なにか自分のことばのつかい方と違うなあ、あれ、これはどういう「意味」だろうと思ったところはありませんか?
「熟れる、がわからない。私はこういうとき、熟れるとは言わない。リセットのことかなあ、と思った。熟れて、リセットして、朝が来る」
「景色がつねにいけないから、という行が変。景色のつかいかたが私とは違う」
「人工衛星が人工衛星ではないみたい」

 あ、「熟れる」は私も変だと思ったけれど、これは「わからない」。つまずく、という感じとは、私の場合、少し違う。
 ことばの「意味」はわかるのだけれど、えっ、こういうとき、こういうことばをつかうのか、というのとは少し違います。
 私の体験を話します。
 私は「つねに」ということばにつまずきました。
 1行目。人工衛星は「つねに」浮いていて、
 10行目。「つねに」完璧でなければならない。
 これは、まあ、ふつうに読めるのだけれど、--でも、なくてもいいでしょ?
 空に浮いていない「人工衛星」なんて、ないですよね。そうすると、ここの「つねに」は余分ですね。もしここにことばが必要なら、上空高く浮いていて、とか、宇宙に浮いていてという具合に、場所をさすことばを書くと思います。でも久石は場所を書かずに「つねに」という「時間」をあらわすことばをつかっている。
 人工衛星が「つねに」完璧をめざすというのも、あたりまえですね。故障したら人工衛星の役目を果たさない。
 どっちも、なくてもいい「つねに」ですね。
 でも、久石は「つねに」と書きたい。書いてしまう。書かないと、何か書き洩らした感じがする。もっともこれは、ほとんど無意識のことだと思うけれど。無意識だから、私は「思想」と呼ぶのだけれど。
 で、この「つねに」が 2連目へいくと。
 5行目。会話を合わせ、提供することを「つね」とする。これは、いつもそうするということだと思うけれど、ちょっと気取っていますね。私は日常会話では、……をつねとする、とは言わない。
 現代詩講座で話しているとき、ミネラルウォーターを飲むことを「つねとする」とは言わない。「いつも」ミネラルウォーターを飲む、といいます。
 それから、終わりから8行目。風景が「つねに」いけないから。これも変ですね。もしいうなら、風景が「いつ」見てもいけないから(気持ちよくないから?)、という感じかなあ。
 「いきもの」も「つね」も、私たちがよく知っていることばなので、「意味」がわかったつもりになる。でも、久石がどういう「意味」でそれをつかっているのか、ということを考えはじめると、なにか違う。
 「ずれ」を感じる。
 こういうことばに、私は、そのひとの「思想」--そのひと独自に考えていることが含まれていると思います。河邉由紀恵の「桃の湯」の「ざらっ」とか「ねっとり」とかもそうですね。わかるつもりだけれど、自分が感じたことがほんとうに河邉の感じていること、そのことばにこめた意味であるかどうかははっきりしない。
 しかし、はっきりしないからといって、別に困りはしないんですね。
 あ、そうか、ここで河邉は「ざらっ」とか「ねっとり」とかつかうんだと思うだけで十分ですね。
 この久石の詩でも、そうか、久石は人工衛星を「いきもの」とみているのか。「つね」ということばを、私とはちょっと違う感じでつかうのか、と感じるだけでいい。何も困らない。
 困らないのだけれど、この自分とは違うんだなあということを、もう少し追い詰めていくと、もう少し、その人に近づいて行ける気がする。このひとは人工衛星を「いきもの」と呼ぶ変な人--で終わらせずに、もう少し幅を広げて、ふーん、そういうひとはそれじゃあ、ほかにどんなことを考えているんだろう。そう思ってみる。

 では。

質問 この詩のなかで「つねに」に通じることば、同じようなことばはほかにありませんか?
「いつも」
「ずっと」
「いきて」
「かわらず」

 「いつも」。そうですね。私も、さっき私ならこういうとき「つねに」ではなつ「いつも」ということばをつかうといったけれど、久石も「いつも」をつかっていますね。
 でも、もうひとつ、がんばって探してみてください。

 「繰り返す」は、どうですか?

 「繰り返す」から「つねに」になるんですね。人工衛星は「繰り返し」浮いている。
 ちょっと変だけれど、まあ、そういうことですね。繰り返し繰り返し、同じ場所へとまわってやってくる。それが人工衛星。
 また、「いつも」ということばもありますね。みんな「いつも」笑顔です。
 「つね」には、「いつも」ですね。「いつも」「繰り返す」--そうすると、それが「つねに」になる。
 さらに「ずっと」ということばもある。「ずっと夜に似た空が繰り返される」。「ずっと」「繰り返す」は「いつも」「繰り返す」「つねに」「繰り返す」。

 で、ここからちょっと飛躍したことを言いますが、「いきもの」というのは、久石の考え方では、「いつも、ずっと、つねに」何かを「繰り返す」ものなんですね。考える、働く、愛する、語り合う、仕事に行く、仕事で疲れる、仕事から帰る、食事をする、セックスする――どの行為も、繰り返す。そうして、その繰り返しのなか、「つね」になった行為から、「そのひと」が浮かび上がる。
 久石は、何かをいつも、ずっと、繰り返し、その繰り返していることを「つねに」にする。それが「人間」である、と言っているのだと思います。そう思ってけいるのが(そういう思想をもっているのが)久石ということになると思います。

