監督 エミリオ・エステベス 出演 マーティン・シーン、ヨリック・ヴァン・ヴァーヘニンゲン、デボラ・カーラ・アンガー
フランスからピレネー山脈を越えサンティアゴ・デ・コンポステーラまで 800キロの道を歩く。巡礼である。何のために歩くか。歩いてみたかったのである。わからないけれど、歩けば何かがわかるかもしれないと思い歩く。--これは、私の感覚では、何か「書く」という感じと似ている。(この映画にはスランプに陥った「作家」も登場するが、主役は「書く」こととは無縁である。しかし、「書く」という感じに、歩くことは似ている。)
何かを書くとき--こうやって映画の感想を書いているときでもそうなのだが、私は実は何を書いていいかわからないで書いている。いま、歩くとは書くに似ていると書いたが、そのことさえ実はよくわからない。よくわからないけれど、書くのである。そこには私の知っていることと知らないことがある。何かを書くときに、私の知っていることがある。そして、知らないことがある。その「境目」みたいなところを、私はたどるのである。
この映画では、マーティン・シーンの息子、エミリオ・エステベスが息子の役で登場する。息子はあるひ突然大学をやめてしまう。そして世界放浪の旅に出るのだが、サンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かう途中、いやその出発点で死んでしまう。その息子はいったい何を考え、何を感じていたのか--それを知りたくてマーティン・シーンは息子が歩く予定だった道を歩く。
マーティン・シーンにわかっているのは、息子がその道を歩こうとしたということだけ。ほかはわからない。息子が死んで、バックパックが残される。それを背負って歩くとき、そこはたしかに息子の歩こうとした道であることはわかる。しかし、その途中で見るあれやこれや、人との出合い--それは息子の望んだものかどうかわからない。もし、そういう交流で息子が何かを望むとしたら、あるいは何かを見つけるとしたらそれは何か。これもわからない。けれど、息子は何かと出合い、何かを知りたかったということだけはわかる。
このわけのわからない旅に、オランダ人、カナダ人、アイルランド人が、いっしょに歩くことになる。自己紹介(?)であれやこれやのことはわかるといえばわかる。相手がどういう人物なのか知ることができる。でも、知ったことすべてがそのひとではない。わからないこともある。そのわからないものを抱えながらいっしょに歩く。
その過程で少しずつ、知っていること、わかること、知ってはいけなかったかもしれないこと(つまり、踏み込んではいけなかったかもしれない心の領域)を知ってしまう。知ってしまって、だからといって相手に何ができるわけではない。ただ、いっしょに歩くだけである。
でもねえ、このリズムがいい。少しずつ、何かがわかっていく。たとえばマーティン・シーンは行く先々で息子の遺骨を撒いているのだが、それはまあ観客にはすぐわかるが、同行者にはすぐにはわからない。少しずつ、ついつい「秘密」を漏らしてしまったわかってしまうというような部分もある。で、この少しずつが、なんというか、ことばにならないものなんだなあ。ことばにならないものを、少しずつ、ことばになるかもしれないもの(知っているもの)を積み重ねて、つないでいく。そうすると、そこに何かしら「道」が残る。
道は最初からフランスから聖地まで続いているのではあるけれど、それは「地理上」のこと。それは、なんというか「知っている道」。でも、その「道」には知らないことがある。つまり、歩きはじめて、人と出合って、そのなかで残される「道」が生まれる。その道はたまたま巡礼の道と同じように見えるけれど、ほんとうは違う。ひとりひとりのこころのなかにできる道であり、それは一本なのに交錯している。四人いれば四人の道が交錯する。重なるというよりも、分かれる。まあ、変な言い方だが、ようするに出発点や目的地さえ違っているのだから、それは「巡礼の道」での一種の「出合い」、つまり「交差点」なのだ。
変でしょ?
