監督 アンナ・ジャスティス 出演アリス・ドワイヤー、マテウス・ダミエッキ、ダグマー・マンツェル、レヒ・マツキェビッチュ、スザンヌ・ロタール
ラストシーン。女が男に会いに行く。バス停にバスが着く。男が待っている。女はなかなか降りてこない。最後にやっと降りてくる。この間、音楽が鳴っている。そしていよいよという瞬間に音楽が切れる。沈黙でもない。静寂でもない。音にならない何かがはりつめている。女と男が互いに相手をみつめる。そして会いたかった相手だとわかる。その瞬間に、映画が終わる。
この抑制のきいたラストがとてもいい。沈黙でも静寂でもないほんの1秒くらいの間に、それまでの映画のシーンがすべて噴出してくる。語る必要はない。二人がその後どうしたかはどうでもいい。二人が過酷な戦争を生き延びたように、愛もまた生き延びた。そして、いま、ここにいる。それが「平和」ということなのかどうかもわからないが、そうか、人は一度ひとを愛したらけっして忘れることはできないのか、それがいのちというものなのかということが、その音の「空白」のなかからはじける。
そこにはほんとうは音楽がある。けれどその音楽は楽器では表現できない。旋律では表現できない。リズムでも表現できない。まったく新しい音楽だからである。まだだれも体験していないので、それを「共有」できる旋律や音がないのだ。
ここから私たちは(私は)どこへ引き返していくべきか。どこから「音楽」をつかみとるべきか。あるいは「ことば」でもいいのだが……。
視点が女を主人公にしているせいだろうか、そこに登場する女が全員非常に鮮烈である。主人公はもちろんそうなのだが、脇役として登場してくる母、女の恋人の兄の妻(いわゆる義姉)、そして女の娘が、それぞれに女を主張する。
母は主人公の女を拒絶する。ユダヤ人だからである。ユダヤ人と結婚すれば迫害が家族にまで及んでくる、息子が危ないと感じるからである。一方、女であるから、息子の恋人が流産し、出血しているのを見ると、そのままにしておくわけにはいかない。そのままにしておくわけにはいかないのだが、一方で女をドイツ兵に手渡してしまいたいという気持ちもある。その葛藤を、ことばではなく肉体で描いて見せる。これが鮮烈である。ここにも主人公の女とは違った愛がたしかにあるのだ。
義姉の愛はとても純粋だ。ドイツ人に対する怒りがある。それが夫への愛、そして主人公への愛にもつながる。ソ連軍に連行されていくとき、その車のなかで歌を歌う。何の歌かは私にはわからないが、「いま/ここ」を純粋に愛している、祖国(ポーランド)を愛している、忘れはしないという気持ちが静かにつたわってくる。(ここに歌があり、ラストシーンに歌がない、ことばがないということに注目すると、ここからもう一つ別の感想が書けると思うが、きょうは書かない。)
娘の視線も鋭い。母の異変に気がつく。男がいる、という感じで、不審を抱く。母の、秘められた愛がどういうものか知らないまま、そこに愛があることに気がつき、母を問い詰める。この娘の視線は、どこか恋人の母の視線にも通じる。自分の家族、家庭がどうなるのか、それを案じる視線である。私をおいてきぼりにして、私の知らないひとを愛しているのは許せない、そういう感じだろうか。
主人公の女の愛は、この3人とは違う。家族として愛しているわけではない。祖国として愛しているわけではない。(ドイツ兵に対する憎しみの反動として、その愛が強くなっているわけではない。)わけのわからないまま、というと変だけれど、ただその男を愛している。理由(?)はいろいろつけられるだろう。オペラの話をいっしょにできる。いっしょの夢をみることができる。だが、そんなことは、つけたしにすぎない。愛に理由はない。相手を見て、ひかれる。それだけである。
この理由のなさというか、理由を説明しないところが、この映画のいちばんの強いところである。収容所で出合って、見つめ合って、愛し合った。ありえない状況で愛を育てて、いっしょに逃げた。どうなるか、まったくわからない。けれど脱走すれば、いっしょにいることができる。愛とはいっしょにいることなのだ。それ以外にないのだということをふたりは知っている。
だから時間を超えて、会いに行くのだ。
そして、この女が、男の「声」を覚えていて、声から男を見つけ出すというところが、またまた非常におもしろい。(私は、そこが非常に気に入っている。)女にはずーっと男の声が聞こえていたのだ。別れたあとも声が女の中に生きていた。それは女がいつも男が話したことを反復していたということでもあるだろう。写真を見つめ、顔を思い出す。声は「記録」がない。けれど、女の肉体(耳)は声を覚えている。
この耳の力。--これが、ラストの「音の空白」につながる。音楽はじゃまなのだ。「音の空白」のなかには、男の声が満ちている。男が脱走するとき、女を番号で呼び「来い!」と命令する。その「来い!」が甦るのだ。
男がドイツ兵を装って女を連れ出し、脱走する。そのときの「来い!」はドイツ兵の冷たい声の響きなのだが、その冷たさの奥にほんとうは震えるような恐怖と祈りがある。それを感じることができるのは、「来い!」と言われた女だけである。
そうして、その声を思い出すとき、女はまた、母の冷たい声や、義姉の祖国を愛する声もいっしょに思い出すかもしれない。女を詰問した娘の声を思い出すかもしれない。また、女を送り出してくれた夫の声も思い出すかもしれない。声の中にひそむ複雑な感情。そのなかで女はいまたたずんでいるのかもしれない。
どこへ歩みだすのか。それからどうなるのか。「音の空白」が、鼓動にかわる。どきどきしてしまう。ほんの1秒くらいの「音の空白」なのだが、そこに心臓がどきどきと脈打つ音を聞いた。それは女の心臓の音なのか、私の心臓の音なのかわからなかった。
