詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高貝弘也『白緑』

2012-08-29 11:24:38 | 詩集
高貝弘也『白緑』(思潮社、2012年09月01日発行)

 高貝弘也『白緑』の「白緑」は「びゃくろく」と読む。で、どういうつかい方をするかというと……。

泣きたくても、泣けなくて………。
土手の縁 無花果(いちじく)が咲くそばで

袋状の花嚢(かのう)のなか、雌花と雄花が一斉にひらいた。
鮮やかに 白緑(びゃくろく)色の、光の方へ---

生きいそいでいる。
肉を殺あや(める)ことの 痛みをかかえて

 原文はルビをふっているのだが、( )のなかに読みを書いて引用した。こんな引用の仕方は高貝の「好み」に反するだろうけれど。
 で、「白緑」なのだが。
 私のワープロでは「びゃくろく」と入力すると「白緑」と変換してくれるが、私のもっている広辞苑には「白緑」は載っていない。しかし「白緑」というくらいだから白と緑がまじった色なんだろう。もっと白が強くなると「銀緑」という感じかなあ、と思うが、これは私の勝手な想像であって、違うかもしれない。
 その「白緑」のなかに、高貝はどんなこだわりをもっているのか。
 これからは私の「誤読」なのだが、まあ、次のようなことを私は勝手に考えるのである。
 無花果。無花果にもいろいろな種類があり、色も形も違うのだけれど、基本的には実がはじけるように割れて、種のようなものがびっしりはいっている。「袋状の花嚢」は無花果を言い換えたものだろう。そして「雌花」「雄花」というのも、無花果のことだろう。私は無花果に「雌花」「雄花」という区別があることは知らなかったけれど、無花果の実の割れた感じはセックスを連想させるので、「雌花」「雄花」とそこに雌、雄の区別があらわれるのがおもしろいと思う。
 (なかなか「白緑」へたどりつけない。)
 その実のこと(あるいは、花のこと?)を書いたあとで、

鮮やかに 白緑色の、光の方へ---

 この「白緑」は何の描写?
 無花果の肉の、ぶつぶつの底にある皮の内側の色? ぶつぶつを齧りながら食べていくと、底に白っぽい肉があらわれるが、あの色? 私は最近緑色が見えにくくなっているので、また無花果を観察しながら書いているわけではなく記憶で書いているので正確ではないかもしれないが、その皮の内側の色は「白+緑」の色と見えなくもない。白が濃くて緑はわずかだけれど。それは無花果をもいだときに出る白っぽい色、ねばねばの色と似通っているけれど。
 あるいは葉っぱの色? 無花果の葉っぱの色は葉の表面がざらざらしているので、たとえば椿の葉っぱのような強靱な緑ではないね。その色? それとも葉っぱの裏側の色? どんな葉っぱでも表に比べると裏側は色が薄い。その薄い感じが白。その白がまじっているから白緑?
 で、これからがほんとうの「誤読」。いままでは助走(?)のようなもの。
 「白緑」ということばひとつをとってもみて、それが何を具体的に指し示しているのか、私にはわからない。わからないのだけれど、そのわからないなかに、いくつかのわかること(勝手に想像できること)がまぎれこんでくる。
 これを明確に区分していくと(分析していくと)、「科学」になるのかもしれない。
 でも、そんなことをせず、あいまいなまま、あいまいを抱え込んでいると、なんとなく「雰囲気」が漂ってくる。これが高貝の、ことばの運動の中心である。
 書き出しの「泣きたくても、泣けなくて………。」は泣くと泣けないという対立することばが出てくるが、これもまあ「あいまい」。どっちつかず。どっちの方が好きかは、読者次第。読者次第ではあるのだけれど、この「あいまい」は「土手の縁」という行が次にくるとき、なんとなく「あいまい」のどちらかに加担する。まあ、これも読者次第。どっちでもいい。問題は、というか、大切なのは、そいういうわけのわからない「あいまい」にあっても、人は何かに加担してしまうということ。
 で、その加担が、

