田中郁子「七月」(「すてむ」53、2012年08月10日発行)
田中郁子「七月」は少し面倒くさい文体である。
これは書き出しなのだが、場所は山峡のどこか。時刻は夜。満月が出ている。その月はある家の柿の木の上にある。--という情景である。情景がわかるのだから「面倒くさい」という感想はよくないのかもしれないが、いやあ、面倒くさい。
「山峡の夜の満月が」と「夜」はなぜ必要? 夜以外に満月は上る? 昼の満月というのもあるが、これは太陽の光によって輝く月ではなく、地球の反射が月に跳ね返って見えるもの。そういうときは「昼の月」というけれど、ふつうは「夜」でしょ? だから、「夜」を省略して「山峡の満月」で十分わかる。次の「静かな天に上るのは」も月が天に上るのはあたりまえだから、何かわずらわしい感じがする。そのわずらわしさを感じながら読み進むということが面倒くさい。
次の「何代も続いた屋根に寄り添った柿」というのもうるさい。わずらわしいというか、まあ、私の感覚の意見では面倒くさい。ある家がある。その家は何代もつづいている。ようするに、田中の描いている山峡の、古い家である。「古い」といわずに「何代も続いた」と書くことで、「古さ」を「時間の経過」として説明しているところが、なんともうるさく、面倒くさい。その庭には柿の木がある。庭というより山峡の家なのだから、畑かもしれない。庭を畑のように、畑を庭のようにつかわないと山峡には耕す土地が少ない。で、そういう情景を描くのに「屋根に寄り添った」ということばをつかう。屋根の近く、家(建物)のすぐ近くに柿の木がある。
さらに、ここまで読むと、月が単に天にあるのではなく、その真下(?)には柿の木があるというのだけれど--わかるけれど、「天に上る」「柿の木の上である」は、どうも何かうるさい。「二重」にことばがひしめているかんじがする。それが面倒くさい。
つづきを読むと、もっと面倒くさい。
柿の木の描写が、どうにも「素直」ではない。折り重なっている。「二重」になっている。「愛される」とか「歓喜に満ちた」という「精神的なもの」が柿の木にまとわりついてくるのがうるさい。さらに「結ばなければならない」の「ならない」が窮屈である。これは、柿の木ではなく、柿の木に「対する」描写--つまり、田中の「思い」である。
対象を描写するとき、対象と「私(田中)」を切り離し、いわゆる客観的に描写をするというのではなく、田中はあくまでも「主観的」に描写をしようとする。そこで描かれているのは、柿の木ではなく、田中の気持ちなのである。この気持ちが動いている領域が「対する」という領域。
なぜ、こんな面倒くさいことを書いているかというと、その面倒くささのなか、つまり「対する」という思いというか、その領域をくぐりぬけているからこそ、そこに「対象」と「対する」という「二重性」が見えてきて、それが見えないと、実は、この詩のつづきがおかしくなるとまではいわないけれど、不条理がわからなくなるからである。
老婆と少女。それは「ふたり」なのだが、少女は老婆のなかに住みついているのだから、外見的には「ひとり」である。老婆と少女が「二重」になり、「ひとり」のように見える。そして、そのときの「老婆のなか」の「なか」というのが、まあ「対する」というときの気持ちの動く「場」だね。少女が「対する」の主語なのか、老婆が「対する」の主語なのか、わからないね。どちらかを主語として仮定して、もっと丁寧に読めば、それなりにどちらかを主語として特定できないこともないのかもしれないけれど、まあ、そんなことはしなくていい。どっちでもいいのである。「二重」であること、そして「対する」という精神の動きが、その「二重」を生み出しているということさえ、「納得」できればいい。わからないけれど納得できるということは世の中にはたくさんある。--それは、まあ、「肉体」が知らず知らずに覚えてしまったあれこれで、そういうことはいちいち「頭」で整理すると面倒くさい「哲学」になってしまうので、省略すればいい。肉体がわかっていることは、本能に近いものなので、間違いはない。間違っていても、たいしたことではない。つまり誰の迷惑にもかからない--と私は「誤読」を強引に押し進めるのである。
で、ね。詩に戻ると。
ほら、これって少女のもの? あるいは老婆のもの? 少女がいま感じていること? 老婆が思い出している少女の記憶? 少女が老婆のなかにいると感じたときに老婆が感じたこと? わからないでしょ? どっちでもいいでしょ?
