豊原清明「ブラック・家」(「白黒目」36、2012年07月発行)
豊原清明「ブラック・家」は「自主製作映画シナリオ」である。
朝日新聞に何が書かれているのかわからない。けれども、カメラは「排除」にズームする。「排除」だけがクローズアップされる。
この手法--全体を無視して(?)、自分の焦点へまっすぐに進んで行く視線、そしてそこでつかまえる「映像としての肉体」。この感覚は、豊原の詩、俳句にも通じる。遠心と求心の瞬間的な炸裂。
その「配置」がとてもいい。
狙ってそうしているのか、自然にそうなるのか。きっと後者だろう。だからこそ、なまなましい。
この「映像の肉体」とさっき書いた「想像力の肉体」は豊原の「肉眼」のなかでしっかり結合しているのだと思う。その結合の強さが、ストーリー(?)の飛躍を、飛躍ではなく「粘着力」に引き下ろす。--引き下ろすと書いたのは、「飛躍」に対しての対極という感じを伝えたくてそう書いただけで、どちらが「飛躍」かは、まあ、わからないね。対極にあるものが、ぶつかりあい、ぶつかるたびに粘着力が強くなる。飛躍するのに、その飛躍の奥に(?)、肉体が生きている時間が固まってくる。
あ、これじゃあ、何を書いているかわからないね。
きょうの私の感覚の意見は、どうもことばを急いでいる。
シナリオのつづき。
「父のリアクション」ではどういうリアクションかわからない--としたら、あなたは映画を見ていない。驚くのか、がっかりするのか、やっぱりそうかと思うのか。あるいはもっと別のことかもしれない。それは「観客」に任されている。ただ父の顔があるのだ。そして、それがリアクションなのだ。僕が「私はエイリアンに侵された」と告げる。それを聞く父の顔。それを僕がどう判断するか。「父のリアクション」は実は「僕のリアクション」であり、観客のリアクション、つまり観客の思いのままである。笑った顔をしているから父が喜んでいるとは言えない。悲しくてどうしようもなく笑ってごまかしているかもしれない。どんな「解釈」でも成り立つ。だから、そこには「解釈」は加えない。ただ「リアクション」とだけ提示する。
そして映像が切り替わって、父の声がする。そのとき、その直前の「父のリアクション」に「意味」が生まれる。「意味」が遅れてやってくる。そして、その遅れてやってきた「意味」が父を突き破って、次のように展開する。
ストーリーは「未来の無意味」へ向かっているのか、それとも「過去の意味」へ動いているか。逆方向の動きが一瞬一瞬炸裂する。
未来の無意味--と書いたのは、未来が意味を持つのは過去と結びついて、過去から「意味」を吸い上げるときに限定されるからだ。
この映像の肉体の一瞬一瞬には、無意味と意味が不思議な形で結合し、映像そのものがそこにある。その映像の前で、観客(私)が試される。
毎回、豊原のシナリオには打ちのめされる。
豊原清明「ブラック・家」は「自主製作映画シナリオ」である。
○ 黒・三秒
○ タイトル「ブラック・家」
監督・脚本・出演 豊原 清明
撮影・出演 豊原 宏俊
(印刷用紙、二枚、手に持っている)
○ 熱帯魚・真裕美を映しながら
声「エイリアンがこの街を狙っています。」
金持ちの方を狙っているみたいです。」
1行目の「○ 黒・三秒」の「こだわり」がおもしろい。3秒というのはけっこう長い。(3秒というのはけっこう長い--という文章を打てるくらいの時間である。)何もうつっていないスクリーンではなく、スクリーンに黒が映っている。
で、そのあとのタイトル。これは映像としてはどんな感じなのだろうか。
印刷用紙に「ブラック・家」という文字が書かれている。それが映し出されたあと「監督……」の2行が映し出されるのか。「自主製作」というより「手作り」という感じがする。わざとチープにした感覚、そのチープさから、「肉体」が見えるような感じ。