鮮やかに 白緑色の、光の方へ---

 の「方へ」なんだなあ。
 何かしら「方向」が出てくる。ことばをつなぐと、必然的にそれは「方向」を持ってしまう。
 その方向を、散文では「明確」にする。人はだれでも「私のいいたいのはこれこれ」と明確に言おうとする。
 でも高貝はそうではない。
 あいまいにする。
 そのあいまいの「象徴」ではなく、「結晶」あるいは「刻印」といえばいいのかな? それが「白緑」。古いことば。いま、だれもつかわない(わけではないかもしれないけれど、ワープロ変換で苦もなく出てくるところをみれば)ことばのなかに潜り込み、そのことばをつかうときの「好み」の方向へ、高貝は加担する。
 ことばのなかに生きているか生きていないかわからないような、ほんとうはちゃんと存在していた感覚の方へ加担しながら、「いま/ここ」に直に触れることを拒んで見せる。「いま/ここ」ではなく、高貝は日本語の「伝統」の奥底に加担し(あるいはそれをバックボーンに)、何かを主張するとしたら「好み」を主張するのである。
 私はこのことばが好き。
 ほかのことは言わない。
 「殺す」よりも「あやめる(殺める)」の方が好き。「白っぽい緑」よりも「白緑」の方が好き。
 好みでことばを集めてどうなるのか。
 というようなことは、まあ、散文の世界ではないので、批判したことにはならないねえ。
 好みのことばを集めて、その好みのことばがつややかに光るようにまわりのことばを整えて、うっとりとそのことばに酔う。見とれるのか、聞きほれるのか、セックスするのか。ぞんぶんに味わって、それを「ちらっ」と見せる。
 で、またまた元に戻って、私は「誤読」を繰り返す。
 「白緑」。これは、やっぱり無花果の種(?)と皮の間にある「肉」の、なまっちろい白だな。そう思った「方」が色っぽい。(と、ここで、高貝の書いている「方」を利用するのである、私は--つまり、そういう色っぽいという感じのことを考えているのは私ではなく高貝なんだよ、と強引にごまかし……。)
 ほのぐらいなかで服を脱いでいくときの肌の色、「白緑」かなあ。
 服を脱いでしまうと、雌・雄になってしまうなあ。
 雄になって、噴きこぼす体液の色、「白緑」かなあとまで書いてしまうと、高貝を突き破ってしまうかもしれないけれど、でも、無花果には、そういうものを引き寄せる力があるよなあ。
 あ、高貝って、すけべをこんなふうに隠している、上品をよそおって隠している、と断定したりする。

 高貝は「好み」を隠して言う詩人なんだ。
 隠された状態で告げられる「好み」って、ほら、頭で整理するわけじゃなくて、肉体でわかってしまうものだから、ちょっと困るよね。
 えっ、そうなのか。(やっぱりなあ、俺の想像した通りだ。)
 相手のこと(高貝のこと)を批評しているのか、自分の秘密の好みを告白しているのかわからなくなる。
 極端に言うと、高貝がセックスをしているのに、見ている内に自分がセックスをして、こんなふうに、ここのところが「好き」でした、と言っている気持ちになる。「好み」の一致を見つけて、その瞬間のエクスタシーのようなものに引き込まれていく。
 「好み」の歴史(?)、「好み」の蓄積に関心がない人には、あまりおもしろくないかもしれないけれど、人間の「好み」はどういうところまで探って行けるか、どこで「昔の人」とつながっているか、そういう「好みの遺伝子」のようなものに焦点をしぼって読みつづけると、高貝の詩はおもしろくなる。まあ、これも「好みの遺伝子」が違ってしまえば、どうすることもできないけれどね。

 読みはじめたばかりの、それも一篇の詩からこんなことを書いていいのかどうかわからないが、書いてしまった。



白緑
高貝 弘也
思潮社
コメント
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