道は一本のはずなのに、それが交差点というのは。--でも、この変な、矛盾した感覚--それがたぶん道を歩くこと、書くということとほんとうに似ているのだ。
四人はときには横に並んで歩く。あるいは縦に一列に並んで歩く。「道」ではなく葡萄畑を歩いたりもする。もちろん、ケンカもすれば和解もする。これは、書くときにあちこち脱線したり、書いたものを消したり、消したとたんに、あ、いま消したものこそほんとうは書きたかったことだと後悔したりするのにも似ている。
そのリズムが--あ、さっき、リズムがいいと書きながら、肝心のリズムについて書いていなかった。そのリズムが、ほんとうに自然で気持ちがいい。この映画に描かれているように60過ぎの男が 800キロをこのリズムで歩き通せるとは思えないけれど、まあ、そこが映画であり、そこに映画ならではの美しさもあるのだが、いや、ほんとうにリズムがいい。もしかしたら私にも 800キロを歩けるかもしれないという感じのリズムなのである。野原や山や、ところどころの街。そのあらわれるタイミング。光の変化。
で、
この映画、チラシでは「ひたすら歩みつづけた人生の道の果てに、人は今まで知らなかった自分を発見し、さらに進むべき道を見出す」云々というようなことが書いてあるのだが。
そうかなあ。そんな簡単に、「道」は見つかるかなあ。そうではないと思う。それが証拠に、この四人は別にして、ただただその道を何度も繰り返し歩く人もいる。「未来の道」なんて、ないのだ。ただ、いま、ここを歩くという行為、それだけがある。四人は未来に向かってなど歩かない。「いま」を「いま」として歩くだけである。歩くとき、「いま」が「いま」になる。「いま」とは知っていることと、知らないこと、わかっていることとわからないことが交錯する瞬間である。「いま」にとどまりつづけると言った方が近いと思う。
書く--というのは、実は、どこへも行かない。ただ、「いま」を私の知らなかったなにかと「交錯」させるだけである。これは知っている、これは知らない。その知らないものと知っているものを見わけながら、交錯させるとき、そこから何かが始まる。何事かを考えることができる。
というようなことを考えた。
あ、書き忘れた。映像が非常に美しかった。自然や街が、この映画に描かれているように美しいとはかぎらないと思うけれど、いや、美しくあってほしいなあ、と思わず思ってしまうくらい美しかった。
エミリオ・エステベスは「いま」というものをほんとうによく知っているのだろう。知らないことについても、知らないということを知っていて、知らないものは知らないものとしてしっかり見つめる感性を大事にしているのだと感じた。
(2012年08月18日、中州大洋3)
フランスからピレネー山脈を越えサンティアゴ・デ・コンポステーラまで 800キロの道を歩く。巡礼である。何のために歩くか。歩いてみたかったのである。わからないけれど、歩けば何かがわかるかもしれないと思い歩く。--これは、私の感覚では、何か「書く」という感じと似ている。(この映画にはスランプに陥った「作家」も登場するが、主役は「書く」こととは無縁である。しかし、「書く」という感じに、歩くことは似ている。)
何かを書くとき--こうやって映画の感想を書いているときでもそうなのだが、私は実は何を書いていいかわからないで書いている。いま、歩くとは書くに似ていると書いたが、そのことさえ実はよくわからない。よくわからないけれど、書くのである。そこには私の知っていることと知らないことがある。何かを書くときに、私の知っていることがある。そして、知らないことがある。その「境目」みたいなところを、私はたどるのである。
この映画では、マーティン・シーンの息子、エミリオ・エステベスが息子の役で登場する。息子はあるひ突然大学をやめてしまう。そして世界放浪の旅に出るのだが、サンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かう途中、いやその出発点で死んでしまう。その息子はいったい何を考え、何を感じていたのか--それを知りたくてマーティン・シーンは息子が歩く予定だった道を歩く。
マーティン・シーンにわかっているのは、息子がその道を歩こうとしたということだけ。ほかはわからない。息子が死んで、バックパックが残される。それを背負って歩くとき、そこはたしかに息子の歩こうとした道であることはわかる。しかし、その途中で見るあれやこれや、人との出合い--それは息子の望んだものかどうかわからない。もし、そういう交流で息子が何かを望むとしたら、あるいは何かを見つけるとしたらそれは何か。これもわからない。けれど、息子は何かと出合い、何かを知りたかったということだけはわかる。