(KBCシネマ1、2012年08月29日)
ラストシーン。女が男に会いに行く。バス停にバスが着く。男が待っている。女はなかなか降りてこない。最後にやっと降りてくる。この間、音楽が鳴っている。そしていよいよという瞬間に音楽が切れる。沈黙でもない。静寂でもない。音にならない何かがはりつめている。女と男が互いに相手をみつめる。そして会いたかった相手だとわかる。その瞬間に、映画が終わる。
この抑制のきいたラストがとてもいい。沈黙でも静寂でもないほんの1秒くらいの間に、それまでの映画のシーンがすべて噴出してくる。語る必要はない。二人がその後どうしたかはどうでもいい。二人が過酷な戦争を生き延びたように、愛もまた生き延びた。そして、いま、ここにいる。それが「平和」ということなのかどうかもわからないが、そうか、人は一度ひとを愛したらけっして忘れることはできないのか、それがいのちというものなのかということが、その音の「空白」のなかからはじける。
そこにはほんとうは音楽がある。けれどその音楽は楽器では表現できない。旋律では表現できない。リズムでも表現できない。まったく新しい音楽だからである。まだだれも体験していないので、それを「共有」できる旋律や音がないのだ。
ここから私たちは(私は)どこへ引き返していくべきか。どこから「音楽」をつかみとるべきか。あるいは「ことば」でもいいのだが……。
視点が女を主人公にしているせいだろうか、そこに登場する女が全員非常に鮮烈である。主人公はもちろんそうなのだが、脇役として登場してくる母、女の恋人の兄の妻(いわゆる義姉)、そして女の娘が、それぞれに女を主張する。
母は主人公の女を拒絶する。ユダヤ人だからである。ユダヤ人と結婚すれば迫害が家族にまで及んでくる、息子が危ないと感じるからである。一方、女であるから、息子の恋人が流産し、出血しているのを見ると、そのままにしておくわけにはいかない。そのままにしておくわけにはいかないのだが、一方で女をドイツ兵に手渡してしまいたいという気持ちもある。その葛藤を、ことばではなく肉体で描いて見せる。これが鮮烈である。ここにも主人公の女とは違った愛がたしかにあるのだ。
義姉の愛はとても純粋だ。ドイツ人に対する怒りがある。それが夫への愛、そして主人公への愛にもつながる。ソ連軍に連行されていくとき、その車のなかで歌を歌う。何の歌かは私にはわからないが、「いま/ここ」を純粋に愛している、祖国(ポーランド)を愛している、忘れはしないという気持ちが静かにつたわってくる。(ここに歌があり、ラストシーンに歌がない、ことばがないということに注目すると、ここからもう一つ別の感想が書けると思うが、きょうは書かない。)
娘の視線も鋭い。母の異変に気がつく。男がいる、という感じで、不審を抱く。母の、秘められた愛がどういうものか知らないまま、そこに愛があることに気がつき、母を問い詰める。この娘の視線は、どこか恋人の母の視線にも通じる。自分の家族、家庭がどうなるのか、それを案じる視線である。私をおいてきぼりにして、私の知らないひとを愛しているのは許せない、そういう感じだろうか。
主人公の女の愛は、この3人とは違う。家族として愛しているわけではない。祖国として愛しているわけではない。(ドイツ兵に対する憎しみの反動として、その愛が強くなっているわけではない。)わけのわからないまま、というと変だけれど、ただその男を愛している。理由(?)はいろいろつけられるだろう。オペラの話をいっしょにできる。いっしょの夢をみることができる。だが、そんなことは、つけたしにすぎない。愛に理由はない。相手を見て、ひかれる。それだけである。
この理由のなさというか、理由を説明しないところが、この映画のいちばんの強いところである。収容所で出合って、見つめ合って、愛し合った。ありえない状況で愛を育てて、いっしょに逃げた。どうなるか、まったくわからない。けれど脱走すれば、いっしょにいることができる。愛とはいっしょにいることなのだ。それ以外にないのだということをふたりは知っている。
だから時間を超えて、会いに行くのだ。
そして、この女が、男の「声」を覚えていて、声から男を見つけ出すというところが、またまた非常におもしろい。(私は、そこが非常に気に入っている。)女にはずーっと男の声が聞こえていたのだ。別れたあとも声が女の中に生きていた。それは女がいつも男が話したことを反復していたということでもあるだろう。写真を見つめ、顔を思い出す。声は「記録」がない。けれど、女の肉体(耳)は声を覚えている。
この耳の力。--これが、ラストの「音の空白」につながる。音楽はじゃまなのだ。「音の空白」のなかには、男の声が満ちている。男が脱走するとき、女を番号で呼び「来い!」と命令する。その「来い!」が甦るのだ。
男がドイツ兵を装って女を連れ出し、脱走する。そのときの「来い!」はドイツ兵の冷たい声の響きなのだが、その冷たさの奥にほんとうは震えるような恐怖と祈りがある。それを感じることができるのは、「来い!」と言われた女だけである。
そうして、その声を思い出すとき、女はまた、母の冷たい声や、義姉の祖国を愛する声もいっしょに思い出すかもしれない。女を詰問した娘の声を思い出すかもしれない。また、女を送り出してくれた夫の声も思い出すかもしれない。声の中にひそむ複雑な感情。そのなかで女はいまたたずんでいるのかもしれない。
どこへ歩みだすのか。それからどうなるのか。「音の空白」が、鼓動にかわる。どきどきしてしまう。ほんの1秒くらいの「音の空白」なのだが、そこに心臓がどきどきと脈打つ音を聞いた。それは女の心臓の音なのか、私の心臓の音なのかわからなかった。
(KBCシネマ1、2012年08月29日)