監督 ステファン・ロブラン 出演 ジェーン・フォンダ、ジェラルディン・チャップリン、ダニエル・ブリュール
どの国でも高齢化社会は避けられない問題になっている。そしてそれが映画にも反映している。高齢者が主役の映画が増えている。この映画もそのひとつである。で、この映画はテーマを取り除いてしまうとあまりおもしろくはない。
気に入ったシーンはふたつ。ひとつは心臓発作を起こした友人を仲間が見舞いに行ったとき、病室に認知症の女性が迷い込む。看護士が追いかけてきて連れ出す。それを見た仲間が友人をこんなところに入院させておくわけにはいかない。連れ出そう、と計画を立てるところ。
あ、いかにもフランスだねえ。何かが気に入らない。どうやって改善するか、と考えるとき、とりあえず「自分」になってしまう。他人をほうりだす。病院を改善するのではなく、そんなものはほうっておく。迷い込んできた認知症の女性の問題などどうでもいい。ここから逃げ出せば友人の状況は「改善」する。この個人主義(わがまま)の感覚は、まあ、なんとも言えない。フランス人だねえとしかいいようがない。ひとりの提案に仲間が一斉に賛成し(みんなでいっしょに暮らすことに反対していた妻さえ賛成し)、その脱出作戦に協力する。それ、おもしろい、やろう、やろう、という感じ。このわくわく感がいいねえ。俳優たちもよろこんで演技している。
もうひとつは最後のシーン。認知症の男が妻が死んでしまったのを忘れて、名前を呼びながらさまよう。それをみた仲間たちが彼のあとをついていく。そのうちいっしょになって死んだ妻の名前を呼びはじめる。あ、そうなのか。認知症のひとに対する対応はこれがいちばんいいのか。「間違っている」と指摘するのではなく、そのひとの気持ちになり、彼が落ち着くまで思うとおりにやらせる。それしかないのである。仲間たちは認知症の専門家ではない。だからそれが正しいかどうかもわからない(私もわからないのだけれど)、いっしょに暮らしていてそのことに気がつく。「自分」を押し付けるのではなく、他人の「自分(わがまま)」を受け入れる、そばにいっしょにいる。
フランス人は自分のわがままを絶対に譲らない。そのかわり他人のわがままに対しては寛容である。(買い物なんかしたとき、店で「わがまま」を主張した方が親切に耳を傾けてくれるでしょ? 「わがまま」を言わないと「この人は何だっていいんだ」というようなあしらい方をされるでしょ?)「わがまま」というのはふつうは「共存」しないのだけれど、フランスでは共存する。
で、こういうことは実は映画の随所にこまごまと描かれている。運動家の夫がこんなわがままな女の家にはいることができない、出ていく、と家出の準備をしている。そうすると妻は、またか、という感じでアルコールを次から次へと飲んで……そのあとセックスすることで夫をつなぎとめている。この、あほらしいくらいに単純なわがままと、それを消し去る方法の簡単さ。
それは仲間の妻と浮気して、それでも友人のまま、それを受け入れてしまう感じ。え、あなたもあの男と浮気していたの、と知って、それを受け入れてしまう感じ。さらには心臓発作を起こしながら病院で女の写真(診察するとき、乳房が見える!)を撮る男--そういう部分にもあらわれている。
フランス人は「わがまま」を受け入れているのではなく、「生きていること」を受け入れている。「生きる」ということに対して「わがまま」であり、「生きる」ということは言い換えると愛とセックスなのだ。それ以外を「指針」にしていない。--というとおおげさかもしれないけれど、私にはいつもそんな具合に見える。
フランス人は女性の名誉を大切にするといういい方もあるけれど、これは女性がどんな愛とセックスをしようと、それを「受け入れる」ということだろうね。なぜそれを受け入れるかといえば、女性がいなければ人間の「いのち」はつづいていかないと知っているからだ。これが現在のフランスの女性対策(就労支援や子育て支援)にもつながっている。日本とは大違いだね。
と、まあ、こんなことを考えた。こういうことを考えさせる映画であった、ということかもしれない。考える映画なので、まあ、楽しくはないな。
ということとは別にとても感心したことがあった。ジェラルディン・チャップリンの姿勢がとても美しい。立ち姿がまるで現役の若手バレリーナのようにすっとしている。頭がからだ全体を持ち上げている、ひっぱりあげているという感じ。男優たちが猫背になっている、からだの上に頭が乗っている、そのためにからだがたわんでいるのに比べるとその違いにただただびっくりする。ワークアウトで鍛え上げたジェーン・フォンダだって、そんなにきれいではない。このジェラルディン・チャップリンが自転車をこいでからだを鍛えているシーンが途中に出てくるが、そこでも思いがけないシーンがある。自転車をこぐだけなら誰でもできるが、そのあとハンドルに両足をのせ、その両足にからだをぴたりと折り曲げてくっつけてみせる。あ、こんなに柔軟なんだ。あの姿勢のよさは日頃からからだをととのえているからなのだとわかる。これにはびっくりしたなあ。若さは何よりも姿勢にあらわれる、ということを教えられ、反省もした。
そういう意味では学ぶことの多い映画ではあった。
(2013年01月03日、KBCシネマ2)
