詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和田まさ子「水すまし」

2012-08-04 10:24:49 | 詩(雑誌・同人誌)
和田まさ子「水すまし」(「地上十センチ」創刊号、2012年07月31日発行)

 和田まさ子のことばは、論理的なのか非論理的なのかわからない。書いてある通りに読むことができる。書いてある通りの情景が浮かんでくる。でも、それが変である。そして変であるけれど、気持ちがいい。
 「水すまし」の前半。

大雨が降ったので
公園の地面が鏡のようになり
ふつうの水すましの百倍はある大水すましがすいーっすいーっと
リズミカルに泳いでいる

「いいですなあ 美しい眺めです」
マスダさんは感服したように首を縦に振りながらいうので
わたしも同じようにうなずいた
ときどき地面がぴかりと光るのは
スケーターワルツの音楽のようでもある

 「大雨が降ったので/公園の地面が鏡のようになり」というのは、ありうるね。ほんとうのことだ。けれど「ふつうの水すましの百倍はある大水すまし」はありえない。嘘である。詩に嘘を書いてはいけないという決まりなどあるわけではないから、これはこれでいいのだと思う。--ということは、どうでもよくて。
 あ、この水すましはほんものではないなあ、という意識が頭を少し横切るとき、「公園の地面が鏡のようになり」も、どこかに少し嘘を含んでいるんだなあと思う。ほんものを見ているというより、つまり、鏡のようになった地面を見ているというより、鏡ということば、鏡を思いついた意識の方へとことばが動いて行っていると気がつく。
 「公園の地面が鏡のようになり」という文の「主語」はあくまで「地面」であるけれど、「意識の主語(?)」は「鏡」である。もう、和田は「地面」など見ていない。
 地面ではなく、鏡-大きな水鏡を見ているからこそ、そこに水すましがあらわれてくる。鏡がほんものではないのだから、水すましだってほんものではない。つまり、大きさはどれだけあってもいいのである。
 このとき和田はもう鏡も見ていない。和田が見ているのは水すましである。しかもふつうの水すましではなく、百倍もある水すましである。それがすいーっすいーっと泳ぐ。で、このとき和田が見ているのは、水すましの大きさではない。水すましでもない。すいーっすいーっと泳ぐその泳ぎそのもの、リズミカルな運動の気持ちのよさである。
 それから状況(?)はさらにかわる。2連目。和田が見ているのは、「美しい眺め」を通り越して、「感服」というこころのありようである。ひとは「風景」を見るのではなく、風景を見るそのひとの「こころのありよう」を見るのである。
 (私も、大きな水たまり、水鏡と水すましを見ると同時に、和田のこころの動きをみている。)
 もちろん、「こころのありよう」などというものは、ひとそれぞれであり、水たまりを見て「美しい眺め」と思わないひともいるだろう。でも、そう思うひとがいる。そして、そのときの「気持ち(感服)」に共感するひとがいる。和田は、だいたい他人の「感服」というか、深くこころの底からあふれてくる何事かにそのまま「共感」する人間であり、そこがおもしろい。(私は和田の詩をそんなに多く読んでいるわけではないので、私が思い出しているのは「壺」とか「金魚」になってしまったひとに共感して、和田自身もその気になる詩のことである。)
 この「共感」に、なんともいえない「人間性」があふれている。「距離のとり方」があふれている。ちょっと、とぼけている。

わたしたちは水すましを見るために来ている人をめあての屋台の店で
あんず飴を買い なめながらそれを見ていた

マスダさんはわたしの小学校の先生で
いまでは年の離れた友だちのようになっていた
少し古風な物言いをするので恋人とちがう
話していると恋人よりも気があう
こんな大水すましを観賞するのは
やはり恋人よりマスダさんだろう

 恋人ではなく年の離れた友だち。それにふさわしい何事か。--それが恋人とではなぜだめなのか、というのは、まあ、面倒くさいことがらだね。だから、書かない。そういうことは、わからなければわからないでかまわないのだ。ひとなんて、どっちにしろわからない。わからないところがあって、わかると安心して言えるのだ。
 「感服」「少し古風な物言い」。そのとき、和田の「こころのありよう」は、なんというのだろう、あ、このひとは私とは違うということを、発見し、納得し、受け入れている。そして、そのときの「距離」を保っている。一瞬近づくのだけれど、そのひとの内部にまで入り込むのではない。ちらり、とそれを見る。開いたこころの扉から、その奥を見て、なるほどと思う感じに似ている。
 この踏み込まない「距離のとり方」、あるいは「受け入れ方」が、和田らしいなあ、と私は勝手に思うのである。「距離の変化」というものに、とても敏感なひとなのだと思う。で、そういうひとは、やはり「距離のとり方」の上手なひとを引き寄せるんだろうなあ。

あんず飴があと少しになったとき
大水すましの体が小さくなった
ぽっきんぽっきんと音をさせながら縮まっていく
公園の地面ももう鏡ではなく
薄汚れたまだらの泥の水たまりになった
屋台が店じまいをしている
気がつくと
横にいたマスダさんがいない
あんず飴の棒が一本ちりがみの上にのっていた

 最後の1行が「マスダさん」を浮かび上がらせる。どういうひとかを浮き彫りにする。そんなことをするくらいなら、ちりがみでつつんで持って行って、どこかのごみ箱に自分で捨てればいいのだろうけれど、まあ、それは余分なこと。
 「ティッシュ」ではなく、「ちりがみ」というのがいいなあ。ほんとうはてぃっしゅかもしれないけれど、「ちりがみ」になってしまう感じ、それこそ「少し古風」な感じでひとがふれあう楽しみ、よろこびが、和田のことばのなかにある。




わたしの好きな日
和田 まさ子
思潮社
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