小笠原真『初めての扁桃腺摘出手術』(ふらんす堂、2011年11月11日発行)
私は自分の書いたことをすぐ忘れてしまう。きのう日吉千咲『掌インフェクション』の感想を書いた。わかる、わからない、というようなことを書いたのだが、その感想に対して「フェイスブック」の方にコメントが寄せられた。
そのコメントを読みながら、えっ、私はそんなことを書いたっけ?とびっくりした。
で、きのうの感想も、フェイスブックへのコメントも忘れたことにして(きちんと向き合っても、きっとすれ違っているだろうから)、わかる、わからない、についてもう少し書いてみたい。
小笠原真『初めての扁桃腺摘出手術』は耳鼻科の医師の詩集である。その「身体髪膚」。
ここに書かれていることは、私にはわからない。わからないけれど、ぜんぜん気にならない。わからないまま、わかった気持ちになれる。いや、気持ちにはなれない。気持ちというものが動かない。動かないから、わかりもしないのに「わかった」と平気で言える。小笠原は耳鼻科の医師で、手術もする。家族の手術をした。三人に、それぞれ違った手術をした。もっと詳しく、どういう手術をしたのかというと……。面倒だから書かないけれど、私は、「正確に」報告することができる。(「妻」と言わずに「愛妻」というのか、というところで、少し「あ、こういうひとか」とは思うけれど、まあ、関係ないね。)世間一般では、あることがらを「正確に」報告できると、その人は何かを知っている、何かをわかっているということになるのかもしれないけれど、私はそうは思わない。
私は耳鼻科の医師でもないし、手術のときにどんな問題がおきるのかも知らない。小笠原の書いていることを読み、その「ことば」というか「文字」、まあ、単なる記号だな、を転写することはできる。声に出して読むこともできる。(読み違えるかもしれないけれど--というのは、ワープロで、こう読むのだろうと思って入力しても、その通りの漢字が出てこないところがあったから、きっと私の読み方は違っているのだろう。)でも、これは小笠原の詩がわかるというとことは無関係なのだ。
というか、こういう部分に詩はない。詩はどこにもない。
ところが、詩の後半に、こういう部分がある。
へえ、扁桃腺の手術を受けているときに、患者はしゃべれるんだ。(それとも、これはだれかの手術をしているとき、そばで見ていた妻が言ったことば?)
で、
この「心温まるものを感じてしまった」に私はびっくりしてしまった。まったくわからない。想像できない。だから、ここが「わかる」。この「わかる」は「正解」ではなく「誤読」である。他人の気持ちなんか、わかるわけがない。わかるわけがないからこそ、勝手に想像し、そうだ、そうなのか、と納得する。だれだって、何か難しいことをやっている最中に、「うまいわね」と感想を言われたらうれしくなる。自信が出てくる。よし、やるぞ、という気持ちになる。そうか、医者は手術中に、こういう感想を聴くことを希望しているのか……。全身麻酔だと、そういう反応は患者からは返って来ない。でも、まわりからならそういう反応(無言の信頼?)のようなものがつたわってくるのかも。そういうとき、手術医の「こころ」は「温まる」のか。
小笠原は「心温まる」と書いているけれど、私は「こころ」ではなく、そのときの小笠原の顔だとか手つきだとかをかってに思い描いた。ちょっと自慢げに目が笑った感じとかね。手術中だから、笑いはしない、というかもしれない--つまり、私の感想は「誤読」ということになるのだが、この「誤読」が「わかる」ということ。
「誤読」できる部分だけが、「かわる」。その他の「正しく」報告できる部分--それは「わかった」でも「知っている」でもない。単なる勘違い。私の肉体とは無関係なところで動いていることばにすぎない。
「初めての扁桃腺摘出手術」にも、それに似た「わかる」部分が少しだけある。
このときの小笠原の実感(困っている感じ)は、私にはわからない。なぜなら、私は手術などしないから。そういう立場には絶対に絶たないから、わからない。わかる必要もないから、想像してみたこともない。
だけれど、わからないからこそ、「わかる」。
私は扁桃腺を切ったことなどないから、扁桃腺を切るということはわかりようがないのだけれど、たとえば、包丁でトマトを切る。すぱっと切れない。包丁が悪いのだ。刃先があまくなったいいるのだ。ぐしゅっと潰れる。種が出る。そうか、トマトひとつ切るにも大根を切るときとは違うこつがいる。--というようなことを、私の肉体は思い出す。そうて、その全く違うことをしているのだけれど「切る」という動詞でつながった部分で、「わかる」と感じる。
この私の「わかる」は「誤読」。
でも、この「わかる」を通ってしか、小笠原には近づいて行くことができない。
人間は「誤読」を通ってしか、他人に接近できない、と私は思っている。
*
ちょっと脇道に。
河邉由紀恵に『桃の湯』という詩集がある。そのなかに、「ねっとり」とか「ざらっ」とかいろいろな「感触」をあらわすことばが出てくる。その詩を「現代詩講座」で読んだとき、私は受講生に質問した。
「ねっとり」を自分のことばで言いなおすとどうなる?
