三井喬子「つうかまち駅」ほか(「かねこと」3、2012年08月10日発行)
三井喬子「つうかまち駅」に触れる前に。「かねこと」3には金井雄二「詩の本の話を3 『山村暮鳥全集』」というエッセイが載っている。そこに
と、書かれている。ええっ。どうして? 私はつかいわけることができない。語るのと同じ感じで書いてしまう。書くのと同じ感じて話してしまう。何かしら気がかりなことがあって、つまりことばにしてみないと、なんだかよく分からないことがあって、書きはじめる。語りはじめる。そしてそのまま、なにか結論(?)があるというわけではなく、ことばが動いていくところまでいってみる。
このブログの場合だと、原稿用紙にしてだいたい8枚。時間にして約40分くらい。私のことばはだいたいそれくらい動いたら、動くのが面倒くさくなるみたいで止まってしまう。話す場合は、相手が何を言ってくるかわからないから、さらにいい加減というか、そのときそのときでことばが変化していくが、これは相手次第だね。どうなるかわからない。そしてこのことは、実は書いている時もほんとうは同じ。このブログの場合、詩を引用する。つまり、そこに他人のことばが入ってくる。そうすると、書こうとしていたことが、引用している内にかわってきて、最初にちらっと思ったことがまったく別なものになることもある。
まあ、そういう具合で、私はいい加減。
語る(話す)ことと書くことが違うとは思ったことがない。
思いつくまま、思いがつきるところまで。
で、三井喬子「つうかまち駅」。
「主語」というのかどうかわからないけれど、ことばを発している「主体」が少しずつずれていく。そのずれ方がのどかで、田舎の春のようで楽しい。
「黄色い線から」は駅の案内。でも、この駅にそんな案内があるとは思えないから、まあ、のんびりした夢だね。
で、その夢に蝶々が出てくる。「もしもし」と呼びかけられているのは「私(三井)」かなあ、と思ったら、プラットホーム。そうか、プラットホームも眠るのか。で、このとき主語は? 蝶々?
いいんだけれど、そういうことは、どうでも。
その次の3行は、「主語」は電車だね。電車が「つうかまち」駅をバカにしている。止まってやるものかと言いながら止まっているのは、それが通過待ち(すれ違い待ち)のために止まらざるを得ないから何だろうなあ。
おもしろいのは、その次だ。(実は、それが書きたくて書いているのだが、どうなるかわからない。)
「たまたま……」から始まるのは、誰のことば? 電車のことば。でもさあ、そういう駅で乗客が三十人でも多いなあ。それが千人、一万人なんて、だいたいそんなに電車に乗れる? 乗れないねえ。じゃあ、なぜ、そんなことをこの電車は言ったんだろう。嘘とだれにでもわかることを言っているのだろう。
簡単に言えば、言いたかったんですね。
三十人くらい乗ることもあるんです。これは、ほんとうというか、まあ、欲望というか。三十人くらいは乗せたいよね。ひとの乗せるのが仕事なんだから。できれば千人なんていいだろうなあ。あ、でも、だれも聞いていない。一万人くらいのこともありますよ。大ぼらを吹いてみる。
ちぇっ、気付よ。嘘つくな、嘘は「そこまで」くらい、だれか言えよ。
話し相手がいないので、電車は電車にそう言ってみる。
こういう感じっていいなあ。
こういう詩を書くとき、三橋はどこにいるのかな? つまり、三橋は「黄色い線から……」という人? 聴く人? さらにプラットホームを見る人? プラットホームそのものになっている? 電車になっている? そうやって、代弁している?
こういうことって、どうでもいいよね。そんなことをいちいち区別しないで、うっとりするようなあたたかさ、眠くなるようなのどかさ、そのなかでなにからちらっちらっと動く。まるで、うたたねしながら、ときどきはっ、あ、眠っていた、と気づくような感じ。それだけで十分だ。で、そこには夢もまじってきて、眠っていることをいいことに、夢が暴走する。
三十人、千人、一万人……。
どうでもいいことなのだけれど、この「図に乗った夢の暴走」、その「図に乗り方」が楽しい。
三井って、こんな楽しいことばを書いていたっけ?
