山本和子『水門』(ふらんす堂、2012年07月24日発行)
ひとはときどき思いもかけないことばを言うものである。そんな表現はない、思うのだが、聞いてしまうと、ああ、そうだなあ、こういう言い方が正しいのだ、というしかないことば。
「一生懸命諦めます」は父の死と、葬儀のときの母のことを描いている。
お坊さんのことばは非情である。「戸川のおじいちゃんは/もう 生まれる準備をしておられます/人間は郷な者で休むときはありません」「早いか 遅いか人間はいずれ亡くなります」--こういう断定は、生きているひとの未練を断ち切るための「方便」なのか、それとも「哲学」なのか、ちょっと判断に困るが、ああ、さすがに多くの死に向き合ってきたのだなあという「手応え」のようなものがある。ふつうのひとはこんなふうには言えないが、お坊さんにはこんなふうに言う特権があるのだと思った。
そういう職業的特権としての声、ことばは、最初はどうしても「ああ、冷たいことばだ」と思うものだが、だんだん、ああ、そうかもしれないとも思う。ふつうのひとには思いつかないことを言うのは、それだけふつうのひととは違った体験をしているからこそ言えるのだと思い、納得する。
で。
その納得のことば、これがまた、ああそういう言い方があるのか、と驚く。
ごく一般的に言えば、「一生懸命」と「諦める」は、「諦めずに一生懸命がんばります」なのだが、ここでは逆である。
うーん。
諦めてあげないことには、「戸川のおじいちゃん」(夫のこと、つまりこの詩に書かれている父)は「生まれ変われない」。それでは不憫。生まれ変わって、生きてもらわないことには人間の楽しみがない。愛しているなら、その生まれ変わりを喜んであげないといけない。--そんなことを思いながら、「一生懸命諦めます」と言う。
「一生懸命」は、この場合、ぜったい必要である。意味上は「諦めます」が動詞なのだけれど、ほんとうに動いているのは、「諦めます」ではなく、「一生懸命」である。必死にならないと「諦めきれない」になってしまうのである。母がしていることは「一生懸命」だけなのである。
「一生懸命祈りなさい」と言われれば、母は何も疑わず一生懸命祈るだろう。「一生懸命生きなさい」と言われればやはり一生懸命生きるだろう。
でも、ひとは、絶対に「一生懸命諦めなさい」とは言わない。「つらいだろうけれど、諦めなさい」というのがふつうである。その「つらい」を母は「一生懸命」に替えて、自分自身をはげましているのである。いまできるのは「一生懸命」だけである。
山本は、これを「じぶんのことば」として描いているのではなく、そこにいる「私ではない人間」のことばとして、きちんと描いている。お坊さんと、母のことばとしてくっきり描いている。
これにはどんな意味がある。
詩は、自分が発見するものではないのである。詩は、自分のことばではないのである。詩は、他人のことばなのである。自分の知らなかったことば--それが詩である。
もし、何かに出合い(今回のように、ことばではなく、「あるもの」だとか「あること」に出合い)、そしてそのとき山本のなかに何か新しいことばが生まれたとしたら、それはやはり山本のことばではなく、山本のなかから生まれたあたらしい山本、つまり「他人」なのである。
これを逆な視点からみると。
山本はお坊さんのことば、母のことばを、それぞれお坊さんのことば、母のことばとして書きながら、山本自身はお坊さんに生まれ変わり、母に生まれ変わって、その瞬間を生きている。
こういう交錯(入れ違い)を「共感」という。
そして、こういう「共感」を作為をこめず、しっかり、そのままに把握しきっているところに、この詩の美しさがある。
ひとはときどき思いもかけないことばを言うものである。そんな表現はない、思うのだが、聞いてしまうと、ああ、そうだなあ、こういう言い方が正しいのだ、というしかないことば。
「一生懸命諦めます」は父の死と、葬儀のときの母のことを描いている。
方丈さんのお経は
太鼓を打った音のようにビンビン心に響く