だれも言いなおせない。「ねっとり」ということばがそれぞれの肉体にしっかりからみついていて、説明する必要がない。「ねっとり」は「ねっとり」じゃないか。言い換える必要がない、と受講生は感じている。
でもね、普通、何かが「わかる」ということは、それを別のことばで言い換えることができるということでもある。自分のことばで言い換えて、それでもなおかつ「意味」が共通するなら、それは「わかる」ということ。--これが、まあ、科学的(?)な解釈の仕方なのだと思う。
「ねっとり」は、それができない。
できないとわかって、そこから河邉の「ねっとり」ではなく、自分自身の「ねっとり」について考えはじめる。自分にとって一番「ねっとり」しているものは何かな? 納豆? 湯垢? セックス相手の汗? それをひとつずつ河邉のことばに結びつけ、あ、これだと「誤読」する。河邉はなんとも書いていないからこそ、このねっとりはあの男の汗だ--と「誤読」する。
そのとき「誤読」した肉体と、河邉の「肉体」が重なる。「誤読」を通して、読者は河邉を生きることができる。
河邉は、そういう感想を聞いて、「それ、違う」と思うかもしれない。あるいは、「あ、ほんとうはそれを書きたかった」と思うかもしれない。「それ、違う」と思われるのは、まあ、本人ではないのだから、それで当然。でも「それが書きたかった」と河邉が思うとしたら、おもしろくない? 河邉を通って、河邉を通り抜けてことばを生きたことになる。
そういうことを楽しむのが、きっと詩。
わからない--わからないことを「誤読」して、強引に「わかる」。それが楽しい。その「誤読」に筆者(詩人)をまきこむことができたら、さらに楽しくなると思う。
08月22日、「現代詩講座」を福岡市中央区薬院の「リードカフェ」で開きます。来てみてください。
私は自分の書いたことをすぐ忘れてしまう。きのう日吉千咲『掌インフェクション』の感想を書いた。わかる、わからない、というようなことを書いたのだが、その感想に対して「フェイスブック」の方にコメントが寄せられた。
そのコメントを読みながら、えっ、私はそんなことを書いたっけ?とびっくりした。
で、きのうの感想も、フェイスブックへのコメントも忘れたことにして(きちんと向き合っても、きっとすれ違っているだろうから)、わかる、わからない、についてもう少し書いてみたい。
小笠原真『初めての扁桃腺摘出手術』は耳鼻科の医師の詩集である。その「身体髪膚」。
私の家族は妻と息子二人の三人である
この三人に私は職業柄とは言え
メスを用いたことがある
長男には急性中耳炎で鼓膜切開術を
次男には上唇小帯短縮症で離断術を
愛妻には慢性扁桃腺炎で扁桃腺摘出術を
施したわけである
ここに書かれていることは、私にはわからない。わからないけれど、ぜんぜん気にならない。わからないまま、わかった気持ちになれる。いや、気持ちにはなれない。気持ちというものが動かない。動かないから、わかりもしないのに「わかった」と平気で言える。小笠原は耳鼻科の医師で、手術もする。家族の手術をした。三人に、それぞれ違った手術をした。もっと詳しく、どういう手術をしたのかというと……。面倒だから書かないけれど、私は、「正確に」報告することができる。(「妻」と言わずに「愛妻」というのか、というところで、少し「あ、こういうひとか」とは思うけれど、まあ、関係ないね。)世間一般では、あることがらを「正確に」報告できると、その人は何かを知っている、何かをわかっているということになるのかもしれないけれど、私はそうは思わない。
私は耳鼻科の医師でもないし、手術のときにどんな問題がおきるのかも知らない。小笠原の書いていることを読み、その「ことば」というか「文字」、まあ、単なる記号だな、を転写することはできる。声に出して読むこともできる。(読み違えるかもしれないけれど--というのは、ワープロで、こう読むのだろうと思って入力しても、その通りの漢字が出てこないところがあったから、きっと私の読み方は違っているのだろう。)でも、これは小笠原の詩がわかるというとことは無関係なのだ。
というか、こういう部分に詩はない。詩はどこにもない。
ところが、詩の後半に、こういう部分がある。
妻は扁桃腺摘出手術の症例が私の三倍以上はあり
たしかにこの手術に関しては私より上手だと思う
その妻に手術中「うまいわね」と言われた
心温まるものを感じてしまった
逆説的に言えば妻は他人であり
息子たちは自分の分身であることに
初めて気づいたのである
へえ、扁桃腺の手術を受けているときに、患者はしゃべれるんだ。(それとも、これはだれかの手術をしているとき、そばで見ていた妻が言ったことば?)
