白井知子「最期の巣ばなれ」(「交野が原」73、2012年09月09日発行)
白井知子「最期の巣ばなれ」は感想が書けるかどうかわからない。書きたいのだが、そして実際にこうしてワープロに向かっているのだが、まだどうしたものかと迷っている。ことばが動きだそうとしない。どうすればいいのかわからない。
初秋の雨あがり
静かさがせせらぎのように流れてくる
ふいに 母の百合子が不自由な身体を起こそうとむきになる
--あんたは ほんとうに とも子かい
いやだ わからない わからないことばっかりだよ
母は入院しているのだろうか。何の病気がわからないが、認知症も併発しているのかもしれない。娘の「名前」は思い出せるが、顔は識別できない。でも、ことばははっきりしている。
で、このはっきりしている、ということはどういうことなんだろうか。
5連目。
--わたしが生んだのは 鶏だろう 犬 芍薬の花 竈もだ……
燃えてる 何だろう 何 骨 骨を燃やしてたよ
インドのさ ほら あそこ あの河だ
--ガンジス河のペレナスでしょう
--あそこの牛 内緒だけど わたし 生んだかもしれない
しゃがれ声が ゆっくり
どうして この日 こんなにも言葉が出てきたのか不思議だ
「わたし(母)」が鶏を生んだ、犬を産んだ、芍薬の花を生んだ、竈を生んだ、というのは「間違い」かもしれない。人間がそんなものを産めるはずがない、というのは簡単だ。けれど、もし「鶏、犬、芍薬の花、竈」が何かの比喩だったらどうなるだろう。人は、その「比喩」を産むことはできないか。きっとできる。はっきり母がそういうなら、そのことばの中には何か真実--いいたくてしようがないこと、言わずにはいられない「本能の秘密」のようなものがあるかもしれない。
「産んだ」ではなく「生んだ」。この表記にこだわるなら、「生まれた」ということかもしれない。母は鶏として、犬として、芍薬の花として、竈として「生まれた」。人間として生まれたはずなのに、鶏として、犬として、芍薬の花として、竈として「生きた」ということかもしれない。
母のことば(口から発せられたもの)を白井が書き留めたのだから、そこには白井の無意識が反映しているかもしれない。
そうか、母は、鶏として、犬として、芍薬の花として、竈として「生きてきた」と感じたことがあったのかもしれてない。それぞれは何の比喩だろうか。
だが比喩としてことばを読むと、そこには変な「意味」がまじってくる。何かしらの「意味」めいたものがまじってくる。鶏の卵を産んでは、卵を食べられてしまう。犬はだれかを、あるいは何かを守っている。番犬のように生きてきた。それでも芍薬の花のように輝き、ひとを振り向かせたことがあった。というのは、幻。やっぱり台所仕事(竈)をするだけの人間としてこき使われた……と読もうとすれば読めてしまう。でも、それでいいのか。
違うなあ。
「意味」ではなく、やはり「意味」を超えた、ものそのもの。母の発した、ことばそのものの、もの。「意味」ではなく、その「もの」こそが、母にははっきりしている。そして、それを母は娘に伝えようとしている。
どう受け止めることができるか。
燃えてる 何だろう 何 骨 骨を燃やしてたよ
インドのさ ほら あそこ あの河だ
--ガンジス河のペレナスでしょう
このやりとりは、白井が「意味」を探ろうとしていることを語っている。「意味」とは自分が知っていることがらだ。インドのガンジス河のペレナスでは火葬が行われている。白井は母といっしょにそれを見たのかもしれない。いっしょではなくても、母からその話を聞かされたかもしれない。本で読んだかもしれない。どっちでもいいのだが、このやりとりのなかで、白井は母のことばを理解しているのではない。自分の理解できること、知っていることを「意味」として受け止めて、それを母に投げ返す。
その応答は「外れ」ではないかもしれないが、「正解」でもない。
--あそこの牛 内緒だけど わたし 生んだかもしれない
母が見ているもの、伝えようとしているものは「牛」なのだ。鶏、犬、芍薬の花、竈につながる牛。
これは簡単にはつながらない。簡単にはつながらないと私が感じるのは、そこに「意味」の連続性がないと思うからだ。
白井は、どうだったのだろう。
「意味」を見つけ出せただろうか。
見つけ出せなかったと思う。
こういうとき、「書く」とは、どういうことなのだろう。なぜ、書くのだろう。意味もわからず、「不思議」というしかないことをなぜ書くのだろう。
きっと人間は「意味」を生きているのではないのだ。意味にならない「もの」に触れながら、うごめいている。わけがわからないまま、めんどうくさくても、それを捨てずに生きている。肉体にそういうものを抱えていると、いつかわかるようになるか。それすらもわからないけれど、仕方がない。
仕方がない--と書くと、諦めのように聞こえるが、そうではなく、決意である。そういうものを抱えて「生きていく」という決意。そうして、そういうものを抱えて生きる人と、わけのわからないままいっしょに「生きる」という決意。
私の「感覚の意見」は、そう思う。
骨を緊めている粘土のような肉を捏ねまわす
爪を喰いこませ 引っ掻き 剥がし 齧り 気のすむまで造りなおして
いっと 母が生んだというものたちの餌食にすればいい
真夜の月に娘を吊るして
最期の獣の巣ばなれ
母が獣であるならば、娘も獣である。その血が流れている。それをしっかり見届ける。そして「生きる」を決意する。「わからないことばっかり」の世界だが、その「わからないこと」の奥には、わかる必要のない「いきる」ということがある。「意味」にできないものがある。
「おかあさん、このわけのわからないものは何?」と聴くことはできない。そういうときがくる。そこからほんとうに「生きる」が始まる。その覚悟がことばを貫いている。
