詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

鹿島田真希『冥土めぐり』

2012-08-13 09:28:40 | その他(音楽、小説etc)
鹿島田真希『冥土めぐり』(「文藝春秋」2012年09月号)

 鹿島田真希『冥土めぐり』の前半は読むのが苦しい。主人公(奈津子)の、母親と弟にまったく共感が持てないからである。ふたりに生活をずたずたにされながら生きている主人公にも、共感が持てない。どんなに嫌いでも縁を断ち切れないのが「肉親」というものなのかもしれないけれど。

 奈津子は不思議に思う。自分はあんなに嫌悪していた母親の思い出話を今、こんなふうに、他人のことのように思い描ける。(416 ページ)

 この文章は、ちょっと複雑である。「他人のことのように」というのは自分が経験してきたことを他人の経験のように、という意味だろう。「自分」が「他人」になってしまっている。それは、その「自分」を「自分のまま」、自分で引き受けることができなくなっている、ということだろう。「他人になってしまっている」ではなく、ようやく「他人にできた」のだろう。肉親を断ち切るのと同じように、自分を断ち切るのもむずかしい。自分を断ち切る方がもっとむずかしい。「、こんなふうに、」という具合に、「こんなふうに」が文章の中で独立しているところに、この主人公の「真実」がある。
 で、そこでちょっと一安心した後。
 海の部分がすばらしい。海には障害物がなく、水平線が見えるものである。広々としている。その感じが伝わってくる。海を見て、主人公のこころが広がっていく。

普通の人なら考える。もうたくさんだ、うんざりだ。この不公平は、と。だけど太一は考えない。太一の世界の中には、不公平があるのは当たり前で、太一の世界は、不公平を呑み込んでしまう。( 420ページ)

 「不公平を呑み込む」。海がすべてを呑み込むように。すべてを呑み込んでも、まっ平らな海であるように。--そこに、主人公が「共感」しはじめる。その「共感」に読者(私)も誘われる。
 他人に感心するというのは、とても大切なことなのだ。

 --海のことなら、小さい頃から知ってるよ。満ち引きがあるんだ。潮だよ。
                                (420 ページ)

 この海の定義もいいなあ。「満ち引き」を呑み込んで、海がある。動いていないように見えても海は動いている。そのことを主人公の夫、太一は知っている。
 そして、そのあと。一段落まるごとを、私は傍線を引く変わりに枠で囲んで、○印しまでつけてしまった。感動した。

 この人は特別な人なんだ。奈津子は太一を見て思った。いままで見ることのなかった、生まれて初めて見た、特別な人間。だけどそれは不思議な特別さだった。奈津子はそんな太一の傍にいても、なんの嫉妬も覚えない。そして一方、特別な人間の妻であるという優越感も覚えない。ただとても大切なものを拾ったことだけはわかる。それは一時のあずかりものであり、時がくればまた返すものなのだ。( 420ページ)

 変な文章と言えば変な文章と言えるのだけれど。「嫉妬」も「優越感」も、普通は、こんなふうにはつかわない。「拾った」というのも、「ものじゃないのになあ」という具合に言いはじめると、まあ、あっちこっち、ケチがつけられる。ケチだらけになるのだけれど……。
 こういうのは、しかし、「批判」であって。
 うーん、「批判」とか「批評」というものは、そうしてみると、とってもうさんくさいというか、自分で何かを定義しておいて、その定義に酔って、どれだけ暴言を勇ましく吐くかというようなところで成り立つものであって……。
 は、余分なことを書いてしまうのだが。
 うーん。
 あらゆる「批判」を吹っ飛ばして、「共感」してしまう。
 ほんとうに、奈津子は太一に出合うことで、大事な何かを見つけ出したのだ、ということに共感できるのである。奈津子は太一がいなかったら生きていけないなあ、ということがよくわかる。そして、この貴重な時間が「あずかりもの」であるということも、不思議に、納得してしまう。
 この場合、たとえば太一を神からのあずかりものであり、時がくればそれを神に返すべきなのだ--と奈津子は感じているのだとして。
 その「返す」がまた、微妙ですね。
 神に返すと仮定して、それでは実際に、太一が死んだら神に返すのかというと、そういうことではないと思う。「特別な人間」という意識を持たずに一緒に暮らすこと、なんでもないことのように生きるということなんだと思う。
 母親のことを書いていた最初に引用した文章に重ね合わせると、こんな具合になる。

 奈津子は不思議に思う。自分はあんなに特別な人間として大事に感じた太一(夫)の思い出話を今、こんなふうに、そんなことってあったのかしら、となつかしい自分の夢のことのように思い描ける。

 このとき、奈津子は、母と弟の思い出を呑み込んでしまっている。太一が、その「海」をゆっくり満ち引きしている。満ち引きは、まあ、じっと見ていてもわからものではあるけれど、それは満ち引きがあると思ってみるからであって、普通は、海はどこまでも広く変化がないように見える。平穏に見える。
 それは、「私(奈津子)」が平穏を生きているということである。平穏は美しいと思う。平穏を発見するのは偉大なことだとも思う。




冥土めぐり
鹿島田 真希
河出書房新社
コメント
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