詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

秋亜綺羅「ドリーム・オン」

2012-08-06 11:57:32 | 詩(雑誌・同人誌)
秋亜綺羅「ドリーム・オン」(「ココア共和国」10、2012年07月07日発行)

 秋亜綺羅の詩は、印象でいうだけなのだが、「高3コース」に投稿していたときとまったくかわっていない。特徴はふつうの想像力を裏切らないというか、ふつうの想像力の範囲内のことばで詩が書かれるということだ。でも、ふつうなら誰でも書けそうだけれど……。そうなんだなあ。誰でも書けそうでいて、少し違う。その「少し」の説明は、しかし、ほんとうにむずかしい。
 「ドリーム・オン」という作品が三つ書かれている。引用がいちばん簡単(?)な三つ目の作品の1連目。

鏡を覗いたってぼくしかいなくなってしまった
すこしは大人になって禿げあがって
ひたいのしわだって運命線のように深い

 鏡を覗いて「ぼくしかいない」というナルシズム。「しか」ということばが、青っぽい。それから「すこしは大人になって」という自覚と「禿げあがって」という自虐。「大人(年をとる)」と「禿げ(る)」の、絵に描いたような連想の結びつき。これが「白髪になって(白髪がまじって)」だと、「自虐」とはすこし違ってくる(ように思える)。これは、私たちが白髪よりも禿を気にする大人の方が多いということを知っているからだ。秋亜綺羅は、こういう、私たちの意識の奥で共有されている感覚を軽くつかまえてくるのが得意である。それは3行目の「運命線」ということばの選択にとくにあらわれている。「運命線」というのは手相の「運命線」である。手相の、運命線が感情線、頭脳線(で、よかったかな?)と比べて特別深いわけではないだろう。それはひとによって違うだろう。なぜ、感情線や頭脳線ではなく、「運命線」ということばが選ばれたか。よく考えれば、子どもから大人になるまでのあいだに味わってきた「感情」の起伏こそ、肉体に皺となって刻印されていてもよさそうなのに、そういう起伏を克明に描きはじめるとめいどうくさくなる。「あれもこれも運命さ」というようなあきらめ(?)、「運まかせ」みたいな雰囲気の方が「現実」を受け入れやすい。ふつうは、ね。
 こんなことを詩を読みながら、ふつうはいちいちことばにしないのだけれど、ことばにしてみるとそういうことになる。そして、そこに秋亜綺羅の想像力のというか、ことばの動きの特徴を感じる。
 こんな言い方がいいかどうかわからないけれど、「現代詩」を苦悩の世界だとすると、秋亜綺羅の世界はそれを軽くした雰囲気がある。「現代詩」に対して「ポップス」。まあ、こんな言い方はポップスから反論が来そうだけれど。
 「重さ」ではなく「軽さ」が重視されている。そして、その軽さは、想像力が「想定内」であることによって生まれている。
 「軽さ」のために、「鏡を覗いたって」というような「口語」もつかわれる。「鏡を覗いても」ではなく「覗いたって」。あるいは「皺だって」の「だって」。「皺も」と比較すると、その「軽さ」がわかる。「口語」的なのだ。
 これは最初に書いた想定内の想像力とも関係している。「口語」(おしゃべり)の場合、ことばが相手にすぐに理解されないといけない。読みながら、立ち止まり、この字なんて読む?と辞書を引き、意味を調べていては、おしゃべりにならない。わかることば、知っていることばでないと、おしゃべりはつづかない。だから、そこにつかわれることばは、あくまでも私たちがよく知っていることばであり、なおかつ、想像力の想定内--そして、その想定の範囲内の、ちょうどぎりぎりくらいのところというのが大切になる。
 感情線、頭脳線ではなく、「運命線」というのは、そういうちょうどぎりぎりのところを駆け抜けていく。駆け抜けながら、さっと私たちのこころを照らしだす。「運命」ということばとともに何かをいうときの「諦め」というか、自分ではどうすることもできない何かを人間は知っているということなどを、ね。
 ちょっとややこしい(?)ことをいうときは、何度も繰り返す。

過去は過ぎ去り未来は未だ来ない

 という具合に、漢字を利用しながら、「意味」を説明するようなことばも、そうした繰り返しのひとつだけれど、ここでも「過去」「未来」という誰でもが知っている漢字、この詩が朗読されても思い浮かぶような(つまり想像力の想定内の)、ことばがつかわれる。ことばが選ばれる。
 で、ほんとうの繰り返し。あるいは言い直し。

夢見たことが現実になってしまう
ある日死んだ夢を見るだろう
夢から醒めない方法を誰に尋ねたらいい

現実をもういちど夢に見てしまう
ある日ほんとうに死ぬだろう
夢をもう覗かないですむ方法をその時ぼくは醒めて知る

 これも想像力の想定内だけれど、でも、少し「論理力」がいるね。ことばを「論理」てきに追って、そうすることでわかる小さなずれ。感情線、頭脳線ではなく「運命線」を額の皺に見るような、少しの飛躍。
 こういうことも、秋亜綺羅は大好きだね。

紋黄蝶がレモン・スカッシュに溺れて透けながら
全身が黄色いストロボで麻痺する呪文を空覚えすると
ぼくには魂をキリキリ舞わせる儀式しかない

静かで安全な部屋でうるさい夢を見る
静かで安全な場所でピストルをみがきなおす
夢の中でいいのならぼくは裸の紋黄蝶とファックした

 「論理」が「映像」に転化しながら動いていく。「おしゃべり」がとまらない感じ。で、そこに「夢の中でいいのならぼくは裸の紋黄蝶とファックした」というような、不思議な「時制」が登場する。ふつうは、「夢の中でいいのならぼくは裸の紋黄蝶とファックする」という「未来形」になる。「夢の中でいいなら」というのは仮定だから、ふつうは未経験なことばを呼び寄せるのだが、秋亜綺羅はファック「した」と過去形にする。
 そうすると、リズムが、洗いなおされる感じがするねえ。

人生はやり直しがきかないので 波
文字の書けなくなる暗さまで待って 波
ひと芝居打って打ち返してみたらいい 波

 「波」の繰り返しで、何かしら、そこに「統一されたもの」があるかのようにことばが動く。でも、きっとあるのは「意味」ではなく「波」という音の繰り返し。意味がなくてもことばは動くという「軽さ」。
 それから「ひと芝居打って打ち返してみたらいい」の「打って」と「打ち返して」ということばの対立というか、応酬。

 秋亜綺羅は「意味」を書いていない。ことばは想像力の想定内から出発して、そこでつかんだ軽さのまま疾走する。ことばが「意味」になりそうになると、音楽で洗い流しながら、「意味」を捨てる。
 このとき、何が残るか。
 ていねいに説明すると面倒なので、省略して書いてしまうが(きょうは、頭が痛いので……)、「おしゃべり」をした「肉体」が残る。ことばを疾走させた「肉体」が残る。「音」といっしょに。--それを思い出させるために、秋亜綺羅は詩を書いている。

 (省略しすぎたね。また、別の機会に。--ほんとうに、頭が痛い。中断。強制終了、という感じ……。)



季刊 ココア共和国vol.10
秋 亜綺羅,池井 昌樹,一倉 宏,雨女 薬,石井 萌葉,望月 苑巳
あきは書館
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