たなかあきみつ訳ヨシフ・ブロツキイ「燃焼」(「ロシア文化通信」40、2012年07月31日発行)
たなかあきみつ訳ヨシフ・ブロツキイ「燃焼」は「冬の宵。」ではじまる。その「冬」の一文字にひきつけられて読みはじめた。暑くてたまらない。冷房を入れると頭が冷えて頭痛がする。せめて、冬の気分にでも……。
ところが大失敗でした。
「冬の宵」の次は「焔」である。まあ、ロシアなので冬は暖房をしないとつらいよね。救いは「晴れた日の風に吹かれる」かなあ。冬の冷たい空気が部屋のなかに広がる--というのは無理にしても意識のなかに広がれば……。
でもねえ。
あ、焔だらけだ。
でも、おかしいねえ。炎なのに、なぜか熱くない。それだけ炎が冬の寒気に包まれているということだろうか。
うーん、違う。
そうじゃないな、この「熱さ」の欠落は。
読んでいて、汗がぜんぜん出てこない。
「読んで失敗だったな」というのは勘違い。「正解」とまではいかないが、なぜか、さっぱりした気分になる。
このさっぱりは、どこから?
簡単に言うと、汗が流れない、ということにある。
ここから(もう、さっきから?)、私の感想は詩に対する感想なのか、「風土」に関する感想なのかわからなるのだけれど、真夏の暑い日に、冷房なしの部屋でこの詩を読んでいても実は暑苦しくならない。
なぜかというと、ここに書かれている「熱(焔)」は日本の8月の熱さとは違った種類のものだからである。そのいちばんの違いは、
である。ロシアの炎は接触を拒絶している。もちろん、それは炎が拒絶しているというよりも、人間の方が接触するとやけどをしてしまうという問題を含んでいるのだけれど、そういうことをいわずに、「触るな」と拒絶するその「距離感」が、日本の夏の暑さととは違う。
日本の暑さは、「触るな」といいたいけれど、湿気、そして高温が、肌にべったりとさわってくる。そして、その接触は「触るな」というほど危険でもない。37度の空気に触れても、やけどをするわけではないからね。
距離がとれるか(距離をとるか)、距離がとれないかが、日本の夏の暑さとロシアの冬の炎の違いである。
で、
というきっぱりした距離の要求に接すると、なんだか風がさーっと吹き抜けていく感じがする。いいもんだなあ、と思う。
ブロツキイにこんなことをいうと叱られるかもしれないが、ロシアの冬にいけば、こんな寒さを体験できるんだ、やけどしてでも炎に触れたいと思うくらい寒いのに、それができない。炎はそこにあるのに、触れることができないという矛盾に出合うことができるんだなあと思うと、日本の夏が吹き飛ぶ。
で、その炎が女なんだよねえ……。
というのは、まあ、男の感想かもしれないけれど、それもいいなあ。触りたい。でも、触るとだめ。目の前にいるのに……。
まあ、いいか。
いや、よくなくて。
この2行だけ、途中から取り出すと、ほんとうはいけないんだろうけれど、隠しても隠しても本質はあらわれて、あらわれることでおまえを裏切る--というのは、愛の未練の捨てぜりふみたいでかっこよくない?
ロシアの冬はかっこいいんだ、と私は思う。
ひるがえって。
ああ、この暑さ、だれか「この暑さがかっこいいんだ」という詩を書いてくれないかなあ、と思うと、暑さが身にこたえるので、書いたけれど、読まなかったことにしてください。
ロシアの冬はエロチック。そして、こんなに書いても書き足りないくらい寒いんだ。今すぐ行きたい!
たなかあきみつ訳ヨシフ・ブロツキイ「燃焼」は「冬の宵。」ではじまる。その「冬」の一文字にひきつけられて読みはじめた。暑くてたまらない。冷房を入れると頭が冷えて頭痛がする。せめて、冬の気分にでも……。
ところが大失敗でした。
冬の宵。焔に
包まれる薪は--
晴れた日の風に吹かれる
女の頭のよう。
「冬の宵」の次は「焔」である。まあ、ロシアなので冬は暖房をしないとつらいよね。救いは「晴れた日の風に吹かれる」かなあ。冬の冷たい空気が部屋のなかに広がる--というのは無理にしても意識のなかに広がれば……。
でもねえ。
髪の房はなんと金色になることか、
失明するぞと威嚇しつつ!
