詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

吉本洋子「ダンスホール25時」ほか

2012-08-23 10:19:04 | 現代詩講座
吉本洋子「ダンスホール25時」ほか(現代詩講座@ リードカフェ、2012年08月22日)

 「涸れる」ということばを盛り込んで詩を書く--というテーマでつくった詩。吉本洋子「ダンスホール25時」は、だれもいなくなったダンスホールの過去を思い出す情の深い詩なのだが、2連目に入り情景がかわる。

わたしを包(くる)んだ衣が糸をひいて
あなたの靴紐に絡みつき
膝をよじのぼり
腰に手をまわして懐かしい場所をさがしている
懐かしいそこが静かに整列して
じゅんじゅんと満ちてくる

 男とダンスをしている。ダンスは服を着たままのセックスである。呼吸をあわせ、ひとつの曲に乗り、同時に動きの駆け引きをする。接近したり、離れたり。誘ってみたり、拒絶してみたり。
 「懐かしい場所」「懐かしいそこ」は、もちろん肉体の「場所(そこ)」なのだが、ダンスの場合、裸でするセックスではないから、その「場所(そこ)」は肉体でありながら肉体ではない。つまり、ある楽曲の、あるリズムの、ある部分。そこで肉体は無理をする。つまり、自分をきれいにみせるために、ふつうではできないポーズをとる。その瞬間、その肉体が輝く。
 こういう美が輝くためには、一定の訓練というか、手順が必要である。どこをどう動かして、どう相手とかかわるか。その手順が「静かに整列して」くる。肉体のなかに一連の動きが、無意識のまま、ととのってくる。それは美が少しずつ満ちてきて、器からあふれるようなものだ。突然ではなく「静かに」、しかも「整列して」「じゅんじゅんに満ちてくる」。それは何度も何度も繰り返し味わった喜び、懐かしい喜びである。自分が自分でなくなる、自分の外へでて行く(エクスタシー)は、おだやかであるとき、いっそう肉体とこころの奥をゆさぶる。
 エクスタシーだから、現実には見ることのできないものも、その瞬間に見てしまう。

眼の渇いたゆうれいが涙の向こうにみた雲を踏み

 という非常に美しい1行が3連目に出てくる。「渇いた」は「乾いた」ではないが、「涸れた」に通じるものがある。同じ音のことばは、どこか深いところで(ことばの肉体の奥底で)、同じ「感覚」を共有している。
 眼が渇いていれば、涙は、そのときは存在しない。「眼が渇いた」と「涙」は、いわば矛盾している。けれど、その矛盾があるからこそ、ことばはことばの外、論理の外へ出ていくことができる。つまり、エクスタシーの瞬間に到達することができる。涙の記憶を肉体にしっかりと沈み込ませたまま(--これが涙の向こう、ということ)、「雲を踏」む。ここにはないダンスのステップ。現実にはありえないダンスのステップ。それが矛盾の中で輝く。
 これはほんとうに美しい。
 この美しさは激しさであってもいいのだが、吉本はそれを「静かな」「懐かしい」ものとして描く。そのとき、いま、ここにはない幻の時間「25時」というありえない時間が浮かび上がる。



 田島安江「涸れた心」は淡々としている。破綻がなく、情景もよくわかる。

お盆だからと
娘を亡くしたばかりの女と
山の麓の温泉にきている
湯に入ると
ゆるゆるととろけるように
亡くした娘の心が老いた母の心にしのびこむ
昨日まで知っていたはずの
心に刺さるあの

「白いものは湯の華です」
湯の華は湯の中でゆらゆらと揺れながら
老いた女のからだのまわりをすべっていく

老いた女と向かい合って
死んだ娘のことを
そこにいない人のことを
そこにいる人のように話した
「死んだらいなくなるというのはうそですよ」
老いた母がゆるりという

白い湯の華が
老いた女の肌をすべりおちる
死んだ娘のことを話すとき
白い花がゆらゆらと
わたしには見えないその白い花が
老いた母には見えるようだった
「娘がいなくなった日から白い花が見えるのですよ」

老いた女の涸れた心に
白い花がするりと流れ込む

 登場人物は「わたし(田島、ということにしておく)」と「娘を亡くした女(老いた母)」のふたりである。ふたりなのだけれど、田島は老いた母の気持ちと一体になっている。1連目の最後の「心に刺さるあの」の「あの」の省略されたことばに、その一体感の強さが凝縮している。
 「あの」とは「娘のあの記憶」「あの娘の記憶」ということになるのだと思うが、ではその「あの」は何かというと実は老いた母にしかわからない。しかし、たとえば長年連れ添った相手に「あれとって」といえば「あれ」が通じるように、「あの」でも通じるのだ。通じるということは、ふたりが別々の存在でありながら一体感を生きているからである。その一体感を、たとえば「娘を亡くした喪失感」というふうに言い換えることもできるけれど、まあ、こういうこざかしい言い換えはやめて、ただ「あの」だけで通じる一体感というものを感じればいいのだと思う。
 で、この一体感は、最終連の2行に結晶する。

老いた女の涸れた心に
白い花がするりと流れ込む

 「心」は見えない。そして、田島は「湯の華」は見えないといいながら、その見えないものが、見えないはずの心に「流れ込む」と書いている。
 これは「見る/見えない」ではなく、肉体全体で、老いた母と田島が一体になり、「感じている」ことなのである。このとき田島は老いた母を見つめていると同時に、老いた母そのものなのである。
 この一体感は、これはこれでいいのだけれど。
 1連目の「あの」に凝縮しているような一体感とは少し違う。他人の一体感に文句(?)をいってもしようがないけれど、1連目の「あの」が生かしきれていない。1連目の「あの」の向こう側へと行っていない。引き返してきている。それが残念である。



 というわけで、というのは、まあ、間違った「というわけで」のつかい方になるのだが、次回( 9月26日、水曜日)のテーマは「あの」。詩のなかに「あの」を10回以上つかった作品を書く、がテーマ。

 あのあのは、あのあのではなく、あのあのなのだけれど、あのあのだけでは通じないのはしようがないと認めるのはしゃくなので、どのあのかわからないなら、そのあのとこのあのとあのあのとの違いから確認するのがことばの手順じゃないかとどなりつけてしまった。

 これで、何回「あの」が出てきたかな?

 詳しい時間などは、「書肆侃侃房」(←キーワード検索)の田島さんに問い合わせてください。


 





詩集 引き潮を待って
吉本 洋子
書肆侃侃房
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