詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ステファン・ロブラン監督「みんなで一緒に暮らしたら」(★★)

2013-01-04 12:39:21 | 映画
監督 ステファン・ロブラン 出演 ジェーン・フォンダ、ジェラルディン・チャップリン、ダニエル・ブリュール



 どの国でも高齢化社会は避けられない問題になっている。そしてそれが映画にも反映している。高齢者が主役の映画が増えている。この映画もそのひとつである。で、この映画はテーマを取り除いてしまうとあまりおもしろくはない。
 気に入ったシーンはふたつ。ひとつは心臓発作を起こした友人を仲間が見舞いに行ったとき、病室に認知症の女性が迷い込む。看護士が追いかけてきて連れ出す。それを見た仲間が友人をこんなところに入院させておくわけにはいかない。連れ出そう、と計画を立てるところ。
 あ、いかにもフランスだねえ。何かが気に入らない。どうやって改善するか、と考えるとき、とりあえず「自分」になってしまう。他人をほうりだす。病院を改善するのではなく、そんなものはほうっておく。迷い込んできた認知症の女性の問題などどうでもいい。ここから逃げ出せば友人の状況は「改善」する。この個人主義(わがまま)の感覚は、まあ、なんとも言えない。フランス人だねえとしかいいようがない。ひとりの提案に仲間が一斉に賛成し(みんなでいっしょに暮らすことに反対していた妻さえ賛成し)、その脱出作戦に協力する。それ、おもしろい、やろう、やろう、という感じ。このわくわく感がいいねえ。俳優たちもよろこんで演技している。
 もうひとつは最後のシーン。認知症の男が妻が死んでしまったのを忘れて、名前を呼びながらさまよう。それをみた仲間たちが彼のあとをついていく。そのうちいっしょになって死んだ妻の名前を呼びはじめる。あ、そうなのか。認知症のひとに対する対応はこれがいちばんいいのか。「間違っている」と指摘するのではなく、そのひとの気持ちになり、彼が落ち着くまで思うとおりにやらせる。それしかないのである。仲間たちは認知症の専門家ではない。だからそれが正しいかどうかもわからない(私もわからないのだけれど)、いっしょに暮らしていてそのことに気がつく。「自分」を押し付けるのではなく、他人の「自分(わがまま)」を受け入れる、そばにいっしょにいる。
 フランス人は自分のわがままを絶対に譲らない。そのかわり他人のわがままに対しては寛容である。(買い物なんかしたとき、店で「わがまま」を主張した方が親切に耳を傾けてくれるでしょ? 「わがまま」を言わないと「この人は何だっていいんだ」というようなあしらい方をされるでしょ?)「わがまま」というのはふつうは「共存」しないのだけれど、フランスでは共存する。
 で、こういうことは実は映画の随所にこまごまと描かれている。運動家の夫がこんなわがままな女の家にはいることができない、出ていく、と家出の準備をしている。そうすると妻は、またか、という感じでアルコールを次から次へと飲んで……そのあとセックスすることで夫をつなぎとめている。この、あほらしいくらいに単純なわがままと、それを消し去る方法の簡単さ。
 それは仲間の妻と浮気して、それでも友人のまま、それを受け入れてしまう感じ。え、あなたもあの男と浮気していたの、と知って、それを受け入れてしまう感じ。さらには心臓発作を起こしながら病院で女の写真(診察するとき、乳房が見える!)を撮る男--そういう部分にもあらわれている。
 フランス人は「わがまま」を受け入れているのではなく、「生きていること」を受け入れている。「生きる」ということに対して「わがまま」であり、「生きる」ということは言い換えると愛とセックスなのだ。それ以外を「指針」にしていない。--というとおおげさかもしれないけれど、私にはいつもそんな具合に見える。
 フランス人は女性の名誉を大切にするといういい方もあるけれど、これは女性がどんな愛とセックスをしようと、それを「受け入れる」ということだろうね。なぜそれを受け入れるかといえば、女性がいなければ人間の「いのち」はつづいていかないと知っているからだ。これが現在のフランスの女性対策(就労支援や子育て支援)にもつながっている。日本とは大違いだね。
 と、まあ、こんなことを考えた。こういうことを考えさせる映画であった、ということかもしれない。考える映画なので、まあ、楽しくはないな。

