秋亜綺羅「ドリーム・オン」(再び)(「ココア共和国」10、2012年07月07日発行)
きのうは、途中からいいかげんになりすぎたみたいなので、ちょっと補足。
秋亜綺羅が「ドリーム・オン」でやっているのは、つきつめていえば、ことばと肉体の関係の洗いなおしである。
ひとが年を取り、肉体が変化する。少年は大人になり、髪も薄くなり、禿げあがり、その変化の奥にある苦労が額の皺に刻まれる。まあ、それは「運命」である。そうやって生きるのが「運命」、ということを書いている、というのではない。
それだったら「意味」になってしまうね。
そうではなくて、そういう「意味」を引き受けたふりをしながら(これが、想像力の想定内、ということになる)、書いたことを振り捨てていく。
秋亜綺羅はことばを積み重ねて、その結果としてある世界を描くのではなく、ことばを書き捨てることで、ことばではなく、ことばのリズムと肉体を、詩の「先に」取り残すのである。詩の「先に」放り出すのである、と言えばいいのかも。
あ、きのう書いたこととまったく違うことを書いている?
まあ、そうかもしれない。
同じことを考えつづけることはできないから。考えなんて、一瞬先にはかわってましうものだから。「過去(のことば)は過ぎ去り未来(のことば)は未だ来ない」。思いつくまま、あるいは思いつかないことを思いついたふりをしながら、私のことばは動く。
そのとき次第である。
で、そういう私からみると、秋亜綺羅は「意味」を書こうとはしていない。「意味」を読者に感じさせながら、さっと捨てていく。「論理」をどこかに感じさせながら、ことばでたどることのできる、あるいは、ことばで誘導できる「意味」を、そんなものは捨ててしまえ、というのである。
年をとって、額に皺が増えて、それが「運命線」のように深い--と紋黄蝶は無関係。紋黄蝶と関係があるのは、レモン・スカッシュの黄色い色。でも、レモン・スカッシュってほんとうに黄色い? 違うよね。ただ、そういうふうに「連想」をひっぱることができる、そうしてその連想の中で、ちょっと美しいイメージができる。紋黄蝶がレモン・スカッシュのなかを飛び、そして溺れるという透明なイメージが。きれいでしょ? だからといって、「意味」はない。「意味」があるとしたら、そのイメージが美しいということ。で、そう思った瞬間、額の運命線のような皺なんて、どこかに消えているでしょ?
この振り捨て方。
ことば、「意味」は捨てるためにある。
「書を捨てよ、街に出よう」ではなく「意味」を捨てよう、というのが秋亜綺羅のことばの運動かもしれない。そして「意味」を捨てるためには、ことばのなかに「意味」が感じられないといけない。額の皺の「運命線」のように。「過去は過ぎ去り未来は未だ来ない」という「熟語」の「説明」も捨てないといけない。「説明」は、そういう「説明」を必要としたひとがつくりだすためのものであって、それは私(秋亜綺羅)とは関係がない、と秋亜綺羅はいう。
そういうことができか。たぶん、できない。できないから、まあ、つづけるのである。できてしまえば、それでおしまい。できないから、繰り返す。
こんなふうな感想の書き方ではなく、もっと違った書き方の方がいいのかもしれない。たとえば、
この「若くなかったもしくは死ねなかった、た、た、た」の「た、た、た、た」が、私は大好きである。
こう書きはじめればよかったかもしれない。
「た、た、た、た」って何? どういう「意味」?
「意味」なんてありません。あったって、私は気にしません。「意味」なんて、私がこれから書くことと同じで、どうとでも「つける」ことができる。
「た、た、た、た」は、つぎに何を書いていいかわからず、とりあえず「た、た、た、た」とことばにする(声に出す)ことで、自分のなかから何かが生まれてくるのを待っているだけなのです。
ふつうは、そういうことばを書かない。
きちんと「意味」を整理し、ことばを整える。それが「文学」。
そうかもしれないけれど、そういうものは嘘っぱちかもしれない。
ことばは、そんな簡単には出てこない。肉体のなかになにかが動いているけれど、それはまだ明確な形にならない。だいたい「明確な形」そのものがまちがっているかもしれない。で、とりあえず「た、た、た、た」。
これは、
の「波」と同じ。さらには、他の作品にも繰り返される「ドリーム・オン」ということばも同じ。繰り返し、声に出しながら、その声に誘われて、肉体のなかからことばが飛び出してくるのを待っているだけである。
肉体があって、ことばのリズムがある。
それにのって、いままで語られなかったことば、ことばの連結がはじまる。それを次々に放り出す。そうすると、放り出したことばがつぎつぎに「無意味」になって消えていく。どこまで無意味になれるか。無意味の果てに残されるのは何か。
肉体とリズム。ことばを、「しゃべる」リズム。しゃべらさなければならない、しゃべることを必要としている肉体--それが残される。
それはしゃべることを否定する何か、自由なことばを拒絶する何かと闘うことである--とまで言ってしまうと、また「意味」という嘘になってしまうが……。
きのうは、途中からいいかげんになりすぎたみたいなので、ちょっと補足。
秋亜綺羅が「ドリーム・オン」でやっているのは、つきつめていえば、ことばと肉体の関係の洗いなおしである。
鏡を覗いたってぼくしかいなくなってしまった
すこしは大人になって禿げあがって
ひたいのしわだって運命線のように深い
ひとが年を取り、肉体が変化する。少年は大人になり、髪も薄くなり、禿げあがり、その変化の奥にある苦労が額の皺に刻まれる。まあ、それは「運命」である。そうやって生きるのが「運命」、ということを書いている、というのではない。
それだったら「意味」になってしまうね。
そうではなくて、そういう「意味」を引き受けたふりをしながら(これが、想像力の想定内、ということになる)、書いたことを振り捨てていく。
秋亜綺羅はことばを積み重ねて、その結果としてある世界を描くのではなく、ことばを書き捨てることで、ことばではなく、ことばのリズムと肉体を、詩の「先に」取り残すのである。詩の「先に」放り出すのである、と言えばいいのかも。
あ、きのう書いたこととまったく違うことを書いている?
