詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

三井葉子『句集 栗』

2012-08-17 11:00:08 | 詩集
三井葉子『句集 栗』(洛西書院、2012年06月30日)

 私はずぼらな読者で、何を読んでいても、ある感想が思いつけばそのときことばを動かし、それでおしまい。本を開いて、その最初のページで何事かを感じれば、それで満足してしまう。
 三井葉子『句集 栗』、その巻頭の句。

嘘すこしコスモスすこし揺れにけり

 私は俳句はほとんど読まない。私の感想が俳句の感想の流儀にあっているかどうかもわからない。
 で、てきとうなことを書くのだが。
 この句では「すこし」が繰り返されている。17文字の中で繰り返しがあると、もったいない(?)感じがしないでもないのだが、この句が私は気に入った。
 繰り返しとは言うものの、ことばを繰り返すとは、いったい何を繰り返しているのだろうか。音、だろうか。意味、だろうか。
 嘘すこし、すこし揺れにけり、の「すこし」は同じだろうか。だいたい「すこし揺れにけり」でいいのだろうか。「コスモスすこし」とはどう違うのだろうか。文法的には「すこし揺れにけり」なのだろうけれど、ね。
 こういう疑問(?)が湧くのは、「嘘すこし」の「すこし」が形容詞であるのに対し、「コスモスすこし揺れにけり」の「すこし」が副詞だからかもしれない。「コスモスすこし」にすると形容詞になるのかもしれないけれどね。いや、そうじゃなくて「嘘すこし」の「すこし」は嘘にかかる形容詞ではなく、嘘を「すこし」ついた、と動詞にかかる副詞であるというのが文法的に正しいので、この句では「すこし」は副詞として統一して(?)繰り返されている野かもしれない。
 まあ、詩なのだから、そんなことはどうでもいい。読みたいように読んで、かってに感動すればそれでいいのだけれど。
 ここに、何か微妙な揺らぎがあるね。
 で、その微妙な揺らぎのなかに、私は会ったことはないけれど、三井の「肉体」を感じるのだ。形容詞と副詞は違うものである。違うものだけれど、どちらも本質じゃないというと変だけれど、主語、述語(動詞)のようにないと文章(ことば)が成り立たないというものでもない。その本質じゃない部分に、意味にはならない本質--人間の本質というか、品質(?)のようなものが出てくると、私は感じている。
 そうか、三井は「すこし」を丁寧に見る人間なんだな、と思うのである。
 きっぱりと嘘をついて、コスモスなんかは薙ぎ倒して、というのではなく、どういえばいいの打数、相手の反応をみながら、ちょっと嘘をついて、嘘をつきながら、あ、これはばれているかも、と思ったりしながら、でもやめられない。その不安定な気持ちにコスモスが重なる。ねえ、コスモス、嘘をついたことがある? そう問いかけているようでもある。

われもかう色もこぼさず色凝りて

われもかう踏むひともなき細き首

 最初の「われもかう」には「こ」の音が繰り返し出てくる。こういう繰り返しは、最初に取り上げた「すこし」の繰り返しとは関係がないはずなのだが、すくなくとも「意味」てきには無関係なのだが--私は、何かしら、よくわからないまま、関係を感じる。
 三井はことばを「音」で動かしているな、と感じる。意味ではなく、音。意味を越えて、音と音が呼びあう。そのとき肉体の中で何かが動いている。
 ひとは意外とそういうどうにも支配することのできない何かによってことばと出合っているような気がする。言い換えると、このことは、この音が好き、だからこう書くしかない、というのがあらゆる詩人の書き方なのだ。
 科学論文じゃないからね。
 (とは言いながら、私は科学論文にしろ、やはりこのことばが好き、という本能がことばを動かしいるに違いないと信じているのだが。そして、そういう好みがあるからこそ、科学の発達にムラがあるのだと思う。ある分野が突然飛躍的に展開したりするのは、そういうことばの無意識の選択がどこかで影響していると思う。--まあ、これはどうでもいいけれど。)
 「われもかう」に戻ると。
 ふたつ、「われもかう」が続く。これは、最初の句だけでは吾亦紅を書いた気持ちにならなかったんだね。満足できなかったんだね。こういう無意識があらわれるところが句集のおもしろいところだと思う。
 最初の句では満足できない。だからもう一回、吾亦紅を書く。二回で三井が満足した野かどうかよくわからていけれど(たぶん、不満だろうなあ、そんなにいい句じゃないから--と私は思う)、まあ、そのあたりで諦めた。
 そういう呼吸もおもしろい。
 「呼吸」と書いて思うのだが、たぶん三井のことば(俳句のことば)は「呼吸」で動いている。肉体で声を出す、音を出す、そのときどうしてもそこに生理的な呼吸が入り込む。その呼吸。抽象的な呼吸じゃなくて、肉体そのものの呼吸。
 この肉体そのものの呼吸というのは、具体的すぎるのだけれど、そして肉体にぴったりとはりついていて、それが具体的であるということさえわからないのだけれど--それゆえに、詩人の本質につながるものだと思う。

嘘すこしコスモスすこし揺れにけり

 この「すこし」の繰り返しも「呼吸」なのだ。呼吸するから、繰り返される。それは肉体の運動。頭でことばを整理すると、最初に書いたように、17文字のなかに同じ音が出てくるのはもったい、という経済学が働く。そういう頭で考えた経済学が入り込むと、三井の句はとてもつまらなくなる。
 不経済を承知で、呼吸を優先する。
 たぶん、詩だけではなく、生き方そのものとして、三井は経済的ではなくても、不経済であっても、こっちの方が好き、と自分の気持ちのいいものを選び取るタイプの人間なのだろう。
 そういう「におい」のようなもの、いい意味でのだらしなさのようなものが、句に不思議な広さをもたらしていると思う。

永ければ飽きると思ふ良夜かな

 「飽きると思ふ」がいいなあ。三井の「肉体」を、そこに感じる。

柿落下 目で舐めている甘き肉

 うーん、俳句の「音」とは違うような感じもするが、「落下」と「舐めている」ということば調子が音としてあわないような気もするのだが、ここにも肉体を感じる。

 前後するが、音そのものが句を動かしているものには、

田子が刈る刈り田かがよふ夕べかな

 という、谷川俊太郎が真似しそうな楽しい句もある。

はあ もしや 菩提樹の実はふたり連れ

 この書き方は詩人だから許される書き方なのかな? 口語の「はあ もしや」の呼吸がそのまま「発見」になっている。

億年やむかし林に落ちし栗

 句集のタイトルの『栗』はこの栗かな? むかしが 100年くらいではなく億年であるというのは、ひろい呼吸だなあ、とうっとりする。
 この句がいちばんいいかも。
 まだ、途中までしか読んでいないのだけれど。

人文―三井葉子詩集
三井葉子
編集工房ノア
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