谷合吉重「Stinma2」ほか(「スーハ!」9、2012年08月15日発行)
谷合吉重「Stinma2」の次の部分に魅力的だ。
何が書いてあるのか--ということはわからない。わかるのは、--というか、私が「誤読」できる(「誤読」したい)のは、
この2行。「おまえがわたしではない」なら「わたしはおまえではない」というのは数学的に言って「常識」である。少なくとも「算数」レベルでは常識である。「おまえがわたしではない」のに「わたしがおまえである」ならば、それは矛盾だ。
では、なぜ、谷合はわざわざ「おまえはわたしではなく/わたしはおまえでもない」と繰り返したのか。なぜ、こういうことばの「不経済」を書いているのか。
書きたかったからである。
「おまえはわたしではなく/わたしはおまえでもない」と繰り返すとき、そこには繰り返すことで切り捨てる何かがある。何かを確認する。そしてそこへはもう引き返さないという「覚悟」のようなものを育てている。そういうふうにしなければ「あるく」ということさえ谷合には厳しいことがらなのかもしれない。
わかっている。「おまえはわたしではなく/わたしはおまえでもない」ということくらいに、ルートを外れていることはわかってる。けれど、外れたいのだ。そして外れるためには、そんなふうにして「外れています」という指摘が必要なのだ。その指摘を拒んで歩くときに、やっとルートから外れることができる。
これは、「おまえはわたしではなく/わたしはおまえでもない」と繰り返すことで初めて「わたしはおまえではない」という状態に「なる」ということでもある。「おまえはわたしではなく/わたしはおまえでもない」と繰り返すのは、実は「おまえはわたしであり/わたしはおまえである」ということを知り尽くし、そういう自分を拒絶し、捨て去るのである。
めんどうくさい手続きだけれど、そのめんどうくささが、いま、ここに書かれている谷合ということになる。
そのめんどうくささのまま、谷合は「ジャズ喫茶」に入り「ぼくは機関車と友達なんだ」という理由をつけて「太宰を読む」。
これがまためんどうくさいね。太宰を読む、ということが。
なぜ太宰を読むことがめんどうくさいかというと、「わたしは太宰ではなく/太宰はわたしではない」ということはだれが見たって「常識」なのに、つまり「ルートからはずれています」ということになるのに、「わたしは太宰ではなく/太宰はわたしではない」を「客観的認識(事実)」ではなく、「共感」からとらえなおすと、「わたしは太宰ではなく/太宰はわたしではない」は「わたしは太宰であり/太宰はわたしである」という「非常識」が自然に浮かび上がってくるからである。
それなら、最初から「おまえはわたしであり/わたしはおまえでもある」「太宰はわたしであり/わたしは太宰でもある」と言ってしまえよ、なんて怒ってみても始まらない。矛盾の形で何事かを繰り返すとき、矛盾は矛盾ではなくなる。繰り返すとき、肉体のなかで何かが融合してしまって、矛盾は矛盾ではなくなる。そういうふうにしか言えないことを谷合は書いている。
まあ、めんどうくさい。8月の暑い日に、こういうことばを読むのは、ほんとうにめんどうくさい。--と書いている私も矛盾してるんだけれどね。そのめんどうくさいことばを読み、さらにめんどうくさい形に「誤読」して、それをわざわざ書いているのだから。私はめんどうくさいことが嫌いだけれど、めんどうくさいことをするのは嫌いではないのかもしれない。認識というか、感覚の意見と、行動は必ずしも一致しない。
*
鈴木正枝「転位していく」にもおもしろい部分があった。
「指先」も「血管」も「にくたい」なのだから、「脱ぎ捨ててきたにくたいが追いかけてこないように」というようなことばは矛盾である。でも、矛盾だから、そこに真実があり、思想がある。「にくたい」はひとつだけれど、ほんとうはひとつではない。「あのにくたいはわたしのにくたいではなく/わたしのにくたいはあのにくたいでもない」という意識が鈴木の肉体のなかにある。部屋には鍵がかけられるけれど、肉体には鍵がかけられない。つまり、それは切断し封じ込めること、あるいは切断しそれから逃れることができないのは、「あなた」と会ってみればみればすぐにわかる。「指先と指先をぴたりと合わせ」てみればすぐにわかる。「ぴたり」とわざわざ書くのは、それが「ぴたり」とはあわないものだからだ。それは「重なっては離れていく」。そしてそれは、ほんとうは「あなたの指(あるいは肉体)」ではなく、「私の指(あるいは肉体)」が「私の指(肉体)」と重なったり離れたりするのである。
セックスは「あなたの肉体」で起きることがらではなく、「私の肉体」で起きることがらなのである。そこに「あなた」という他人が介入してくる。--こんなめんどうくさいことが起きるのは、鈴木がことばを書いている、つまり詩を書いているからだね。
詩さえ書かなければ、こんなめんどうくさいことは起きない。(谷合の場合もおなじである。)
だからね、というのは、まあ、飛躍なんだろうけれど。
めんどうくさいのが詩である。詩は、めんどうくささのなかにある、ということになる。
谷合吉重「Stinma2」の次の部分に魅力的だ。
ウニタ書房から水道橋まであるいた
あくまで生産・再生産をくりかえす機械になりすまし
おまえはわたしではなく
わたしはおまえでもない
ウニタで買ったナビは怖ろしく難解だ
(ルートから外れています
(ルートから外れています
突き当たったジャズ喫茶に入り
ぼくは機関車と友達なんだと太宰を読んだ
(トカトントン)