白井知子「最期の巣ばなれ」は感想が書けるかどうかわからない。書きたいのだが、そして実際にこうしてワープロに向かっているのだが、まだどうしたものかと迷っている。ことばが動きだそうとしない。どうすればいいのかわからない。
初秋の雨あがり
静かさがせせらぎのように流れてくる
ふいに 母の百合子が不自由な身体を起こそうとむきになる
--あんたは ほんとうに とも子かい
いやだ わからない わからないことばっかりだよ
母は入院しているのだろうか。何の病気がわからないが、認知症も併発しているのかもしれない。娘の「名前」は思い出せるが、顔は識別できない。でも、ことばははっきりしている。
で、このはっきりしている、ということはどういうことなんだろうか。
5連目。
--わたしが生んだのは 鶏だろう 犬 芍薬の花 竈もだ……
燃えてる 何だろう 何 骨 骨を燃やしてたよ
インドのさ ほら あそこ あの河だ
--ガンジス河のペレナスでしょう
--あそこの牛 内緒だけど わたし 生んだかもしれない
しゃがれ声が ゆっくり
どうして この日 こんなにも言葉が出てきたのか不思議だ
「わたし(母)」が鶏を生んだ、犬を産んだ、芍薬の花を生んだ、竈を生んだ、というのは「間違い」かもしれない。人間がそんなものを産めるはずがない、というのは簡単だ。けれど、もし「鶏、犬、芍薬の花、竈」が何かの比喩だったらどうなるだろう。人は、その「比喩」を産むことはできないか。きっとできる。はっきり母がそういうなら、そのことばの中には何か真実--いいたくてしようがないこと、言わずにはいられない「本能の秘密」のようなものがあるかもしれない。
「産んだ」ではなく「生んだ」。この表記にこだわるなら、「生まれた」ということかもしれない。母は鶏として、犬として、芍薬の花として、竈として「生まれた」。人間として生まれたはずなのに、鶏として、犬として、芍薬の花として、竈として「生きた」ということかもしれない。
母のことば(口から発せられたもの)を白井が書き留めたのだから、そこには白井の無意識が反映しているかもしれない。
そうか、母は、鶏として、犬として、芍薬の花として、竈として「生きてきた」と感じたことがあったのかもしれてない。それぞれは何の比喩だろうか。
だが比喩としてことばを読むと、そこには変な「意味」がまじってくる。何かしらの「意味」めいたものがまじってくる。鶏の卵を産んでは、卵を食べられてしまう。犬はだれかを、あるいは何かを守っている。番犬のように生きてきた。それでも芍薬の花のように輝き、ひとを振り向かせたことがあった。というのは、幻。やっぱり台所仕事(竈)をするだけの人間としてこき使われた……と読もうとすれば読めてしまう。でも、それでいいのか。
違うなあ。
「意味」ではなく、やはり「意味」を超えた、ものそのもの。母の発した、ことばそのものの、もの。「意味」ではなく、その「もの」こそが、母にははっきりしている。そして、それを母は娘に伝えようとしている。
どう受け止めることができるか。
燃えてる 何だろう 何 骨 骨を燃やしてたよ
インドのさ ほら あそこ あの河だ
--ガンジス河のペレナスでしょう
このやりとりは、白井が「意味」を探ろうとしていることを語っている。「意味」とは自分が知っていることがらだ。インドのガンジス河のペレナスでは火葬が行われている。白井は母といっしょにそれを見たのかもしれない。いっしょではなくても、母からその話を聞かされたかもしれない。本で読んだかもしれない。どっちでもいいのだが、このやりとりのなかで、白井は母のことばを理解しているのではない。自分の理解できること、知っていることを「意味」として受け止めて、それを母に投げ返す。
その応答は「外れ」ではないかもしれないが、「正解」でもない。
--あそこの牛 内緒だけど わたし 生んだかもしれない
母が見ているもの、伝えようとしているものは「牛」なのだ。鶏、犬、芍薬の花、竈につながる牛。
これは簡単にはつながらない。簡単にはつながらないと私が感じるのは、そこに「意味」の連続性がないと思うからだ。
白井は、どうだったのだろう。
「意味」を見つけ出せただろうか。
見つけ出せなかったと思う。
こういうとき、「書く」とは、どういうことなのだろう。なぜ、書くのだろう。意味もわからず、「不思議」というしかないことをなぜ書くのだろう。
きっと人間は「意味」を生きているのではないのだ。意味にならない「もの」に触れながら、うごめいている。わけがわからないまま、めんどうくさくても、それを捨てずに生きている。肉体にそういうものを抱えていると、いつかわかるようになるか。それすらもわからないけれど、仕方がない。
仕方がない--と書くと、諦めのように聞こえるが、そうではなく、決意である。そういうものを抱えて「生きていく」という決意。そうして、そういうものを抱えて生きる人と、わけのわからないままいっしょに「生きる」という決意。
私の「感覚の意見」は、そう思う。
骨を緊めている粘土のような肉を捏ねまわす
爪を喰いこませ 引っ掻き 剥がし 齧り 気のすむまで造りなおして
いっと 母が生んだというものたちの餌食にすればいい
真夜の月に娘を吊るして
最期の獣の巣ばなれ
母が獣であるならば、娘も獣である。その血が流れている。それをしっかり見届ける。そして「生きる」を決意する。「わからないことばっかり」の世界だが、その「わからないこと」の奥には、わかる必要のない「いきる」ということがある。「意味」にできないものがある。
「おかあさん、このわけのわからないものは何?」と聴くことはできない。そういうときがくる。そこからほんとうに「生きる」が始まる。その覚悟がことばを貫いている。
地に宿る | |
白井 知子 | |
思潮社 |