まあ、そうかもしれない。
同じことを考えつづけることはできないから。考えなんて、一瞬先にはかわってましうものだから。「過去(のことば)は過ぎ去り未来(のことば)は未だ来ない」。思いつくまま、あるいは思いつかないことを思いついたふりをしながら、私のことばは動く。
そのとき次第である。
で、そういう私からみると、秋亜綺羅は「意味」を書こうとはしていない。「意味」を読者に感じさせながら、さっと捨てていく。「論理」をどこかに感じさせながら、ことばでたどることのできる、あるいは、ことばで誘導できる「意味」を、そんなものは捨ててしまえ、というのである。
年をとって、額に皺が増えて、それが「運命線」のように深い--と紋黄蝶は無関係。紋黄蝶と関係があるのは、レモン・スカッシュの黄色い色。でも、レモン・スカッシュってほんとうに黄色い? 違うよね。ただ、そういうふうに「連想」をひっぱることができる、そうしてその連想の中で、ちょっと美しいイメージができる。紋黄蝶がレモン・スカッシュのなかを飛び、そして溺れるという透明なイメージが。きれいでしょ? だからといって、「意味」はない。「意味」があるとしたら、そのイメージが美しいということ。で、そう思った瞬間、額の運命線のような皺なんて、どこかに消えているでしょ?
この振り捨て方。
ことば、「意味」は捨てるためにある。
「書を捨てよ、街に出よう」ではなく「意味」を捨てよう、というのが秋亜綺羅のことばの運動かもしれない。そして「意味」を捨てるためには、ことばのなかに「意味」が感じられないといけない。額の皺の「運命線」のように。「過去は過ぎ去り未来は未だ来ない」という「熟語」の「説明」も捨てないといけない。「説明」は、そういう「説明」を必要としたひとがつくりだすためのものであって、それは私(秋亜綺羅)とは関係がない、と秋亜綺羅はいう。
そういうことができか。たぶん、できない。できないから、まあ、つづけるのである。できてしまえば、それでおしまい。できないから、繰り返す。
こんなふうな感想の書き方ではなく、もっと違った書き方の方がいいのかもしれない。たとえば、
死ぬふりをするということは
死んだ恋人と一緒に生きてみることである
住民票なんか確かめてみても楽になれない
若くなかったもしくは死ねなかった、た、た、た
自己催眠による自殺を試みて数を数える
気づいた時にはもう遅い夢中だった
この「若くなかったもしくは死ねなかった、た、た、た」の「た、た、た、た」が、私は大好きである。
こう書きはじめればよかったかもしれない。
「た、た、た、た」って何? どういう「意味」?
「意味」なんてありません。あったって、私は気にしません。「意味」なんて、私がこれから書くことと同じで、どうとでも「つける」ことができる。
「た、た、た、た」は、つぎに何を書いていいかわからず、とりあえず「た、た、た、た」とことばにする(声に出す)ことで、自分のなかから何かが生まれてくるのを待っているだけなのです。
ふつうは、そういうことばを書かない。
きちんと「意味」を整理し、ことばを整える。それが「文学」。
そうかもしれないけれど、そういうものは嘘っぱちかもしれない。
ことばは、そんな簡単には出てこない。肉体のなかになにかが動いているけれど、それはまだ明確な形にならない。だいたい「明確な形」そのものがまちがっているかもしれない。で、とりあえず「た、た、た、た」。
これは、
人生はやり直しがきかないので 波
文字の書けなくなる暗さまで待って 波
ひと芝居打って打ち返してみたらいい 波
の「波」と同じ。さらには、他の作品にも繰り返される「ドリーム・オン」ということばも同じ。繰り返し、声に出しながら、その声に誘われて、肉体のなかからことばが飛び出してくるのを待っているだけである。
肉体があって、ことばのリズムがある。
それにのって、いままで語られなかったことば、ことばの連結がはじまる。それを次々に放り出す。そうすると、放り出したことばがつぎつぎに「無意味」になって消えていく。どこまで無意味になれるか。無意味の果てに残されるのは何か。
肉体とリズム。ことばを、「しゃべる」リズム。しゃべらさなければならない、しゃべることを必要としている肉体--それが残される。
それはしゃべることを否定する何か、自由なことばを拒絶する何かと闘うことである--とまで言ってしまうと、また「意味」という嘘になってしまうが……。
季刊 ココア共和国vol.10 | |
秋 亜綺羅,池井 昌樹,一倉 宏,雨女 薬,石井 萌葉,望月 苑巳 | |
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