お経をあげ終えると
お茶をすする方丈さんは
戸川のおじいちゃんは
もう 生まれる準備をしておられます
人間は郷な者で休むときはありません
背筋を伸ばして話される
母は救われた思いの声で
そうですか
涙も見せず口元が小さく動いた
うす暗い八畳の部屋には
ローソクの光と線香の煙と共に
母の空気が
父をすっぽり包んでいる
早いか 遅いか人間はいずれ亡くなります
方丈さんは汗で湯気の立つ丸坊主の頭を
袂から出した手ぬぐいでふきながら話される
一生懸命諦めます
母は強く言い切った
五十三年間 苦楽を共にさせてもらいました
涙声が震えだした痩せた母
お坊さんのことばは非情である。「戸川のおじいちゃんは/もう 生まれる準備をしておられます/人間は郷な者で休むときはありません」「早いか 遅いか人間はいずれ亡くなります」--こういう断定は、生きているひとの未練を断ち切るための「方便」なのか、それとも「哲学」なのか、ちょっと判断に困るが、ああ、さすがに多くの死に向き合ってきたのだなあという「手応え」のようなものがある。ふつうのひとはこんなふうには言えないが、お坊さんにはこんなふうに言う特権があるのだと思った。
そういう職業的特権としての声、ことばは、最初はどうしても「ああ、冷たいことばだ」と思うものだが、だんだん、ああ、そうかもしれないとも思う。ふつうのひとには思いつかないことを言うのは、それだけふつうのひととは違った体験をしているからこそ言えるのだと思い、納得する。
で。
その納得のことば、これがまた、ああそういう言い方があるのか、と驚く。
一生懸命諦めます
ごく一般的に言えば、「一生懸命」と「諦める」は、「諦めずに一生懸命がんばります」なのだが、ここでは逆である。
うーん。
諦めてあげないことには、「戸川のおじいちゃん」(夫のこと、つまりこの詩に書かれている父)は「生まれ変われない」。それでは不憫。生まれ変わって、生きてもらわないことには人間の楽しみがない。愛しているなら、その生まれ変わりを喜んであげないといけない。--そんなことを思いながら、「一生懸命諦めます」と言う。
「一生懸命」は、この場合、ぜったい必要である。意味上は「諦めます」が動詞なのだけれど、ほんとうに動いているのは、「諦めます」ではなく、「一生懸命」である。必死にならないと「諦めきれない」になってしまうのである。母がしていることは「一生懸命」だけなのである。
「一生懸命祈りなさい」と言われれば、母は何も疑わず一生懸命祈るだろう。「一生懸命生きなさい」と言われればやはり一生懸命生きるだろう。
でも、ひとは、絶対に「一生懸命諦めなさい」とは言わない。「つらいだろうけれど、諦めなさい」というのがふつうである。その「つらい」を母は「一生懸命」に替えて、自分自身をはげましているのである。いまできるのは「一生懸命」だけである。
山本は、これを「じぶんのことば」として描いているのではなく、そこにいる「私ではない人間」のことばとして、きちんと描いている。お坊さんと、母のことばとしてくっきり描いている。
これにはどんな意味がある。
詩は、自分が発見するものではないのである。詩は、自分のことばではないのである。詩は、他人のことばなのである。自分の知らなかったことば--それが詩である。
もし、何かに出合い(今回のように、ことばではなく、「あるもの」だとか「あること」に出合い)、そしてそのとき山本のなかに何か新しいことばが生まれたとしたら、それはやはり山本のことばではなく、山本のなかから生まれたあたらしい山本、つまり「他人」なのである。
これを逆な視点からみると。
山本はお坊さんのことば、母のことばを、それぞれお坊さんのことば、母のことばとして書きながら、山本自身はお坊さんに生まれ変わり、母に生まれ変わって、その瞬間を生きている。
こういう交錯(入れ違い)を「共感」という。
そして、こういう「共感」を作為をこめず、しっかり、そのままに把握しきっているところに、この詩の美しさがある。