で、
その妻に手術中「うまいわね」と言われた
心温まるものを感じてしまった
この「心温まるものを感じてしまった」に私はびっくりしてしまった。まったくわからない。想像できない。だから、ここが「わかる」。この「わかる」は「正解」ではなく「誤読」である。他人の気持ちなんか、わかるわけがない。わかるわけがないからこそ、勝手に想像し、そうだ、そうなのか、と納得する。だれだって、何か難しいことをやっている最中に、「うまいわね」と感想を言われたらうれしくなる。自信が出てくる。よし、やるぞ、という気持ちになる。そうか、医者は手術中に、こういう感想を聴くことを希望しているのか……。全身麻酔だと、そういう反応は患者からは返って来ない。でも、まわりからならそういう反応(無言の信頼?)のようなものがつたわってくるのかも。そういうとき、手術医の「こころ」は「温まる」のか。
小笠原は「心温まる」と書いているけれど、私は「こころ」ではなく、そのときの小笠原の顔だとか手つきだとかをかってに思い描いた。ちょっと自慢げに目が笑った感じとかね。手術中だから、笑いはしない、というかもしれない--つまり、私の感想は「誤読」ということになるのだが、この「誤読」が「わかる」ということ。
「誤読」できる部分だけが、「かわる」。その他の「正しく」報告できる部分--それは「わかった」でも「知っている」でもない。単なる勘違い。私の肉体とは無関係なところで動いていることばにすぎない。
「初めての扁桃腺摘出手術」にも、それに似た「わかる」部分が少しだけある。
うまく切れない
たった二センチばかりの粘膜が思うように切れないのだ
皮膚の切開とは全く違うのだ
粘膜がメス先に絡みつくだけで切れてこないのだ
うまく切るためにはメス先に
独特の方向性と力加減が必要なのだ
そんなことは手術書には書いていない
このときの小笠原の実感(困っている感じ)は、私にはわからない。なぜなら、私は手術などしないから。そういう立場には絶対に絶たないから、わからない。わかる必要もないから、想像してみたこともない。
だけれど、わからないからこそ、「わかる」。
私は扁桃腺を切ったことなどないから、扁桃腺を切るということはわかりようがないのだけれど、たとえば、包丁でトマトを切る。すぱっと切れない。包丁が悪いのだ。刃先があまくなったいいるのだ。ぐしゅっと潰れる。種が出る。そうか、トマトひとつ切るにも大根を切るときとは違うこつがいる。--というようなことを、私の肉体は思い出す。そうて、その全く違うことをしているのだけれど「切る」という動詞でつながった部分で、「わかる」と感じる。
この私の「わかる」は「誤読」。
でも、この「わかる」を通ってしか、小笠原には近づいて行くことができない。
人間は「誤読」を通ってしか、他人に接近できない、と私は思っている。
*
ちょっと脇道に。
河邉由紀恵に『桃の湯』という詩集がある。そのなかに、「ねっとり」とか「ざらっ」とかいろいろな「感触」をあらわすことばが出てくる。その詩を「現代詩講座」で読んだとき、私は受講生に質問した。
「ねっとり」を自分のことばで言いなおすとどうなる?
だれも言いなおせない。「ねっとり」ということばがそれぞれの肉体にしっかりからみついていて、説明する必要がない。「ねっとり」は「ねっとり」じゃないか。言い換える必要がない、と受講生は感じている。
でもね、普通、何かが「わかる」ということは、それを別のことばで言い換えることができるということでもある。自分のことばで言い換えて、それでもなおかつ「意味」が共通するなら、それは「わかる」ということ。--これが、まあ、科学的(?)な解釈の仕方なのだと思う。
「ねっとり」は、それができない。
できないとわかって、そこから河邉の「ねっとり」ではなく、自分自身の「ねっとり」について考えはじめる。自分にとって一番「ねっとり」しているものは何かな? 納豆? 湯垢? セックス相手の汗? それをひとつずつ河邉のことばに結びつけ、あ、これだと「誤読」する。河邉はなんとも書いていないからこそ、このねっとりはあの男の汗だ--と「誤読」する。
そのとき「誤読」した肉体と、河邉の「肉体」が重なる。「誤読」を通して、読者は河邉を生きることができる。
河邉は、そういう感想を聞いて、「それ、違う」と思うかもしれない。あるいは、「あ、ほんとうはそれを書きたかった」と思うかもしれない。「それ、違う」と思われるのは、まあ、本人ではないのだから、それで当然。でも「それが書きたかった」と河邉が思うとしたら、おもしろくない? 河邉を通って、河邉を通り抜けてことばを生きたことになる。
そういうことを楽しむのが、きっと詩。
わからない--わからないことを「誤読」して、強引に「わかる」。それが楽しい。その「誤読」に筆者(詩人)をまきこむことができたら、さらに楽しくなると思う。
08月22日、「現代詩講座」を福岡市中央区薬院の「リードカフェ」で開きます。来てみてください。