日吉千咲『掌インフェクション』(ふらんす堂、2012年07月20日発行)
ときどき、どうにも「肉体」が見えない詩に出合う。日吉千咲『掌インフェクション』も、その一冊。巻頭の「絶て」の1連目。
私は「音読」をするわけではないが、これは「黙読」の場合でも、私はのどが窮屈で疲れてしまう。水が飲みたくなる。しかし、どっちなのだろう。コーヒーでいいのかな? それともジュース? ミネラルウォーター? 私の肉体は反応しない。ただ、のどがからからなのはよくわかる。
そうして、目がかすんでくる。わたしはもともと目が悪いから、姿が見えないために肉体が苦しくなり、水が飲みたくなったのかな?
どっちが先かわからないが、ともかく私はつらくなる。
「恐慌」の次の部分は、まあ、わかるかなあ。肉体がついて行ける。
「同じ汗のにおいが/私の手にうつっている」を別のことばで言い換えると……。(というようなことを、私は詩の講座でしょっちゅうやるのだが)
どうなるだろう。
質問「無理やりこの手に合わせたら/同じ汗のにおいが/私の手にうつっている」を自分のことばで言いなおす、自分のことばを補いながら言いなおすとどうなりますか?
みんな、ええっ、という顔をする。そして悩む。で、そういうとき、「同じ」って何?と質問を言いなおす。そうすると、
「だれかの手のにおい、それが手をあわせたために、自分の手にうつってくる。移動してくる」
「夏だと、汗でべたべた、気持ち悪い」
という具合になるだろうか。
質問「何度も嗅いで警告してやるのだ」は、どう? どんな具合になる? 「警告」を自分のことばでいいなおすと、どうなる?
「くさい、とは言わないけれど、自分の手をくんくん嗅いで、顔をしかめてみせる」
質問「そうすると警告は?」
「顔の反応。変なにおいがこびりついているよ、とことばではなく態度でしめす」
質問「警告」はことばじゃないんだ。「くさいから気をつけろ」と注意するわけではないんだ。
「そうだと思う。くさいって注意できるのは、よっぽど親しい人かなあ」
まあ、こんなような会話が、詩のまわりで動く。
そして、動きながら、自分で言い換えたことばがどうも「最適」ではないという感じがするというか--言い換えてみたけれど、それは「同じ」ではない、ということに気がつく。
自分の手のにおいを嗅いで、くさいなあ、としかめっつらをするというのは、自分の反応。それが絶対的に「警告」とはならない。相手が「すごくくさいだろう?」と喜んだらどうする? 困らせるために、そうしたのかもしれない。
まあ、そんなことはないのだろうけれど、
「そうか、こういうとき、警告っていうのか」
というようなことに気がつく。
「警告」は「警告」でしかない。ほかのことばに言い換えられない。--そして、それが、詩。
言い換えて、自分にわかる「意味」、あるいはほかの誰かにもわかる「意味」にしてしまったら、何かが違ってくる。
その違いを発見しながら、もう一度、最初の「何度も嗅いで警告してやるのだ」に戻る。そうすると、「警告」が、肉体にぴったりなことばになってくる。そういうことばに変化しているのに気がつく。
「警告」のつかい方を覚える、という感じかな?
こういう瞬間の「肉体」の感じが、私は好きだけれど、ほかの行が、どうにも読みづらい。ことばのリズムも私の日本語のリズムにはあわない。音が耳から逃げていく。
ときどき、どうにも「肉体」が見えない詩に出合う。日吉千咲『掌インフェクション』も、その一冊。巻頭の「絶て」の1連目。
生まれて来い
ただ一歩 運命は住まないで欲しい
蛇口は固く閉ざされ
ひとりが喜んで無口になる
万感に嘘をついたら
つまらぬ巨人に呼ばれていたのだ
断念を迫られて
私は「音読」をするわけではないが、これは「黙読」の場合でも、私はのどが窮屈で疲れてしまう。水が飲みたくなる。しかし、どっちなのだろう。コーヒーでいいのかな? それともジュース? ミネラルウォーター? 私の肉体は反応しない。ただ、のどがからからなのはよくわかる。
そうして、目がかすんでくる。わたしはもともと目が悪いから、姿が見えないために肉体が苦しくなり、水が飲みたくなったのかな?
どっちが先かわからないが、ともかく私はつらくなる。
「恐慌」の次の部分は、まあ、わかるかなあ。肉体がついて行ける。
自在とはいかない手を
無理やりこの手に合わせたら
同じ汗のにおいが
私の手にうつっている
ことに気づき
何度も嗅いで警告してやるのだ
「同じ汗のにおいが/私の手にうつっている」を別のことばで言い換えると……。(というようなことを、私は詩の講座でしょっちゅうやるのだが)
どうなるだろう。
質問「無理やりこの手に合わせたら/同じ汗のにおいが/私の手にうつっている」を自分のことばで言いなおす、自分のことばを補いながら言いなおすとどうなりますか?
みんな、ええっ、という顔をする。そして悩む。で、そういうとき、「同じ」って何?と質問を言いなおす。そうすると、
「だれかの手のにおい、それが手をあわせたために、自分の手にうつってくる。移動してくる」
「夏だと、汗でべたべた、気持ち悪い」
という具合になるだろうか。
質問「何度も嗅いで警告してやるのだ」は、どう? どんな具合になる? 「警告」を自分のことばでいいなおすと、どうなる?
「くさい、とは言わないけれど、自分の手をくんくん嗅いで、顔をしかめてみせる」
質問「そうすると警告は?」
「顔の反応。変なにおいがこびりついているよ、とことばではなく態度でしめす」
質問「警告」はことばじゃないんだ。「くさいから気をつけろ」と注意するわけではないんだ。
「そうだと思う。くさいって注意できるのは、よっぽど親しい人かなあ」
まあ、こんなような会話が、詩のまわりで動く。
そして、動きながら、自分で言い換えたことばがどうも「最適」ではないという感じがするというか--言い換えてみたけれど、それは「同じ」ではない、ということに気がつく。
自分の手のにおいを嗅いで、くさいなあ、としかめっつらをするというのは、自分の反応。それが絶対的に「警告」とはならない。相手が「すごくくさいだろう?」と喜んだらどうする? 困らせるために、そうしたのかもしれない。
まあ、そんなことはないのだろうけれど、
「そうか、こういうとき、警告っていうのか」
というようなことに気がつく。
「警告」は「警告」でしかない。ほかのことばに言い換えられない。--そして、それが、詩。
言い換えて、自分にわかる「意味」、あるいはほかの誰かにもわかる「意味」にしてしまったら、何かが違ってくる。
その違いを発見しながら、もう一度、最初の「何度も嗅いで警告してやるのだ」に戻る。そうすると、「警告」が、肉体にぴったりなことばになってくる。そういうことばに変化しているのに気がつく。
「警告」のつかい方を覚える、という感じかな?
こういう瞬間の「肉体」の感じが、私は好きだけれど、ほかの行が、どうにも読みづらい。ことばのリズムも私の日本語のリズムにはあわない。音が耳から逃げていく。
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