このわけのわからない旅に、オランダ人、カナダ人、アイルランド人が、いっしょに歩くことになる。自己紹介(?)であれやこれやのことはわかるといえばわかる。相手がどういう人物なのか知ることができる。でも、知ったことすべてがそのひとではない。わからないこともある。そのわからないものを抱えながらいっしょに歩く。
その過程で少しずつ、知っていること、わかること、知ってはいけなかったかもしれないこと(つまり、踏み込んではいけなかったかもしれない心の領域)を知ってしまう。知ってしまって、だからといって相手に何ができるわけではない。ただ、いっしょに歩くだけである。
でもねえ、このリズムがいい。少しずつ、何かがわかっていく。たとえばマーティン・シーンは行く先々で息子の遺骨を撒いているのだが、それはまあ観客にはすぐわかるが、同行者にはすぐにはわからない。少しずつ、ついつい「秘密」を漏らしてしまったわかってしまうというような部分もある。で、この少しずつが、なんというか、ことばにならないものなんだなあ。ことばにならないものを、少しずつ、ことばになるかもしれないもの(知っているもの)を積み重ねて、つないでいく。そうすると、そこに何かしら「道」が残る。
道は最初からフランスから聖地まで続いているのではあるけれど、それは「地理上」のこと。それは、なんというか「知っている道」。でも、その「道」には知らないことがある。つまり、歩きはじめて、人と出合って、そのなかで残される「道」が生まれる。その道はたまたま巡礼の道と同じように見えるけれど、ほんとうは違う。ひとりひとりのこころのなかにできる道であり、それは一本なのに交錯している。四人いれば四人の道が交錯する。重なるというよりも、分かれる。まあ、変な言い方だが、ようするに出発点や目的地さえ違っているのだから、それは「巡礼の道」での一種の「出合い」、つまり「交差点」なのだ。
変でしょ?
道は一本のはずなのに、それが交差点というのは。--でも、この変な、矛盾した感覚--それがたぶん道を歩くこと、書くということとほんとうに似ているのだ。
四人はときには横に並んで歩く。あるいは縦に一列に並んで歩く。「道」ではなく葡萄畑を歩いたりもする。もちろん、ケンカもすれば和解もする。これは、書くときにあちこち脱線したり、書いたものを消したり、消したとたんに、あ、いま消したものこそほんとうは書きたかったことだと後悔したりするのにも似ている。
そのリズムが--あ、さっき、リズムがいいと書きながら、肝心のリズムについて書いていなかった。そのリズムが、ほんとうに自然で気持ちがいい。この映画に描かれているように60過ぎの男が 800キロをこのリズムで歩き通せるとは思えないけれど、まあ、そこが映画であり、そこに映画ならではの美しさもあるのだが、いや、ほんとうにリズムがいい。もしかしたら私にも 800キロを歩けるかもしれないという感じのリズムなのである。野原や山や、ところどころの街。そのあらわれるタイミング。光の変化。
で、
この映画、チラシでは「ひたすら歩みつづけた人生の道の果てに、人は今まで知らなかった自分を発見し、さらに進むべき道を見出す」云々というようなことが書いてあるのだが。
そうかなあ。そんな簡単に、「道」は見つかるかなあ。そうではないと思う。それが証拠に、この四人は別にして、ただただその道を何度も繰り返し歩く人もいる。「未来の道」なんて、ないのだ。ただ、いま、ここを歩くという行為、それだけがある。四人は未来に向かってなど歩かない。「いま」を「いま」として歩くだけである。歩くとき、「いま」が「いま」になる。「いま」とは知っていることと、知らないこと、わかっていることとわからないことが交錯する瞬間である。「いま」にとどまりつづけると言った方が近いと思う。
書く--というのは、実は、どこへも行かない。ただ、「いま」を私の知らなかったなにかと「交錯」させるだけである。これは知っている、これは知らない。その知らないものと知っているものを見わけながら、交錯させるとき、そこから何かが始まる。何事かを考えることができる。
というようなことを考えた。
あ、書き忘れた。映像が非常に美しかった。自然や街が、この映画に描かれているように美しいとはかぎらないと思うけれど、いや、美しくあってほしいなあ、と思わず思ってしまうくらい美しかった。
エミリオ・エステベスは「いま」というものをほんとうによく知っているのだろう。知らないことについても、知らないということを知っていて、知らないものは知らないものとしてしっかり見つめる感性を大事にしているのだと感じた。
(2012年08月18日、中州大洋3)
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