詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

瀬崎祐「水の時間・陰」ほか

2012-08-08 07:33:52 | 詩(雑誌・同人誌)
瀬崎祐「水の時間・陰」ほか(「風都市」24、2012年夏発行)

 瀬崎祐「水の時間・陰」に「水」は出てこない。
 
物売りの声を背にして岬をまわり
戻ってきた家は静かだった
風が旅程をかるくしている

おとずれる人も遠くなる
いくつもの部屋をぬけて妻の部屋にはいると
文机のうえには
青い書きおきが残されている

さきにかえります さようなら

窓という窓は開けはなたれ
みどりの葉に日射しがすきとおる

わたしのかえる場所がなつかしい
部屋の片隅に
まだつかわれていない薄ものの寝具が
きちんとたたまれている

 「水」は書かれていないが「岬をまわり」ということばが「海」を呼び寄せる。その海は、全体をつつんでいる。--瀬崎の「いま/ここ」が島のように孤立して感じられる。孤立した島で、孤立している瀬崎。
 「海」を感じるのは、「青い書きおき」の「青い」があるからかもしれない。「青い書きおき」は青い紙に書かれた書き置きだろうか。そうではなくて、白い紙に書かれているのだが、遠い(遠くもないか、島だから)海の色が映っている。紙にまで海の感じが広がってきている。それくらい「障害物」のない島なのだ。開け放たれた島なのだ。

窓という窓は開けはなたれ
みどりの葉に日射しがすきとおる

 この広がりと、透明感。それが、この詩をつつんでいる。
 あ、でもねえ。「水の時間・陰」。このタイトルにある「陰」はどこに?
 「水」は「岬」ということばの周辺にひたひたと波のように押し寄せてくるけれど、「陰」は? 光は透明。部屋は(窓は)開け放たれ、風はいくつもの部屋を通り抜けて吹いているだろう。
 このどこに陰が?
 「さきにかえります さようなら」という「書きおき」だろうか。妻が用事ができて先に帰るとき、まあ、「さようなら」とまでは書かないなあ。何かしら、そこには寂しいものがある。「書きおき」の「青い」も海の色とはいいながら、まぶしい青ではないだろう。「さようなら」が、そう感じさせるのか。

わたしのかえる場所がなつかしい

 この1行も、不思議に寂しい。そして「青い」色が漂っている。透明な青。しかし、薄い青、水色っぽいね。「薄ものの寝具」の「薄」という文字が響いてきているのかもしれない。
 この不思議な寂しさは、「かえる場所」が具体的ではないということに原因があるかもしれない。「かえる場所」って、どこ? 先に帰った妻がまっている家? そうではなくて、いま/ここの「妻の部屋」?
 あるいは「薄ものの寝具」? 
 「水」の不在、「陰」の不在、そしてセックスの不在。畳まれた寝具。きちんとたたまれた寝具--その薄ものの、軽い感じ……。

 ああ、ここでは何もかもが「不在」なのだ。こんなに明るい光が満ちている旅の部屋。でも、あるのは「不在」だけ。
 「書きおき」の「さよなら」は「永遠の不在」のあいさつである。たとえ一緒に、そばにいても、「不在」なのだ。
 それを、しかしこの詩のなかの「わたし(とりあえず、瀬崎ということにしておく)は「なつかしい」のだ。
 不在がなつかしい--というのは、一種の「矛盾」かもしれない。
 だけれど、矛盾しているから、そこに詩がある。
 そして、それはタイトルの「水の時間・陰」からはじまっている。

 もう一篇「夜の気息」という作品がある。これは「水の時間・陰」と「対」のようになっている。

あなたの顔を蒼くそめて
夜がゆっくりと降りてくる
蠢く空気は粘りついて
走るあなたをひきとめようとする
いま 無人峠を越えたところで
うちつけられていた右足親指の爪が
黒くなって死んだ
ふー はっ

 「青」は「蒼く」に変わっている。青のなかには透明な光があるが、「蒼」には翳りがある。タイトルを「夜の気息・陰」としたいくらいである。暗いものが、そこにはある。そして、その暗いものは「蠢く」「粘りついてくる」。「水の時間・陰」の開放感とはまったく逆である。
 「無人峠」は「岬」と通い合うが、同じように人がいなくても、「無人」と「ひとを書かないこと」とは違う。「無人」のなかには「無」があるのだが、同時に「人」がある。「人」を強く意識するから「無人」なのである。「無人」というとき、意識のなかには「人」がつよく存在する。
 「水の時間・陰」では、あらゆるものが「不在」だったが、ここでは「無人」さえ「存在する」のである。
 濃密な空気がある。
 だから

ふー はっ

 この息が、暑苦しい。ぐいとっ迫ってくる。ああ、いやだなあ。苦しいなあ。

紅い魚を肩にかついで水からあがってきた男に 会った
ことがある 男はあなたの顔を見ておおきなため息をつ
いたのだった あなたは 声を封じ込めた気息をすばや
く魚の口から押しこめたのだった 水から寄せてくるも
のをいくらつつみこんでみたところで 走ることが安寧
につながることはなったわけである

 これは、「ふー はっ」を言いなおしたものだろう。何か(誰か)得たいの知れないものの存在--それは存在なのだけれど、存在を超えて「気配」として存在する。ふつうは気配の奥に存在がある。何かあるなあというのが気配なのだけれど、
 「水の時間・陰」は、「不在」を描くことで「気配」をただよわせているのだが、
 ここでは、その「気配」が存在(紅い魚を肩にかついで水からあがってきた男)そのものを、存在のままにはしておかない。存在をこえるものにしている。そういう「気配」がここにはあって、それが

男はあなたの顔を見ておおきなため息をついた

 と、突然の「あなた」をひっぱりだす。
 男に会ったのは「あなた」なのか。そうではなく、文法上は、省略されている「わたし(とりあえず、瀬崎ということにしておく)」だろう。ため息を受け止めたのは「わたし」である。けれど、それを瀬崎は「あなた」と書く。
 「瀬崎」を「わたし」と書いてしまうにはと、それが重すぎる。その「存在」を超える「気配」の固まりが重すぎる。で、「あなた」と対象化(客観化)する、自分から切り離してしまうことで、ようやくバランスをたもつという感じである。
 で、というか、だから、というか……。
 1連目の「あなたの顔を蒼くそめて」の「あなた」というのも「あなた」ではなく「わたし」なのである。「わたし」の顔を「わたし」が直接見ることはできないから、「蒼くそめて」はほんとうは見たものではなく、意識がとらえた「わたし」である。「意識化されたわたし」が「あなた」である。
 「意識化されたわたしであるあなた」と「それを意識するわたし」。ああ、めんどうくさい--と私(谷内)は思うけれど、この「めんどうくさい」は私の感覚の意見であって、瀬崎はもちろんそれと向き合っている人間なので、めんどうくさいではすまされない。でも、どうすることができるか、

ふー はっ

 息を吐くしかない。その息から「夜」がはじまる。その夜は「なつかしい」ものであるかどうかは別問題として、瀬崎にからみついている。「不在」ではなく「存在」することが、ここでは問題になっている。

 こういう作品の書き方は、今回のような同人誌での一篇一篇(対になった二篇)という形ではなく、詩集になったときに、もっと明確に見えてくるものかもしれない。瀬崎は「詩集派」の詩人なのだと思った。




窓都市、水の在りか
瀬崎 祐
思潮社
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