三井葉子「しずかに」ほか(「交野が原」73、2012年09月09日発行)
三井葉子「しずかに」には知らないことばがない。けれど、わからないことばがある。そして、わからないというのは、どこか肉体の奥で、あ、これは「わかる」という気持ちがわき起こってきたときに、さらにわからなくなるものである。
3連目の「頼んで」。直感的にわかるのだけれど、ほかのことばで言いなおそうとすると、ことばが出てこない。「わからない」。でも、それを「わかりたい」。これが「わからない」とこの詩が「わからない」。そう思うのだが、どう近づいていけばいいのかわからない。
どこかに木がある。そしてその木には鳥が巣をかけている。巣のなかにいるのは雛だろうか。それともまだ卵のままだろうか。よくわからないけれど、あ、そんなふうにして自分とは違ったところで、自分とは違ったいのちが生きている。大きな世界の中で、いのちはさまざまに形をかえながらつづいている。私もその「つながり」のひとつなのだと信じる。そうすると安心する。
「頼む」は「信じる」なのだ。ふつう、「頼む」を「信じる」という「意味」ではつかわないけれど、「頼んだよ(まかせたよ)」というときは「信じているよ」というこころがそこに動いている。ここから「いのる」という意味もうまれてくるのかもしれない、いやあ、いいことばだなあ。そうか、こんなふうにして使うのか、と思う。納得させられる。そして、この「頼む」「信じる」から「頼もしい」ということばも動くのだなあと思う。「ひとつあれば」の「ひとつ」が、いろいろに動くことばをきゅっとひきしめる。どんなことばも、けっきょく「ひとつ」から生まれ、動いていく。
俳句で言う「遠心・求心」の、その固く結びついた一点、そして解放された一点を思う。
三井のことば、その「意味」は表面的ではなく、どこか肉体の奥深いところでゆっくりと人間全体をゆさぶる。
斎藤恵子「さみだれ」。
「子どもたちはわたしを見てもしらんかおです/でもしっているのです」。知らないのに知っている。わかっているのに、わからないふりをする。そういうところで動いている何かは「恐ろしい」。でも、そういう「恐ろしい」何かがあるからおもしろいのかもしれない。
三井は「頼もしい」何かを書いている。斎藤の書いていることは「頼もしい」の反対にあるのかもしれない。それは他人なんか信じない。自分を信じる、自分がいちばん「たのもしい」のかもしれない。頼りになるのは自分だけ。だから、「恐ろしい」も自分で抱えるしかない。
で、自分のなかに「頼もしい」と「恐ろしい」がからみあって、自分がほどけてゆく。
その「ほどかれる」肉体は、雨に濡れることから始まるのだが、ここもおもしろいなあ。濡れるは、直に肌と水が接触すること。
三井の「しずかに」では巣は「むこう」にあった。「わたし」とは接触していない。そういうところで動くこころと、何かに接触して動くこころでは、肉体の見え方も違ってくる。
当たり前のことなのだろうけれど、その違いもおもしろい。
三井葉子「しずかに」には知らないことばがない。けれど、わからないことばがある。そして、わからないというのは、どこか肉体の奥で、あ、これは「わかる」という気持ちがわき起こってきたときに、さらにわからなくなるものである。
石をなげるな
シッ
しずかに
もう
みな
寝しずまっている
木の股の
巣が
むこうにひとつあれば
それを頼んで
みな 眠っているのだ
生きているのは
寝るまも生きていることだから ね
3連目の「頼んで」。直感的にわかるのだけれど、ほかのことばで言いなおそうとすると、ことばが出てこない。「わからない」。でも、それを「わかりたい」。これが「わからない」とこの詩が「わからない」。そう思うのだが、どう近づいていけばいいのかわからない。
どこかに木がある。そしてその木には鳥が巣をかけている。巣のなかにいるのは雛だろうか。それともまだ卵のままだろうか。よくわからないけれど、あ、そんなふうにして自分とは違ったところで、自分とは違ったいのちが生きている。大きな世界の中で、いのちはさまざまに形をかえながらつづいている。私もその「つながり」のひとつなのだと信じる。そうすると安心する。
「頼む」は「信じる」なのだ。ふつう、「頼む」を「信じる」という「意味」ではつかわないけれど、「頼んだよ(まかせたよ)」というときは「信じているよ」というこころがそこに動いている。ここから「いのる」という意味もうまれてくるのかもしれない、いやあ、いいことばだなあ。そうか、こんなふうにして使うのか、と思う。納得させられる。そして、この「頼む」「信じる」から「頼もしい」ということばも動くのだなあと思う。「ひとつあれば」の「ひとつ」が、いろいろに動くことばをきゅっとひきしめる。どんなことばも、けっきょく「ひとつ」から生まれ、動いていく。
俳句で言う「遠心・求心」の、その固く結びついた一点、そして解放された一点を思う。
三井のことば、その「意味」は表面的ではなく、どこか肉体の奥深いところでゆっくりと人間全体をゆさぶる。
斎藤恵子「さみだれ」。
ドアをあけることはできません
前の道にはお面をつけた子どもたちがいて
けとけとけと
泣くのです
声がなまなましくてわたしは耳をふさぎます
子どもたちはわたしを見てもしらんかおです
でもしっているのです
わたしが怖れていることを
だからわざとさわぐのです
「子どもたちはわたしを見てもしらんかおです/でもしっているのです」。知らないのに知っている。わかっているのに、わからないふりをする。そういうところで動いている何かは「恐ろしい」。でも、そういう「恐ろしい」何かがあるからおもしろいのかもしれない。
三井は「頼もしい」何かを書いている。斎藤の書いていることは「頼もしい」の反対にあるのかもしれない。それは他人なんか信じない。自分を信じる、自分がいちばん「たのもしい」のかもしれない。頼りになるのは自分だけ。だから、「恐ろしい」も自分で抱えるしかない。
で、自分のなかに「頼もしい」と「恐ろしい」がからみあって、自分がほどけてゆく。
さつきの雨の日でした
雲におおわれ肌さむい日でした
きょうは子どもたちは外にいませんでした
わたしは外で雨にぬれてみました
額から鼻そして顎
ひんやりした化粧水のように
ぴとぴと
くちびるをほの甘くぬらします
ゆびがやわらかくなりました
その「ほどかれる」肉体は、雨に濡れることから始まるのだが、ここもおもしろいなあ。濡れるは、直に肌と水が接触すること。
三井の「しずかに」では巣は「むこう」にあった。「わたし」とは接触していない。そういうところで動くこころと、何かに接触して動くこころでは、肉体の見え方も違ってくる。
当たり前のことなのだろうけれど、その違いもおもしろい。
灯色(ひいろ)醗酵 | |
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