詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

御庄博実「捨てる 原発破砕5」

2012-08-01 09:11:12 | 詩(雑誌・同人誌)
御庄博実「捨てる 原発破砕5」(「現代詩手帖」2012年08月号)

 「現代詩手帖」2012年08月号は「夏の作品特集--記憶と現在」を組んでいる。
 御庄博実「捨てる 原発破砕5」が衝撃的である。「衝撃的」と感じるのは、私の感性が鈍っているからであって、ほんとうは御庄が書いているように、「記憶と現在」は「と」ということばで「並列状態」で存在するのではなく、まじりあって区別のできないものかもしれない。切り離すと「記憶」でも「現在」でもなくなってしまうものかもしれない。
 「と」ということばは、不便だ。
 「と」では何かが言い足りない。--そういう「矛盾(?)」というか、苛立ちというか、そういうものを抱えて御庄のことばは動く。そのことばにならない苛立ち、怒りに、ああ、そうなのだ、とあらためて「衝撃」を受けるのである。

 原発事故(非難所生活)から五か月後、「一時帰還」が「許されて」家に帰ったときのことを書いている。
 家に帰ることさえ「許可」がいる、という不思議な悲しさ--その奥にあるものはいったいなんだろう。誰が「許す」のか、何のために「許す」のか。これも、実は「区別ができない」。放射能汚染のため、近づくと御庄のからだ(いのち)に危険が及ぶおそれがある。「いのちを大切にしなさい、帰ってはいけません(その地区へ行ってはいけません)」という禁止は、ほんとうに御庄のことを守ろうとして言われたことばなのか。それとも政府(あるいは東電)を守ろうとして(つまり、批判を回避するために)、言われたことばなのか「区別ができない」。何かしら、あることがらには「区別ができない」ものがあるというのが「現実」で。
 「記憶」というのは「現実」、つまり「現在(いま)」ではなくて、「過去」のことをさしているのようだが、その「過去」を思い出す「いま」は、実は「過去」とは区別がつかない。「思い出す」という意識のなかでは「いま」と「過去」のあいだに、あるべき「時間」の隔たり、距離がない。思い出すとき、記憶(過去)は「いま」という時間のなかにそのまま融合してきて、「区別ができない」。
 それが「現実」。
 「現実」には、いくつものことが絡み合っていて、それは切り離せない。
 あ、こんなことをごちゃごちゃ書く必要はない。御庄の作品を引用する。(2連目から)。

国破れて山河あり と昔の詩人が詠った
裏山の木々に絡む 緑濃いふるさとの匂い
住み慣れた家は 三月十一日のまま
足の踏み場もなく崩れ落ち破れた家具
裏戸も開けたままで
飼いなれた猫のタマはどこへ行ったか
台所は何ものかに踏み荒らされ 糞もある

許された二時間の間に
六十年生きてきた時間の記憶をたどりながら
おもいでの日々をかき集める
母がこれだけはと言っていた父の位牌はあった
もう孫もいる娘の小学校入学時の家族写真
日々の生活用品と
六十年の記憶を袋につめた

捨てろという 故郷を捨てろという
捨てられた稲田はもう雑草におおわれていた
ビニールハウスもブロッコリも 桔梗も 枯れた
稲田もハウスも 去年の面影はない
三十年は帰れないという
枯れ果てる田畑 崩れる我が家
だが おのれの記憶は枯らすわけにはゆかん
むむ…… この故郷を捨てねばならんか

 いろいろなことを私は思う。「国破れて山河あり」。私たちのことばは、こんなふうに「他人のことば」を手がかりに動いてしまう。すぐには自分のことばが出てこない。自分のことばにたどりつくまでには、もっと「時間」がかかる。
 「緑濃いふるさとの匂い」。「ふるさと」ということばは、非常に矛盾を含んでいる。--矛盾というのは変な言い方だが、この「ふるさと」はほんとうの「ふるさと」ではない。それは、原発事故によってつくられた「ふるさと」である。原発事故さえなければ、御庄の家は、その裏山は「ふるさと」にはならずに、ただの家、いつも暮らしている家だったはずだ。それを事故が「ふるさと」にしてしまった。「いま/ここ」にはそういう「過去」が「記憶」としてではなく、「現実(現在)」として、見えない形で動いている。こういうことが「悲しみ」ではなく「怒り」のことばになり、さらにそれが「力」として動くようになるまでには、たぶん、もっと時間がかかる。
 だからこそ、「おのれの記憶は枯らすわけにはゆかん」ということばが、御庄の肉体を突き破るようにして噴き出してくるのだが。
 その前に、もう少しゆっくり詩を読み返すと。

飼いなれた猫のタマはどこへ行ったか
台所は何ものかに踏み荒らされ 糞もある

 この何といえばいいのか、「国破れて山河あり」とか「緑濃いふるさとの匂い」とかいう「美しいことば(美しい自然)」、こころのなかの悲しみを吹き払い、慈しむような自然の美しさのあとに、ふいにあらわれる「糞」の非情さ。
 でもねえ。「糞」は自然なのだ。肉体の自然なのだ。そして自然というのはいつだって非情なのだ。「国破れて山河あり」「緑濃いふるさとの匂い」はたしかにこころを洗ってくれる。こころを抱きしめてくれる。--だが、それは私たちがそう思っているだけである。思いたがっているだけである。自然は人間のこころになど配慮はしない。そこにあって、ただ自然の法則にしたがって生きている。

捨てられた稲田はもう雑草におおわれていた
ビニールハウスもブロッコリも 桔梗も 枯れた

 雑草は人間の悲しみを無視して生きている。ブロッコリーと桔梗は御庄の気持ちを無視して枯れてしまった。そこでは人間の思いなどとは無関係に生きて死んで行く自然がある。それは人間の思いとは無関係な、独立した存在である。
 そうなのだけれど。
 御庄はまた知っている。稲田は手入れをすれば美しい田んぼになる。秋には黄金の稲穂が揺れる。ハウスのブロッコリーも桔梗も手入れをすれば美しく育つ。「手入れをする」という働きが、自然を美しく変えていく。そのとき御庄と自然は、「非情」とは違った世界(次元)を生きる。
 そういう「時間」がついさっきまであったのだ。
 そういう「時間」を、原発事故が(あるいは政府が、あるいは東電が)、「記憶」にしてしまった。
 御庄の「許し」も受けずに。御庄の「ふるさと」の人は、誰も、そういうことを「許す」ということをしていない。
 それなのに、御庄たちは、家へ帰ることさえ「許し」を受けないと実行できない。

 この理不尽な悲しみ、怒りは「記憶」になどできない。「現在」のまま、いつまでもいつまでも、持ちつづけなければいけない。いったい誰が、何の権利があって「故郷を捨てろ」と命令するのか。それは誰に「許されている」ことなのか。
 あなた(御庄の)いのちを守るために、いのちがないと、悲しみを怒りに、怒りを力にかえて、政府や東電に向き合い、闘うこともできないでしょう--と、誰かは言うだろう。
 あ、頭で考えることばというのは、いつでもそういういいかげんなというか、どうとでも動くものだ。「肉体」は、肉体のなかにあることばは、そんな簡単には動かない。だから、ややこしい。
 



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