詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

井奥行彦『死の国の姉へ 雨と花の季節から』

2012-08-21 10:10:53 | 詩集
井奥行彦『死の国の姉へ 雨と花の季節から』(書肆青樹社、2012年05月15日発行)

 井奥行彦『死の国の姉へ 雨と花の季節から』はタイトル通り、死んだ姉にささげる詩集である。こういう詩集に「ケチ」をつけるのはいいことではないのかもしれないが、「ケチ」がつかないということによりかかってはいないだろうか。人にはだれでも「真実」があるのだから、「私は真実を書きました」「ほんとうに思っていることを書きました」というだけでは「文学」ではない。書かれていることから「真実」を読者が感じとれなければ、それは「真実」ではない。書かれていることとはまったく違ったことを誤読したとしても、読者がその「誤読」によって感動しているなら、それは「文学」である。読者の「誤読」のなかにだけ「文学」がある、と私は思っている。
 この詩集の何が問題か。

あなたを蘇生させることのできない日々は、全く空しい生に思えてなりません。胸に鉛を蓄めているような鈍痛を感じます。特に三月からの急速な開花と落花のあわただしさは、私の心に生のイメージも死のイメージも創る暇もなく変転するばかりです。
 
 「イメージ」ということばが出てくるが、このイメージに対する意識が間違っていると私は思う。イメージというものは、イメージを破壊したときに初めてあらわれてくる現実のことを指している。いま、ここにあるもの、リアルを破壊し、その奥から本質的なリアルがあらわれたとき、私たちはそれに驚き、自分のことばを失う。その瞬間に噴出してくるのがイメージというものであり、それは作り上げるものではない。イメージなんて、だれにもつくれないのである。
 言い方をかえよう。この詩集にはいろいろな花の名前が出てくる。井奥は花を書いているつもりかもしれないが、私には花の名前を書いているとしか感じられない。で、その花なのだが、たとえば桜。桜は春に咲いて春に散る。三分咲き、満開、散り初め、花吹雪。いろんな表情があるが、それを私たちは簡単にイメージできる。だが、それはほんとうはイメージなんかではない。五枚の光り輝く花びら、風に吹かれて吹雪のように舞い散る--というのは既製の「定型」、肉眼をしばりつける「定型」にすぎない。「定型」によりかかっているとき、私たちは何も見ない。「あ、きれいだね」とうわっつらをことばで飾り、花の下でビールをのみ、弁当にくらいついて平気である。どうせ去年と同じ「定型」の桜である。そこでは肉眼は動かない。何も見ていない。
 井奥が書いていることはイメージではない。簡単に思い浮かべることができるのは、それが既製の「記憶」であるだけのことである。井奥は花の名前をあげるとき、読者の既製のイメージ、既製の記憶に頼っている。そこからは何も見えてこない。
 冷たいようだが、これは死んでしまった姉についても言える。いとしい姉が死んだ。その思い出が井奥の胸にある。そう書くとき、井奥は読者の「記憶」に頼っている。いとしい人に死なれてしまったときの悲しい記憶。父かもしれない。母かもしれない。あるいはこどもかもしれない。友だちかもしれないし、ペットかもしれない。そういう「既製の記憶」はだれにでもある。だから、姉が死んでしまった私の悲しみ、空しさもわかってくれるはず(わからないのは非人間的な感情の持ち主)という安直な「イメージ」を生きている。

 井奥は「人間の感覚はほんとうにあてにならない、分析以前の原始的なものです」と書いているが、じょうだんではない。人間の感覚はあてになる。原始的なものよりあてになるものはない。たとえば、あの女が好き、と直感的に思う。本能的に思う。どこをどう分析してそう思うかなんて、わかりはしない。その直感は、しかし、あてになる。あれこれつきあっている内に、あ、間違えたと思っても、それはそれで「間違えた」と思う感覚が正しいというだけである。
 あてにならないのは、次のような「分析(?)」である。

急速な近代化の歴史の中では職場における人間疎外が生まれ、恐ろしいことは此の疎外が賃金の優劣という下部構造に裏打ちされていることであり、さらに恐ろしいことはそれが自己否定の精神状況に繋がっていることです。

 姉が働いていた農村の幼稚園、そこにおける姉のことを「分析」しているらしいのだが、こんな具合だから姉がことばを突き破ってあらわれてこないのである。井奥の書いているのは「定型の分析」であり、そこには井奥の発見がない。こういう分析、こういうことばは何回か読んだことがあるなあ、ありきたりだなあ、と思って、私はもうそこで考えるということをやめてしまう。
 いま、私の家の近くにはツクツクボーシが鳴いている。その声を聞いて、あ、これはツクツクボーシだと思った瞬間、その鳴き声が「ツクツクボーシ」という音以外には聞こえないというのと同じである。ほんとうはツクツクボーシと鳴いていないかもしれない。ほかの音かもしれないのに、私の耳はいいかげんだから、特にそのことを描写したいとも思わないので、そこで動きを止めてしまう。「イメージの定型」によりかかって、そろそろ秋だなあ、と「定型」でごまかしてしまう。

 暑くてうんざりしているので、--という「定型」を利用して、こんなどうでもいいことを書いてしまった、ときょうの「日記」を閉じよう。




井奥行彦詩集 (日本現代詩文庫 (59))
井奥 行彦
土曜美術社
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