で。(またしても、で、なのだが。)
この詩と、金井雄二の書いていたこととなにか関係がある? ないですねえ。ただ、「枕」に引用してみただけなのかもしれない。
でも強いていえば。
私の引用した三井の詩、実は「全行」ではありません。前と後ろを叩ききっている。余分だなあ、と思った。前と後ろが、詩を小さくしている。「意味」をつくり、「抒情」をつくっている。「意味」と「抒情」がひとつになっていて、それがうるさい。
きっと、三井は金井と同じように話すときと書くときは違うと思っているのだと思う。話すとき(語るとき)はだれかが同じ場所にいる。そのとき、どんなことばを語ろうと(話そうと)相手には三井が見える。肉体が見える。そうすると、人は自然にその肉体を通して、その人間の「過去」を思う。話すことばの奥から、そのひとの「過去」が見えてくる。話す人も聞いているひとの「過去」を感じながら話すので、いろいろなものを省略して、その省略を「肉体」から感じている。
電車の三十人、千人、一万人に話をもどすと、話しているときだったら、相手が、「おいおい、千人、一万人なんて、そんなに乗れないじゃないか」は「つっこみ」が飛んでくる。そうして、そこから「現実」に戻ることができる。
でも、書くというのは、そういう「つっこみ」のないところで行われるので、自分で全体を収拾(?)しなくてはならない。
で、「抒情」だとか「意味」を引き寄せてしまう。つまらなくなる。
話している部分だけ、書いてね。書くときに、余分なことを付け足すのはやめてね。そうすると、「頭」ではなく「肉体」そのものが見えてくるから、読んでいて楽しいよ、と私は言いたいんだと思う。--と、ひとごとのように書いてみました。(これで、ちょうど40分。タイマーが時間を教えてくれました。で、きょうの「日記」はここまでです。)
三井喬子「つうかまち駅」に触れる前に。「かねこと」3には金井雄二「詩の本の話を3 『山村暮鳥全集』」というエッセイが載っている。そこに
詩の本についてなら、何でも語れると思っていたけれど、文章にすることと語ることとは違う。
と、書かれている。ええっ。どうして? 私はつかいわけることができない。語るのと同じ感じで書いてしまう。書くのと同じ感じて話してしまう。何かしら気がかりなことがあって、つまりことばにしてみないと、なんだかよく分からないことがあって、書きはじめる。語りはじめる。そしてそのまま、なにか結論(?)があるというわけではなく、ことばが動いていくところまでいってみる。
このブログの場合だと、原稿用紙にしてだいたい8枚。時間にして約40分くらい。私のことばはだいたいそれくらい動いたら、動くのが面倒くさくなるみたいで止まってしまう。話す場合は、相手が何を言ってくるかわからないから、さらにいい加減というか、そのときそのときでことばが変化していくが、これは相手次第だね。どうなるかわからない。そしてこのことは、実は書いている時もほんとうは同じ。このブログの場合、詩を引用する。つまり、そこに他人のことばが入ってくる。そうすると、書こうとしていたことが、引用している内にかわってきて、最初にちらっと思ったことがまったく別なものになることもある。
まあ、そういう具合で、私はいい加減。
語る(話す)ことと書くことが違うとは思ったことがない。
思いつくまま、思いがつきるところまで。
で、三井喬子「つうかまち駅」。
「つうかまち」、
一日日本電車が着きます
黄色い線から下がってお待ち下さい
日がな一日待ち暮らし
うっとり眠ってしまったこともあって
もしもし もしもし
蝶々がとまっても目を覚まさない…
もしもし
もし もし!
プラットホームはまだ目を覚まさない
電車はぷんとして出発する
ふん、こんな小さな駅に
止まってなんかやるものか
たまたまいっぱい顔が乗ってくることもある
といっても 三十人くらいですけれど
いえ、例外的には千人の時も
一万人のこともありますが
「主語」というのかどうかわからないけれど、ことばを発している「主体」が少しずつずれていく。そのずれ方がのどかで、田舎の春のようで楽しい。
「黄色い線から」は駅の案内。でも、この駅にそんな案内があるとは思えないから、まあ、のんびりした夢だね。
で、その夢に蝶々が出てくる。「もしもし」と呼びかけられているのは「私(三井)」かなあ、と思ったら、プラットホーム。そうか、プラットホームも眠るのか。で、このとき主語は? 蝶々?