彼女の顔から寸法をつめることなかれ。
おつぎは不可能なものを好転させろ。
髪の分け目をつけるな、
櫛で分けるな。
焼きつくすことができるような
視界が開けよう。
私は焔をじっと見つめる。
焔の言語で
《触るな》と声があがるだろう
《わたしには!》とにわかに燃え上がる。
あ、焔だらけだ。
でも、おかしいねえ。炎なのに、なぜか熱くない。それだけ炎が冬の寒気に包まれているということだろうか。
うーん、違う。
そうじゃないな、この「熱さ」の欠落は。
読んでいて、汗がぜんぜん出てこない。
「読んで失敗だったな」というのは勘違い。「正解」とまではいかないが、なぜか、さっぱりした気分になる。
このさっぱりは、どこから?
簡単に言うと、汗が流れない、ということにある。
ここから(もう、さっきから?)、私の感想は詩に対する感想なのか、「風土」に関する感想なのかわからなるのだけれど、真夏の暑い日に、冷房なしの部屋でこの詩を読んでいても実は暑苦しくならない。
なぜかというと、ここに書かれている「熱(焔)」は日本の8月の熱さとは違った種類のものだからである。そのいちばんの違いは、
触るな
である。ロシアの炎は接触を拒絶している。もちろん、それは炎が拒絶しているというよりも、人間の方が接触するとやけどをしてしまうという問題を含んでいるのだけれど、そういうことをいわずに、「触るな」と拒絶するその「距離感」が、日本の夏の暑さととは違う。
日本の暑さは、「触るな」といいたいけれど、湿気、そして高温が、肌にべったりとさわってくる。そして、その接触は「触るな」というほど危険でもない。37度の空気に触れても、やけどをするわけではないからね。
距離がとれるか(距離をとるか)、距離がとれないかが、日本の夏の暑さとロシアの冬の炎の違いである。
で、
髪の房はなんと金色になることか、
失明するぞと威嚇しつつ!
《触るな》と声があがるだろう
《わたしには!》とにわかに燃え上がる。
というきっぱりした距離の要求に接すると、なんだか風がさーっと吹き抜けていく感じがする。いいもんだなあ、と思う。
ブロツキイにこんなことをいうと叱られるかもしれないが、ロシアの冬にいけば、こんな寒さを体験できるんだ、やけどしてでも炎に触れたいと思うくらい寒いのに、それができない。炎はそこにあるのに、触れることができないという矛盾に出合うことができるんだなあと思うと、日本の夏が吹き飛ぶ。
で、その炎が女なんだよねえ……。
というのは、まあ、男の感想かもしれないけれど、それもいいなあ。触りたい。でも、触るとだめ。目の前にいるのに……。
まあ、いいか。
いや、よくなくて。
どんなに線描を隠し通そうとも、
かえって本質はおまえを裏切るだろう、
この2行だけ、途中から取り出すと、ほんとうはいけないんだろうけれど、隠しても隠しても本質はあらわれて、あらわれることでおまえを裏切る--というのは、愛の未練の捨てぜりふみたいでかっこよくない?
ロシアの冬はかっこいいんだ、と私は思う。
ひるがえって。
ああ、この暑さ、だれか「この暑さがかっこいいんだ」という詩を書いてくれないかなあ、と思うと、暑さが身にこたえるので、書いたけれど、読まなかったことにしてください。
こうしてシルクは裂ける、パチパチ爆ぜながら、
局部を露出しながら。
ほほが見えかくれするかと思えば、
口がめらめら燃えあがるだろう。
ロシアの冬はエロチック。そして、こんなに書いても書き足りないくらい寒いんだ。今すぐ行きたい!
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