南川隆雄「ほたるの夜」(「現代詩手帖」2012年08月号)
南川隆雄「ほたるの夜」は、書き出しが「記憶」に触れてくる。
「ひるま踏み入れた陽光が」というのは、太陽の光がそれ自身で田んぼに踏み込んだともとれるけれど、そうではなくて、南川(と、とりあえずしておく)が田んぼのなかに足を踏み入れ、仕事をしたとき、その南川の足を追いかけるようにして太陽の光が踏み入れたということだろう。太陽の光と南川の肉体が一体になっている。
そこで南川の肉体と太陽が一体になっているからこそ、そのことを知っている田んぼは、夜になると水底からそっと光を放つのである。南川の肉体をなぐさめるために。
このとき、あ、南川の肉体と一体になっていたのは太陽の光だけではない、ということがわかる。田んぼの水、田んぼの泥、そして稲もみんな一体になっていた。一体になっている。
この一体感があるから、2連目が美しい。
「だれが呼び寄せてくれたのか」を南川は知っている。知っているから、言わないのである。それが「働く」ということの「徳」というものかもしれない。
石灰も人肥も雑草も蛭も膿も、南川と「一体」のものである。ナパーム弾は違う。だから、「触るなよ」なのである。しかし、その「触るな」を含んでいるのが「記憶」ではなく「現在」というものなのだ。
「現在」をしかし南川は「記憶」からのみ見つめているわけではない。「一体」としての暮らしは同時に現在であり、ナパーム弾は「現在」につきささった「記憶」でもある。それはまったく異質なものなのに、異質でありながら、「記憶」と「現在」ではなく、つまり並列の対比ではなく、一種の「癒着」のようなものである。「一体」ではないのに、くっついてしまっている何かである。
ここを、どうこじ開けていくか。
これは、とてもむずかしい。
そのむずかしい部分で頼りになるのは、やはり肉体である。「手」。その感触。手が記憶するもの。手が触れる現在。そこには「しごいてもとれない」という「未来」の時間も入ってくる。「とれない」は「現在」であるけれど、「とれない」はつづくのだから「未来」でもあるのだ。そして、それが「とれない」のはそこに「過去」があるからだ。
「記憶と現在」とは簡単には言えないのだ。
「時間」も「意識(? でいいのかな?)」も単純に「一瞬(一点)」ではない。つねに広がっている。何かと接続している。それを南川は「頭」ではなく、田んぼに踏み入れる「足(このことばは書いてはないけれど)」や「手」という肉体でしっかりつかんでいる。肉体のなかに取り込んでいる。
こういうものだけが、たしかに「記憶」なのだ。そして、そういう「記憶」は肉体をはみだしてただよう。肉体を突き破って、「いま/ここ」にあらわれる。
美しいと言ってはいけない悲しみ。怒り。美しいとは言わないからこそ美しくあるもの。その絶対的な矛盾。
「たましい ひかれ」の「ひかれ」は「引かれ(惹かれ、曳かれ)」であろうか、あるいは「光れ」であろうか。
わからない。区別ができない。「ことば」のなかに別のことばが含まれて「一体」になっている。それが自然な感じである。それが美しい。
南川隆雄「ほたるの夜」は、書き出しが「記憶」に触れてくる。
ひるま踏み入れた陽光が
水底から漏れでて
新月の田の面が細かく脈うつ
あ あそこに
「ひるま踏み入れた陽光が」というのは、太陽の光がそれ自身で田んぼに踏み込んだともとれるけれど、そうではなくて、南川(と、とりあえずしておく)が田んぼのなかに足を踏み入れ、仕事をしたとき、その南川の足を追いかけるようにして太陽の光が踏み入れたということだろう。太陽の光と南川の肉体が一体になっている。
そこで南川の肉体と太陽が一体になっているからこそ、そのことを知っている田んぼは、夜になると水底からそっと光を放つのである。南川の肉体をなぐさめるために。
このとき、あ、南川の肉体と一体になっていたのは太陽の光だけではない、ということがわかる。田んぼの水、田んぼの泥、そして稲もみんな一体になっていた。一体になっている。
この一体感があるから、2連目が美しい。
田草取りを終えた稲のうえを
ふたつみっつ ひかりの綿毛が流れる
腰定まらぬ野良仕事のなぐさめに
だれが呼び寄せてくれたのか
「だれが呼び寄せてくれたのか」を南川は知っている。知っているから、言わないのである。それが「働く」ということの「徳」というものかもしれない。
ひるま 石灰をまき 腐らせた人肥をまき 雑草をねじ込んだ泥田
ひるま 蛭に血を吸われ 切り傷を膿ませ 腹空かせてへたり込んだ泥田
触るなよ ナパーム弾の六角筒が 斜めに突き刺さる泥田
石灰も人肥も雑草も蛭も膿も、南川と「一体」のものである。ナパーム弾は違う。だから、「触るなよ」なのである。しかし、その「触るな」を含んでいるのが「記憶」ではなく「現在」というものなのだ。
「現在」をしかし南川は「記憶」からのみ見つめているわけではない。「一体」としての暮らしは同時に現在であり、ナパーム弾は「現在」につきささった「記憶」でもある。それはまったく異質なものなのに、異質でありながら、「記憶」と「現在」ではなく、つまり並列の対比ではなく、一種の「癒着」のようなものである。「一体」ではないのに、くっついてしまっている何かである。
ここを、どうこじ開けていくか。
これは、とてもむずかしい。
畔に屈み 手を草の根元に差し入れる
ぬるく濃い水
抜いた指先がうすみどりにひかり
しごいてもとれない
指紋で磨りつぶしたものは 卵か幼虫か
そのむずかしい部分で頼りになるのは、やはり肉体である。「手」。その感触。手が記憶するもの。手が触れる現在。そこには「しごいてもとれない」という「未来」の時間も入ってくる。「とれない」は「現在」であるけれど、「とれない」はつづくのだから「未来」でもあるのだ。そして、それが「とれない」のはそこに「過去」があるからだ。
「記憶と現在」とは簡単には言えないのだ。
「時間」も「意識(? でいいのかな?)」も単純に「一瞬(一点)」ではない。つねに広がっている。何かと接続している。それを南川は「頭」ではなく、田んぼに踏み入れる「足(このことばは書いてはないけれど)」や「手」という肉体でしっかりつかんでいる。肉体のなかに取り込んでいる。
こういうものだけが、たしかに「記憶」なのだ。そして、そういう「記憶」は肉体をはみだしてただよう。肉体を突き破って、「いま/ここ」にあらわれる。
いのちなくしても ひかるもの
美しいと言ってはいけない悲しみ。怒り。美しいとは言わないからこそ美しくあるもの。その絶対的な矛盾。
小鮒の腹のなかで ひかるもの
淵をのぞむ 危ういそぞろ歩き
どこから涌いてくる
よっついつつ ひかりの綿毛が殖えてくる
ひるまも ひとに見えない光が
点滅しているのか
おむすび頭の弟がかすんでいく
ほたるの夜 たましい ひかれ
ひともまた
「たましい ひかれ」の「ひかれ」は「引かれ(惹かれ、曳かれ)」であろうか、あるいは「光れ」であろうか。
わからない。区別ができない。「ことば」のなかに別のことばが含まれて「一体」になっている。それが自然な感じである。それが美しい。
此岸の男 | |
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