どっちでもいいというと書いた田中に申し訳ないけれど、つまり田中はそのことばを書いたとき、そのひとつひとつを「どっちである」とわかって書いていたと思うけれど、そういうことは必ずしも読者(あ、私のことだけれどね)に伝わるとはかぎらない。
それを理解しないことには「感想」、あるいは「批評」にならないというひともいるかもしれないけれど、--そういうことが「うるさい」「面倒くさい」。
いいんです、そういうことは。
田中は自分が「老婆」であることを自覚している。(会ったことはないけれど、きっと若くはない。)そしてその老婆の中には、依然として少女の田中がいきいきと動いている。少女が生きているから、田中は老婆でいることができる。
これは、次の部分で田中自身によって語られる。
あとは、もういいですね。引用しません。
そういう世界です。
田中の文体は面倒くさい。でも、その面倒くささには理由がある。田中は面倒くさいことを丁寧に書きたい詩人なのだ。それは、まあ老婆と少女の関係の中で以後書かれていくのだけれど、それは実は書き出しの「山峡の夜の満月が……」という部分できちんと用意(準備?)されていることなのである。こういう用意(準備)を整えてから田中のことばは動きだす。
いいなあ。この丁寧さ。
こういう丁寧さは、若い人にはない。しっかり肉体に身についた(しみこんだ?)丁寧さである。
で、田中はきっと「お年寄り」だなあ、と私は思うのである。(間違っていたらごめんなさい。)そして、そういうお年寄りの丁寧さは、まあ、私のような若い人間(ほんとうは若くはないけれど、田中と比較してみれば、相対的にみれば若い人間)には、面倒くさいものなのだが--私は意外とこの手の面倒くささについていくのが好きなんだなあ。
矛盾しているけれど、面倒くさいものの方が簡単なものより面倒くさくない。わくわくする感じがあるからだと思う。わくわくさえあれば、なんでもほんとうは面倒くさくないものなのだ。
田中郁子「七月」は少し面倒くさい文体である。
山峡の夜の満月が静かな天に上るのは 何代も続いた屋根
に寄り添った柿の木の上である
これは書き出しなのだが、場所は山峡のどこか。時刻は夜。満月が出ている。その月はある家の柿の木の上にある。--という情景である。情景がわかるのだから「面倒くさい」という感想はよくないのかもしれないが、いやあ、面倒くさい。
「山峡の夜の満月が」と「夜」はなぜ必要? 夜以外に満月は上る? 昼の満月というのもあるが、これは太陽の光によって輝く月ではなく、地球の反射が月に跳ね返って見えるもの。そういうときは「昼の月」というけれど、ふつうは「夜」でしょ? だから、「夜」を省略して「山峡の満月」で十分わかる。次の「静かな天に上るのは」も月が天に上るのはあたりまえだから、何かわずらわしい感じがする。そのわずらわしさを感じながら読み進むということが面倒くさい。
次の「何代も続いた屋根に寄り添った柿」というのもうるさい。わずらわしいというか、まあ、私の感覚の意見では面倒くさい。ある家がある。その家は何代もつづいている。ようするに、田中の描いている山峡の、古い家である。「古い」といわずに「何代も続いた」と書くことで、「古さ」を「時間の経過」として説明しているところが、なんともうるさく、面倒くさい。その庭には柿の木がある。庭というより山峡の家なのだから、畑かもしれない。庭を畑のように、畑を庭のようにつかわないと山峡には耕す土地が少ない。で、そういう情景を描くのに「屋根に寄り添った」ということばをつかう。屋根の近く、家(建物)のすぐ近くに柿の木がある。
さらに、ここまで読むと、月が単に天にあるのではなく、その真下(?)には柿の木があるというのだけれど--わかるけれど、「天に上る」「柿の木の上である」は、どうも何かうるさい。「二重」にことばがひしめているかんじがする。それが面倒くさい。
つづきを読むと、もっと面倒くさい。
山峡の夜の満月が静かな天に上るのは 何代も続いた屋根
に寄り添った柿の木の上である その時 柿の木はたくさ
んの葉を茂らせ たくさんの実を結んでいなければならな
い 満月に愛される柿の木は どの柿の木よりも豊かに実
を結ばなければならない 歓喜に満ちた実は もえでる色
彩と 若葉のかおりを吸い込み 葉裏にわきあがる大気が
やわらかく漂うと 稲の花が咲くことを知っている
柿の木の描写が、どうにも「素直」ではない。折り重なっている。「二重」になっている。「愛される」とか「歓喜に満ちた」という「精神的なもの」が柿の木にまとわりついてくるのがうるさい。さらに「結ばなければならない」の「ならない」が窮屈である。これは、柿の木ではなく、柿の木に「対する」描写--つまり、田中の「思い」である。