 話は少し脱線するのだけれど。
 この講座のテーマは、詩は気障な嘘つき。で、このテーマにそって、今回の詩を読み直してみると。
 まず「人工衛星はいきものである」というのは、嘘ですね。正しい表現ではない。そして、その嘘をつきつづけていると、どうなるか。その嘘から「人間」が見えてきて、最後には、久石の思想まで見えてきてしまった。これは、私たちの「誤読・誤解」かもしれないけれど、そこに「ほんとうの久石」を見てしまった。
 嘘はつきつづけることができなくて、どうしてもほんとうのことを書いてしまう。ほんとうの書かずにはいられない。その「ほんとう」のことが出てくるまで、ことばを動かすと、それが詩になる、と私は思っています。

 で。
 最後に、ちょっと復習。(何種類かの色の筆記具をつかっ書き込みのあるコピーを配布。私が詩を読むときにつかったもの。ただし、会場で配布するために色分けしたので、ふつうは単に鉛筆あれこれ書き込むだけ。--ネットでは、色分けマーキングのテキストは省略)
 人は誰でも、大事なことは繰り返す。繰り返して言い直す、と何度も言いましたが、その視点から、この詩を読みなおしてみます。
 1連目と2連目は対になっています。1連目は宇宙というか、人工衛星を主役にしてことばが動いている。2連目は地球、地上の人間の側でことばが動いています。
 で、ここからは、選者の渡辺玄英批判になるので、軽く触れるだけにしますが。
 渡辺は、この作品について「前半の人工衛星はいいんですが、後半のATMではじまる部分にうまく結びついていない」と言っている。これは、渡辺が1連目と2連目の対応に気がつかなかった、読み落としているのです。
 2連目の最初に「いきもの」を補って読む読み方は、さっきやったので省略します。
 対の部分だけ指摘します。色分けし、書き込みのあるところを見てください。
 人工衛星は「外が暗くても、働いている」。勤勉ですね。それに対し人間は、「相手の見ていないところで息をする」。手抜き、ずぼら、ですね。
 また、人工衛星はつねに完璧を目指す。一方人間は「不満を抱き、口を開けて寝ているサラリーマン」という具合に、だらしないですね。
 さらに、人工衛星は「太陽と月に出会うたびに、祈りをささげ、感謝する」。人間は「まともの風景が見られない」(口を開けて寝ているサラリーマンと出会う)ので、癇癪を起しそうになる。不満たらたら、ですね。
 詩の枠構造としても、人工衛星の部分の最終行は「太陽がおもむろに姿を現す。」朝ですね。人間の方も「朝を飲み込み、」と朝が出てくる。最後の「電車がホームに参ります」は朝の通勤電車ですね。
 久石は、すごく丁寧に、対を作り上げています。これを読み落とすと、この詩は分からない。

 こんどこそ、ほんとうに、最後に。
 タイトルの「数センチメートル」。これはなんでしょうか。最初にタイトルがわからないという話が出たのだけれど、なんだと感じますか?

 どう思いました?
「重力のあるところと、ないところの差」
「働きかたのちょっとした違い。ずれ」
「重なるけれど、ずれている」

 私も、差とか、ずれを思い浮かべました。距離、でもいいかなぁ。
 人工衛星は宇宙に浮かんでいる。人間は地上に暮らしている。実際にその距離を測ると、とても離れていますね。何キロ離れているのか、正確に言えなくてごめんなさい。でも、その「動き」というか、それが活動していること、やっていることを比較すると、そんなに違いや差はないんじゃないかな?
 人工衛星も人間も働いている。考えている。
 その差を測る単位がないのだけれど、センチメートルで測ると「数センチメートル」くらいかな? 久石は、そう考えたんだろうなあ、と私は勝手に読みました。

 このあと、突然、座談(雑談)。
「でも、このちょっとした違いがたいへんなんだよね」
「夫婦喧嘩なんか、みんなそれだもんね」
「他人のことだったら、少しの違いはほっておけるのだけれど、いっしょに暮らしていると、ちょっとした違いに頭に来て、こじれてしまう」
「他人からみたらほんとうに小さなことないんだけれど、いったん喧嘩すると、ずれが数センチメートルではなくなってしまう。どんうど広がって、とりかえしがつかない」
 人工衛星ではじまる詩が、突然夫婦喧嘩になってしまったのだけれど、これはとってもおもしろい。受講生みんなが、久石の書いていることばを、そこにある「詩」として読んだだけではなく、自分の「肉体」のなかに取り込んで、実際に動かしてみた--ということになる。
 人工衛星で書きはじめた詩が、夫婦喧嘩の「解説(?)」につかわれるなんて、久石は想像もしなかったと思うけれど、(私も想像もしなかったけれど)、詩にしろ、ほかの文学にしろ、それをどう読むか(どう利用するか)は、作者ではなく、読者の権利。
 そういうところへまで、この「現代詩講座」は動いてきてしまった。
 なんだか、感激してしまった。
 「正解」ではなく、そこにあることばを、自分はどうつかうか、どう読むか。それを一人一人が勝手に言える。これは、とても楽しい。




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