どの国でも高齢化社会は避けられない問題になっている。そしてそれが映画にも反映している。高齢者が主役の映画が増えている。この映画もそのひとつである。で、この映画はテーマを取り除いてしまうとあまりおもしろくはない。
気に入ったシーンはふたつ。ひとつは心臓発作を起こした友人を仲間が見舞いに行ったとき、病室に認知症の女性が迷い込む。看護士が追いかけてきて連れ出す。それを見た仲間が友人をこんなところに入院させておくわけにはいかない。連れ出そう、と計画を立てるところ。
あ、いかにもフランスだねえ。何かが気に入らない。どうやって改善するか、と考えるとき、とりあえず「自分」になってしまう。他人をほうりだす。病院を改善するのではなく、そんなものはほうっておく。迷い込んできた認知症の女性の問題などどうでもいい。ここから逃げ出せば友人の状況は「改善」する。この個人主義(わがまま)の感覚は、まあ、なんとも言えない。フランス人だねえとしかいいようがない。ひとりの提案に仲間が一斉に賛成し(みんなでいっしょに暮らすことに反対していた妻さえ賛成し)、その脱出作戦に協力する。それ、おもしろい、やろう、やろう、という感じ。このわくわく感がいいねえ。俳優たちもよろこんで演技している。
もうひとつは最後のシーン。認知症の男が妻が死んでしまったのを忘れて、名前を呼びながらさまよう。それをみた仲間たちが彼のあとをついていく。そのうちいっしょになって死んだ妻の名前を呼びはじめる。あ、そうなのか。認知症のひとに対する対応はこれがいちばんいいのか。「間違っている」と指摘するのではなく、そのひとの気持ちになり、彼が落ち着くまで思うとおりにやらせる。それしかないのである。仲間たちは認知症の専門家ではない。だからそれが正しいかどうかもわからない(私もわからないのだけれど)、いっしょに暮らしていてそのことに気がつく。「自分」を押し付けるのではなく、他人の「自分(わがまま)」を受け入れる、そばにいっしょにいる。
フランス人は自分のわがままを絶対に譲らない。そのかわり他人のわがままに対しては寛容である。(買い物なんかしたとき、店で「わがまま」を主張した方が親切に耳を傾けてくれるでしょ? 「わがまま」を言わないと「この人は何だっていいんだ」というようなあしらい方をされるでしょ?)「わがまま」というのはふつうは「共存」しないのだけれど、フランスでは共存する。
で、こういうことは実は映画の随所にこまごまと描かれている。運動家の夫がこんなわがままな女の家にはいることができない、出ていく、と家出の準備をしている。そうすると妻は、またか、という感じでアルコールを次から次へと飲んで……そのあとセックスすることで夫をつなぎとめている。この、あほらしいくらいに単純なわがままと、それを消し去る方法の簡単さ。
それは仲間の妻と浮気して、それでも友人のまま、それを受け入れてしまう感じ。え、あなたもあの男と浮気していたの、と知って、それを受け入れてしまう感じ。さらには心臓発作を起こしながら病院で女の写真(診察するとき、乳房が見える!)を撮る男--そういう部分にもあらわれている。
フランス人は「わがまま」を受け入れているのではなく、「生きていること」を受け入れている。「生きる」ということに対して「わがまま」であり、「生きる」ということは言い換えると愛とセックスなのだ。それ以外を「指針」にしていない。--というとおおげさかもしれないけれど、私にはいつもそんな具合に見える。
フランス人は女性の名誉を大切にするといういい方もあるけれど、これは女性がどんな愛とセックスをしようと、それを「受け入れる」ということだろうね。なぜそれを受け入れるかといえば、女性がいなければ人間の「いのち」はつづいていかないと知っているからだ。これが現在のフランスの女性対策(就労支援や子育て支援)にもつながっている。日本とは大違いだね。
と、まあ、こんなことを考えた。こういうことを考えさせる映画であった、ということかもしれない。考える映画なので、まあ、楽しくはないな。
ということとは別にとても感心したことがあった。ジェラルディン・チャップリンの姿勢がとても美しい。立ち姿がまるで現役の若手バレリーナのようにすっとしている。頭がからだ全体を持ち上げている、ひっぱりあげているという感じ。男優たちが猫背になっている、からだの上に頭が乗っている、そのためにからだがたわんでいるのに比べるとその違いにただただびっくりする。ワークアウトで鍛え上げたジェーン・フォンダだって、そんなにきれいではない。このジェラルディン・チャップリンが自転車をこいでからだを鍛えているシーンが途中に出てくるが、そこでも思いがけないシーンがある。自転車をこぐだけなら誰でもできるが、そのあとハンドルに両足をのせ、その両足にからだをぴたりと折り曲げてくっつけてみせる。あ、こんなに柔軟なんだ。あの姿勢のよさは日頃からからだをととのえているからなのだとわかる。これにはびっくりしたなあ。若さは何よりも姿勢にあらわれる、ということを教えられ、反省もした。
そういう意味では学ぶことの多い映画ではあった。
(2013年01月03日、KBCシネマ2)
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