対象を描写するとき、対象と「私(田中)」を切り離し、いわゆる客観的に描写をするというのではなく、田中はあくまでも「主観的」に描写をしようとする。そこで描かれているのは、柿の木ではなく、田中の気持ちなのである。この気持ちが動いている領域が「対する」という領域。
なぜ、こんな面倒くさいことを書いているかというと、その面倒くささのなか、つまり「対する」という思いというか、その領域をくぐりぬけているからこそ、そこに「対象」と「対する」という「二重性」が見えてきて、それが見えないと、実は、この詩のつづきがおかしくなるとまではいわないけれど、不条理がわからなくなるからである。
やがて ひとりの老婆が心地よい枝葉に住みつくことも知
っている 老婆の中にはいつもひとりの少女が住んでいた
少女は世の荒波を越えてきた老婆のしなやかな「老い」に
あこがれていた 生きることの希望や死への不安にとらえ
られはじめ はかない夕雲のたわむれに微笑みながら突然
の風の冷気に恐れを感じていた 老婆はどのように打ち克
ってきたのだろう
老婆と少女。それは「ふたり」なのだが、少女は老婆のなかに住みついているのだから、外見的には「ひとり」である。老婆と少女が「二重」になり、「ひとり」のように見える。そして、そのときの「老婆のなか」の「なか」というのが、まあ「対する」というときの気持ちの動く「場」だね。少女が「対する」の主語なのか、老婆が「対する」の主語なのか、わからないね。どちらかを主語として仮定して、もっと丁寧に読めば、それなりにどちらかを主語として特定できないこともないのかもしれないけれど、まあ、そんなことはしなくていい。どっちでもいいのである。「二重」であること、そして「対する」という精神の動きが、その「二重」を生み出しているということさえ、「納得」できればいい。わからないけれど納得できるということは世の中にはたくさんある。--それは、まあ、「肉体」が知らず知らずに覚えてしまったあれこれで、そういうことはいちいち「頭」で整理すると面倒くさい「哲学」になってしまうので、省略すればいい。肉体がわかっていることは、本能に近いものなので、間違いはない。間違っていても、たいしたことではない。つまり誰の迷惑にもかからない--と私は「誤読」を強引に押し進めるのである。
で、ね。詩に戻ると。
生きることの希望や死への不安
ほら、これって少女のもの? あるいは老婆のもの? 少女がいま感じていること? 老婆が思い出している少女の記憶? 少女が老婆のなかにいると感じたときに老婆が感じたこと? わからないでしょ? どっちでもいいでしょ?
どっちでもいいというと書いた田中に申し訳ないけれど、つまり田中はそのことばを書いたとき、そのひとつひとつを「どっちである」とわかって書いていたと思うけれど、そういうことは必ずしも読者(あ、私のことだけれどね)に伝わるとはかぎらない。
それを理解しないことには「感想」、あるいは「批評」にならないというひともいるかもしれないけれど、--そういうことが「うるさい」「面倒くさい」。
いいんです、そういうことは。
田中は自分が「老婆」であることを自覚している。(会ったことはないけれど、きっと若くはない。)そしてその老婆の中には、依然として少女の田中がいきいきと動いている。少女が生きているから、田中は老婆でいることができる。
これは、次の部分で田中自身によって語られる。
葉群れの中で 何があろうと二人は二人であったが また
限りなくひとりでなければならなかった
あとは、もういいですね。引用しません。
そういう世界です。
田中の文体は面倒くさい。でも、その面倒くささには理由がある。田中は面倒くさいことを丁寧に書きたい詩人なのだ。それは、まあ老婆と少女の関係の中で以後書かれていくのだけれど、それは実は書き出しの「山峡の夜の満月が……」という部分できちんと用意(準備?)されていることなのである。こういう用意(準備)を整えてから田中のことばは動きだす。
いいなあ。この丁寧さ。
こういう丁寧さは、若い人にはない。しっかり肉体に身についた(しみこんだ?)丁寧さである。
で、田中はきっと「お年寄り」だなあ、と私は思うのである。(間違っていたらごめんなさい。)そして、そういうお年寄りの丁寧さは、まあ、私のような若い人間(ほんとうは若くはないけれど、田中と比較してみれば、相対的にみれば若い人間)には、面倒くさいものなのだが--私は意外とこの手の面倒くささについていくのが好きなんだなあ。
矛盾しているけれど、面倒くさいものの方が簡単なものより面倒くさくない。わくわくする感じがあるからだと思う。わくわくさえあれば、なんでもほんとうは面倒くさくないものなのだ。
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