何が書いてあるのか--ということはわからない。わかるのは、--というか、私が「誤読」できる(「誤読」したい)のは、
おまえはわたしではなく
わたしはおまえでもない
この2行。「おまえがわたしではない」なら「わたしはおまえではない」というのは数学的に言って「常識」である。少なくとも「算数」レベルでは常識である。「おまえがわたしではない」のに「わたしがおまえである」ならば、それは矛盾だ。
では、なぜ、谷合はわざわざ「おまえはわたしではなく/わたしはおまえでもない」と繰り返したのか。なぜ、こういうことばの「不経済」を書いているのか。
書きたかったからである。
「おまえはわたしではなく/わたしはおまえでもない」と繰り返すとき、そこには繰り返すことで切り捨てる何かがある。何かを確認する。そしてそこへはもう引き返さないという「覚悟」のようなものを育てている。そういうふうにしなければ「あるく」ということさえ谷合には厳しいことがらなのかもしれない。
(ルートから外れています
(ルートから外れています
わかっている。「おまえはわたしではなく/わたしはおまえでもない」ということくらいに、ルートを外れていることはわかってる。けれど、外れたいのだ。そして外れるためには、そんなふうにして「外れています」という指摘が必要なのだ。その指摘を拒んで歩くときに、やっとルートから外れることができる。
これは、「おまえはわたしではなく/わたしはおまえでもない」と繰り返すことで初めて「わたしはおまえではない」という状態に「なる」ということでもある。「おまえはわたしではなく/わたしはおまえでもない」と繰り返すのは、実は「おまえはわたしであり/わたしはおまえである」ということを知り尽くし、そういう自分を拒絶し、捨て去るのである。
めんどうくさい手続きだけれど、そのめんどうくささが、いま、ここに書かれている谷合ということになる。
そのめんどうくささのまま、谷合は「ジャズ喫茶」に入り「ぼくは機関車と友達なんだ」という理由をつけて「太宰を読む」。
これがまためんどうくさいね。太宰を読む、ということが。
なぜ太宰を読むことがめんどうくさいかというと、「わたしは太宰ではなく/太宰はわたしではない」ということはだれが見たって「常識」なのに、つまり「ルートからはずれています」ということになるのに、「わたしは太宰ではなく/太宰はわたしではない」を「客観的認識(事実)」ではなく、「共感」からとらえなおすと、「わたしは太宰ではなく/太宰はわたしではない」は「わたしは太宰であり/太宰はわたしである」という「非常識」が自然に浮かび上がってくるからである。
それなら、最初から「おまえはわたしであり/わたしはおまえでもある」「太宰はわたしであり/わたしは太宰でもある」と言ってしまえよ、なんて怒ってみても始まらない。矛盾の形で何事かを繰り返すとき、矛盾は矛盾ではなくなる。繰り返すとき、肉体のなかで何かが融合してしまって、矛盾は矛盾ではなくなる。そういうふうにしか言えないことを谷合は書いている。
まあ、めんどうくさい。8月の暑い日に、こういうことばを読むのは、ほんとうにめんどうくさい。--と書いている私も矛盾してるんだけれどね。そのめんどうくさいことばを読み、さらにめんどうくさい形に「誤読」して、それをわざわざ書いているのだから。私はめんどうくさいことが嫌いだけれど、めんどうくさいことをするのは嫌いではないのかもしれない。認識というか、感覚の意見と、行動は必ずしも一致しない。
*
鈴木正枝「転位していく」にもおもしろい部分があった。
こうして
指先と指先をぴたりと合わせ
お互いに血管をなだめながら
徐々に体温を高めていく
脱ぎ捨ててきたにくたいが追いかけてこないように
部屋には鍵をかけた
窓際のカーテンが動いているのは
何のせいか
いくつもの私が揺らぎながら
いくつものあなたと
重なっては離れていく
「指先」も「血管」も「にくたい」なのだから、「脱ぎ捨ててきたにくたいが追いかけてこないように」というようなことばは矛盾である。でも、矛盾だから、そこに真実があり、思想がある。「にくたい」はひとつだけれど、ほんとうはひとつではない。「あのにくたいはわたしのにくたいではなく/わたしのにくたいはあのにくたいでもない」という意識が鈴木の肉体のなかにある。部屋には鍵がかけられるけれど、肉体には鍵がかけられない。つまり、それは切断し封じ込めること、あるいは切断しそれから逃れることができないのは、「あなた」と会ってみればみればすぐにわかる。「指先と指先をぴたりと合わせ」てみればすぐにわかる。「ぴたり」とわざわざ書くのは、それが「ぴたり」とはあわないものだからだ。それは「重なっては離れていく」。そしてそれは、ほんとうは「あなたの指(あるいは肉体)」ではなく、「私の指(あるいは肉体)」が「私の指(肉体)」と重なったり離れたりするのである。
セックスは「あなたの肉体」で起きることがらではなく、「私の肉体」で起きることがらなのである。そこに「あなた」という他人が介入してくる。--こんなめんどうくさいことが起きるのは、鈴木がことばを書いている、つまり詩を書いているからだね。
詩さえ書かなければ、こんなめんどうくさいことは起きない。(谷合の場合もおなじである。)
だからね、というのは、まあ、飛躍なんだろうけれど。
めんどうくさいのが詩である。詩は、めんどうくささのなかにある、ということになる。
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