詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山本テオ『普通の明日』

2012-08-10 12:30:43 | 詩集
山本テオ『普通の明日』(あざみ書房、2012年07月01日発行)

 山本テオ『普通の明日』は文体が非常に読みやすい。私にとって、という注釈が必要かもしれない。そして、その読みやすいと感じることと、山本がニューヨークで仕事をしているということが関係があるかもしれない。日本語が、日本語に溺れていない。
 個人的なことを書くと……。
 私は若いころ「詩学」に投稿していた。最初はまったく入選しなかったのだが、あるとき選者が英文学関係の詩人にかわった。そのとき、あ、これからは入選するかな、と私は感じ、そして実際、その後入選するのようになった。私は英語はできないけれど、学校の授業では英語がわりと好きだった。意識的に学んだことば、というものがおもしろかった。感じていること、考えていることを、違うことばで言う、あるいは聴く(読む)。そのとき、なんといえばいいのだろう、ことばの「自由」を感じたのだ。そういう「自由」が日本語にどっぷりつかって詩を書いている詩人たちよりは、英語を暮らしの糧にしている詩人には通じるだろうと思った。
 山本の詩を読んで感じたのは、その、昔私が感じていた「自由」に通じる文体の軽さである。それが、とても読みやすい。気持ちがいい。
 「一個」という作品。

アスファルトを転がって 足元に
ぴたりと止まってから
その林檎は 私のものになった

丁寧に磨くと鏡になって
睫毛や 唇や
生えはじめた白い髪を映した

布団にもぐって林檎を抱く
同じかたちと 同じ感触
甘い香りと眠る

朝になると鏡を覗く
また少し髪が白くなっている
私がだんだん 大人になる

表皮にそっと耳をあてると
ざわめきが内側で行き交いながら
大人の私に 多くを語った

 「翻訳体」と言えるかもしれない。たとえば1連目の「主語」は「林檎」。ふつう、日本語では「林檎」のようなものを主語にはしない。「私」を主語にして「私は足元に転がってきた林檎を私のものにした」と言う。主語を省略して「足元に転がってきた林檎を私のものにした」と言うかもしれない。「林檎は 私のものになった」とは、よほどのことがないかぎり言わない。
 で、その翻訳体の文体なのだが。
 ちょっとおもしろい。いや、とてもおもしろいと思うのが、その1連目の「その林檎」の「その」である。「その」は指示代名詞。それがつかわれるということは、「その」の前に「その」にあたるものが書かれていなければならない。英語で言えば、「その」は「定冠詞」になる。「不定冠詞」つきの「林檎」がまず書かれて、それから「定冠詞(その)」つきの林檎になる。それを知ってますよ、という意味が「定冠詞」にある。その「定冠詞」の働きと同じことを「その林檎」の「その」はやっているのだが……。
 前に「林檎」そのものはでてきませんねえ。じゃあ、「その」は何?
 山本は英語の詩も同時に掲載している。

It rolled along the asphalt, to my feet and

と1行目は書かれている。「形式主語」の「it」が、あとであらわれてくる「林檎」である。また「my」ということばもあるねえ。ある意味では英語は不便だねえ、と思ったりする--日本語はそういうもんどうくさいことをしなくてすむからね。
 で、日本語の詩に戻ると、問題の「その」がとてもおもしろいのだが、そのおもしろさは、実は日本語が主語「私」を省略できるということと関係がある。
 むりやり日本語を補ってみると、1連目は

私は(林檎が)アスファルトを転がってくるのを(見た) (その林檎は私の)足元に
ぴたりと止まった
その林檎は 私のものになった(あるいは、その林檎を私は私のものにした)

 「その」がもし省略されていたら、私がそれを見た、私がそれを拾い上げた、という感じが出にくい。「その」ということばが先行する何かを指示するという機能を持っているために、私たちは「その」がどういうものか無意識に探すのだが、この無意識に何かを探すという運動が、ほら、省略された「私」を自然に感じるときの意識に似ているでしょ? 英語のように、形式主語を冒頭に掲げて文章をつくるなんて、日本人にはつらいよね。
 うまく言えないのだけれど、この日本語の無意識な省略された主語探しのような意識の運動を、山本は英語に触れることで、巧みに洗練させたのだと思う。翻訳体なのだけれど、翻訳体に感じさせない文体を作り上げたのだと思う。感じさせないといっても、少しは感じる--そして、この少しが、「ふつうとは違う」感じになる。で、こういう「ふつうとは違う」という感じが、ほら、やっぱり「詩」なんですよ。

 ちょっと説明が長くなりすぎたね。
 途中を省略して、3連目。

同じかたちと 同じ感触
甘い香りと眠る

 あ、これはおもしろいなあ。何と同じというのだろう。「その」がないね。そして、次の「甘い香り」には「同じ」がない。変だねえ。「同じ甘い香り」でないと、「意味」が通じない。(通じる,と感じるひともいるかもしれないけれど……。)
 これは、英語にすると、私の指摘していることがわかると思う。英語の部分。

the same shape, the same touch,
sleeping with its sweet scent

 「その(its )」甘い香り。「その」は文法的には「林檎」を指してはいるのだけれど、同じその甘い香り、という意味だね。
 そうすると、日本語での「同じ」はまた「甘い」にもなるね。
 甘いかたちと甘い感触--「同じ」が「甘い」なのは、実はその「同じ」が山本の知っている林檎と同じだからだね。
 拾った林檎、それは山本の知っている林檎--つまり山本になじみのある林檎、ふるさとの林檎というか、少年時代の林檎というか、まあ、そういうものと「同じ」かたち、「同じ」感触、そして「同じ」甘い香りを持っている。
 ここで「同じ」が出てくるのは、2連目の「白い髪」、4連目の「どんどん 大人になる」との対比である。私は「どんどん」かわる。けれど、林檎は「同じ」。「同じ」ものがあることによって、「私」の変化がより明確になる。
 そこで、山本は、その「同じ」と「変化」をまた別の角度から確かめようとして林檎に耳をあてて、内部のざわめきを聴く。もちろん、こういうときに聴くざわめきは林檎の内部であると同時に、山本の内部のざわめきだね。それは林檎の表面に写る白髪が、林檎の内部ではなく山本自身であるのと同じこと。

 英語を話すこともできない私が言うと、まあ、でたらめに聞こえるかもしれないけれど、英語との出合いが山本の日本語を清潔にしている。省略の仕方、ことばの接続と断絶を鍛えなおしているのだ思った。
 「夜色の友人」もとてもおもしろかった。重くならずに、軽快にことばが動く。この軽快さは、感覚の意見として言うのだけれど、日本語を山本語に翻訳することから生まれている。どんなにくどくどいってもことばは思っていることの全部をつたえられない。だったら、省略して、伝わるかなあと思える部分だけをぱっと放り出せばいい。
 ああ、とっても頭のいいひとなんだなあ。
 でも、その頭のよさが、どうだ頭がいいだろうという自慢にならずに、逆にしらんふりをしている。
 いいなあ。こういう詩集が賞を取ると楽しくなるなあ。

コメント
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