それが「エイリアン」に飛躍する。そこにも、不思議な「肉体感覚」がある。想像力の肉体--というのは奇妙な表現になってしまうが、私の感覚の意見に従えば、想像力の肉体が、「同一レベル」で動いていくときの、「それでしかない」感覚が、とてもざらざらしていて、どきどきする。
私は映画をつくったこともないのだが、豊原のシナリオを読んでいると、いつも映画をつくっている気持ちになる。そして、そのつくっている気持ちというのは、不思議なことに映画を見ている感じとぴったり重なる。つくりながら、それを見ている。
○ 字幕「エイリアンが腹の中に入って来た」
「超貧乏人に入ってきやがった。」
「なぜ我々はここまで苦しまなければいけないのか!」
「原発」
「脱」
「原発」
○ 七月二日の「朝日新聞」一面。
ゆっくりと、「排除」にズーム。
朝日新聞に何が書かれているのかわからない。けれども、カメラは「排除」にズームする。「排除」だけがクローズアップされる。
この手法--全体を無視して(?)、自分の焦点へまっすぐに進んで行く視線、そしてそこでつかまえる「映像としての肉体」。この感覚は、豊原の詩、俳句にも通じる。遠心と求心の瞬間的な炸裂。
その「配置」がとてもいい。
狙ってそうしているのか、自然にそうなるのか。きっと後者だろう。だからこそ、なまなましい。
この「映像の肉体」とさっき書いた「想像力の肉体」は豊原の「肉眼」のなかでしっかり結合しているのだと思う。その結合の強さが、ストーリー(?)の飛躍を、飛躍ではなく「粘着力」に引き下ろす。--引き下ろすと書いたのは、「飛躍」に対しての対極という感じを伝えたくてそう書いただけで、どちらが「飛躍」かは、まあ、わからないね。対極にあるものが、ぶつかりあい、ぶつかるたびに粘着力が強くなる。飛躍するのに、その飛躍の奥に(?)、肉体が生きている時間が固まってくる。
あ、これじゃあ、何を書いているかわからないね。
きょうの私の感覚の意見は、どうもことばを急いでいる。
シナリオのつづき。
○ 僕の顔
僕「私はエイリアンに侵された人間です。
何も言う言葉が見つかりません。」
○ 父の顔。
父のリアクション。
○ 熱帯魚
父の声「しかし、我々は負けんぞ!」
「父のリアクション」ではどういうリアクションかわからない--としたら、あなたは映画を見ていない。驚くのか、がっかりするのか、やっぱりそうかと思うのか。あるいはもっと別のことかもしれない。それは「観客」に任されている。ただ父の顔があるのだ。そして、それがリアクションなのだ。僕が「私はエイリアンに侵された」と告げる。それを聞く父の顔。それを僕がどう判断するか。「父のリアクション」は実は「僕のリアクション」であり、観客のリアクション、つまり観客の思いのままである。笑った顔をしているから父が喜んでいるとは言えない。悲しくてどうしようもなく笑ってごまかしているかもしれない。どんな「解釈」でも成り立つ。だから、そこには「解釈」は加えない。ただ「リアクション」とだけ提示する。
そして映像が切り替わって、父の声がする。そのとき、その直前の「父のリアクション」に「意味」が生まれる。「意味」が遅れてやってくる。そして、その遅れてやってきた「意味」が父を突き破って、次のように展開する。
○ デモの小さな記事を撮りながら、ラジオの雑音で撮る。
声「我々は…我々は…我々は…。」
○ 振り向く、僕。
○ フォースが伸びる
○ 首を自分で締めている、僕。
ストーリーは「未来の無意味」へ向かっているのか、それとも「過去の意味」へ動いているか。逆方向の動きが一瞬一瞬炸裂する。
未来の無意味--と書いたのは、未来が意味を持つのは過去と結びついて、過去から「意味」を吸い上げるときに限定されるからだ。
この映像の肉体の一瞬一瞬には、無意味と意味が不思議な形で結合し、映像そのものがそこにある。その映像の前で、観客(私)が試される。
毎回、豊原のシナリオには打ちのめされる。
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