詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小長谷清実「駆け登ったり駆け降りたり」

2012-08-18 05:54:01 | 詩(雑誌・同人誌)
小長谷清実「駆け登ったり駆け降りたり」(「交野が原」73、2012年09月09日発行)

 小長谷清実のことばは、いつも虚実の境目を動いていく。でも、虚実の境目なんて、ことばで言ってしまうと、それまで。「ふと思いつきで口走ってしまった」ことだから、聞かなかったことにしてください--といきなり、ある行、ある部分の引用からはじめてみようか。「駆け登ったり駆け降りたり」。実は、こういう作品。

狭い階段を駆け昇った先に
ドアがあって
そのドアの向こうに 私が今日
まぎれこもうという場所があって
とはいえ ふと思いつきで口走ってしまった
架空の場所だから
細部については全く不明である
誰がいるのかいないのか
老人のような赤ん坊の声ばかり聞こえてきて
不安になる
ドアを押すのがためらわれる
だったら ドアは押さなくても
いいのである
ドアの把っ手をひっぱれば
その向こうには 私が今日
駆け降りていく狭い階段があって
その階段の先に
ドアが会った 架空の場所があって
そして 赤ん坊のような老人たちの声ばかり
聞こえてくる

駆け登ったり駆け降りたり
その逆だったり
私が今日 まぎれこもうという場所には
いつまでたっても
たどりつけない

 ある場所(ある部屋)へ行かなければならない。行きたくないなあ。そのときの、こころの揺らぎというか、乱れというか、何と呼んでもいいのだけれど、それをちょっと「客観的」に見てみたら、階段を上ったり降りたりしている自分の姿に見えた(1行目「駆け昇った」は誤植だろうか。小長谷らしくない表記の不統一がある)--そういう姿を思いついた。で、映画ふうに描写してみました、ということなのだろう。「ふと思いつき」で、そういうことを書いたのである。
 ドアを押すのがいやならドアをひっぱればいい--というのは、単なることば遊びだけれど、その「遊び」のなかへ真剣に入っていくと、あれあれ、変なことが起きてしまった。これは落語の一種かな、という感じ。その左右対称(?)があまりに鮮やかなので私は繰り返し繰り返し読んでしまったが、何度読んでも楽しい。「老人のような赤ん坊の声」にはすでに「対称性」が含まれているが、それがさらに「赤ん坊のような老人たちの声」によって「対称性」が強調される。その合わせ鏡のような錯乱(?)がとても楽しい。

 ここでやめておけばいいのかもしれないけれど。
 私の感想は、しつこく、まだまだ続くのである。

 この詩のいちばんの手柄というか、読みどころは、

とはいえ ふと思いつきで口走ってしまった
架空の場所だから

 この2行の関係にある。「思いつきで口走った=架空」(思い=架空)。ほんとうのことではない、「架空」であると、平気で打ち明けている。ほんとうのことを書いているのではない。しかも、それは「思いつき」。熟慮されたことがらではない。
 つまり、「軽い」。
 「軽い」ことがらだからこそ、「押してもだめなら引いてみな」のような軽いことばが(慣用句が)全体を突き動かす。
 書きようによっては「重く」なるのだが、小長谷はあるまで「軽み」へ向けてことばを動かす。
 さっき書いた「老人のような赤ん坊の声」「赤ん坊のような老人たちの声」も、合わせ鏡のような対称性によって、とても軽くなる。内容的には「重い」のかもしれないが、あ、これ、さっき聞いたことば(音)と何か似ている。音のなかに(意味のなかに、という人もいるかもしれないけれど)、繰り返しがあって、繰り返しというのは、ことばを読みとみさせる--読む人のなかでことばが加速するのを助ける要素があって、この「飛ばす」(飛ぶ)という感覚が「軽い」につながる。「ドアがあって」が後半「階段があって」という繰り返し(反復?)も同じ性質のものである。
 小長谷は、こういう工夫がとても的確である。音に対する工夫(本能かもしれない)がとてもいい。
 「ドアがあって」「場所があって」「階段があって」「場所があって」。この「あって」の、あいまいな接続と中断を動いていく同じ音。そして、その接続と切断を、切断よりは接続にひっぱっていく「その」という次の行のことばの動き。

ドアがあって
そのドアの向こうに 私が今日

ドアの把っ手をひっぱれば
その向こうには 私が今日
駆け降りていく狭い階段があって
その階段の先に 

駆け登ったり駆け降りたり
その逆だったり

 この繰り返される「その」はなくても(省略しても)、意味は大してかわりはしない。--のだけれど、この「大してかわらない」の「大して」が実は問題だったりする。
 大して変わらないもの、微妙なものに、小長谷のこだわりがある。
 「その」ということばをつかうことで、いったん切断されたものをもう一度意識に呼び戻す。固定する。
 そうすると「架空」のものが「架空」でありながら、意識のなかでは架空ではなくなるな。「その」を省略すると、「架空」が加速し、暴走し、「空想」になってしまう。「現実」ではなくなってしまう。
 でも「その」があると、常に先行することばを自分の意識で引き受ける(継承する)という感じが生まれ、たとえ「現実世界」ではそういうことはありえなくても、「意識世界の現実」では、それが起きる。「意識の動き」が、「意識の現実」なのである。
 で、こういうことを書くと、ほら、ことばが重くなってしまう。
 しかし、小長谷はそれを重くしない。軽くする。軽いまま、ことばを動かしていく。ほんとうは重い世界なんですよ、ではなく、軽くするためにこんな具合にことばを動かしている--というところを見ていった方が、小長谷に接近することができると思う。
 重い世界なんですよ--では、誰にでも通じてしまうからね。ひとは誰でも、いや、これは私にとっては重要な問題なんです、笑いごとじゃないんですといいたがる。まあ、そうなんだろうけれどね。
 でも、小長谷はそんなふうに言わないようにしている。ことばをあくまで軽く、読みやすく、楽しいものにしている。そこが、私は好きだなあ。


わが友、泥ん人
小長谷 清実
書肆山田
コメント
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