いいんだけれど、そういうことは、どうでも。
その次の3行は、「主語」は電車だね。電車が「つうかまち」駅をバカにしている。止まってやるものかと言いながら止まっているのは、それが通過待ち(すれ違い待ち)のために止まらざるを得ないから何だろうなあ。
おもしろいのは、その次だ。(実は、それが書きたくて書いているのだが、どうなるかわからない。)
「たまたま……」から始まるのは、誰のことば? 電車のことば。でもさあ、そういう駅で乗客が三十人でも多いなあ。それが千人、一万人なんて、だいたいそんなに電車に乗れる? 乗れないねえ。じゃあ、なぜ、そんなことをこの電車は言ったんだろう。嘘とだれにでもわかることを言っているのだろう。
簡単に言えば、言いたかったんですね。
三十人くらい乗ることもあるんです。これは、ほんとうというか、まあ、欲望というか。三十人くらいは乗せたいよね。ひとの乗せるのが仕事なんだから。できれば千人なんていいだろうなあ。あ、でも、だれも聞いていない。一万人くらいのこともありますよ。大ぼらを吹いてみる。
ちぇっ、気付よ。嘘つくな、嘘は「そこまで」くらい、だれか言えよ。
話し相手がいないので、電車は電車にそう言ってみる。
こういう感じっていいなあ。
こういう詩を書くとき、三橋はどこにいるのかな? つまり、三橋は「黄色い線から……」という人? 聴く人? さらにプラットホームを見る人? プラットホームそのものになっている? 電車になっている? そうやって、代弁している?
こういうことって、どうでもいいよね。そんなことをいちいち区別しないで、うっとりするようなあたたかさ、眠くなるようなのどかさ、そのなかでなにからちらっちらっと動く。まるで、うたたねしながら、ときどきはっ、あ、眠っていた、と気づくような感じ。それだけで十分だ。で、そこには夢もまじってきて、眠っていることをいいことに、夢が暴走する。
三十人、千人、一万人……。
どうでもいいことなのだけれど、この「図に乗った夢の暴走」、その「図に乗り方」が楽しい。
三井って、こんな楽しいことばを書いていたっけ?
で。(またしても、で、なのだが。)
この詩と、金井雄二の書いていたこととなにか関係がある? ないですねえ。ただ、「枕」に引用してみただけなのかもしれない。
でも強いていえば。
私の引用した三井の詩、実は「全行」ではありません。前と後ろを叩ききっている。余分だなあ、と思った。前と後ろが、詩を小さくしている。「意味」をつくり、「抒情」をつくっている。「意味」と「抒情」がひとつになっていて、それがうるさい。
きっと、三井は金井と同じように話すときと書くときは違うと思っているのだと思う。話すとき(語るとき)はだれかが同じ場所にいる。そのとき、どんなことばを語ろうと(話そうと)相手には三井が見える。肉体が見える。そうすると、人は自然にその肉体を通して、その人間の「過去」を思う。話すことばの奥から、そのひとの「過去」が見えてくる。話す人も聞いているひとの「過去」を感じながら話すので、いろいろなものを省略して、その省略を「肉体」から感じている。
電車の三十人、千人、一万人に話をもどすと、話しているときだったら、相手が、「おいおい、千人、一万人なんて、そんなに乗れないじゃないか」は「つっこみ」が飛んでくる。そうして、そこから「現実」に戻ることができる。
でも、書くというのは、そういう「つっこみ」のないところで行われるので、自分で全体を収拾(?)しなくてはならない。
で、「抒情」だとか「意味」を引き寄せてしまう。つまらなくなる。
話している部分だけ、書いてね。書くときに、余分なことを付け足すのはやめてね。そうすると、「頭」ではなく「肉体」そのものが見えてくるから、読んでいて楽しいよ、と私は言いたいんだと思う。--と、ひとごとのように書いてみました。(これで、ちょうど40分。タイマーが時間を教えてくれました。で、きょうの「日記」はここまでです。)
三井喬子詩集―日本海に向って風が吹くよ (北陸現代詩人シリーズ) | |
三井 喬子 | |
能登印刷・出版部 |