 ということとは別にとても感心したことがあった。ジェラルディン・チャップリンの姿勢がとても美しい。立ち姿がまるで現役の若手バレリーナのようにすっとしている。頭がからだ全体を持ち上げている、ひっぱりあげているという感じ。男優たちが猫背になっている、からだの上に頭が乗っている、そのためにからだがたわんでいるのに比べるとその違いにただただびっくりする。ワークアウトで鍛え上げたジェーン・フォンダだって、そんなにきれいではない。このジェラルディン・チャップリンが自転車をこいでからだを鍛えているシーンが途中に出てくるが、そこでも思いがけないシーンがある。自転車をこぐだけなら誰でもできるが、そのあとハンドルに両足をのせ、その両足にからだをぴたりと折り曲げてくっつけてみせる。あ、こんなに柔軟なんだ。あの姿勢のよさは日頃からからだをととのえているからなのだとわかる。これにはびっくりしたなあ。若さは何よりも姿勢にあらわれる、ということを教えられ、反省もした。
 そういう意味では学ぶことの多い映画ではあった。
                      (2013年01月03日、KBCシネマ2)


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池井昌樹「草を踏む」

2013-01-04 10:50:34 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「草を踏む」(「現代詩手帖」01月号)

 池井昌樹は私には「わざと」からとても遠い詩人に見える。「嘘」を必要としない詩人である。「嘘」がないために「おもしろみ」が少ないかもしれない。えっ、ことばはこんなふうに動いていいのか、という驚きが少ないかもしれない。こういう詩人を取り上げて感想を書くのはとてもむずかしい。なぜかというと、「わざと」があると、その「わざと」に向き合いながら、これはこういう「意味」ですよと「注解」すると何となく何かを言ったような感じになるのに、池井の詩の場合はそういうことができない。何を書いても新しい何かを発見したという気持ちになれない。感想も「よかった」以外に書けないので、わざわざ感想を書くまでもないということになってしまう。
 でも私は池井の詩が好きなので感想を書く。「わざと」書くのだと言ってもいいかもしれない。私の感想は池井の詩への感想というより、私がいつも考えていることを強引に語るだけになるかもしれない。
 「草を踏む」の全行。

いつだったかな
おまえとは
このよのくさをふみしめた
ことがあったな

 おまえとはだれだったのか
 わたしとはだれだったのか
 どんなあいだがらだったのか
 なんにもおぼえていないのに

どこだったかな
ふたりして
このよのくさのうえにいた
ことがあったな

 いまはじまったばかりのような
 すっかりおわってしまったような
 めもあけられないまばゆさのなか
 こころゆくまでみちたりていた

すあしでくさにたっていた
ことがあったな
ただそれだけのことだけが
ただそれだけのことなのに

 いつもの詩のように「だれだかわからなもの」と「わたし(池井)」が出会っている。「いつ」かは「わからない(おぼえていない)」。それは「はじまったばかり」のようでもあり「おわってしまった」ようでもあるという正反対のことがらを平気で結びつける。そこには「区別」というものがない。「区別」がなくて、かわりに「区別のなさ」がある。この「区別のなさ」を「永遠」と呼んでもいいし、そういう「区別のできない」状態を「放心」と呼んでもいい。「永遠」と「放心」が出会うといえばいいのか、「放心」のなかに「永遠」があるといえばいいのかわからないが--と書いてしまうと、いつも私が書いてきたことの繰り返しになる。「新しい」感想、言い換えると、「草を踏む」という作品に対する感想にならない。
 あら、困った。

 でも、私はほんとうは困っていない。この詩については書きたいことがある。
 この詩には「ことがあったな」という行が3回繰り返される。この「ことがあったな」とは何だろうか。何のために書いているのだろうか。そのことを書きたい。
 長い間「現代詩講座」を開いていないのだが、架空の講座を開いてみようか。

<質問>この詩に知らないことば、わからないことばはありますか?
<受講生>ありません。
<質問>「ことがあった」って、知っていることば?
<受講生>知っています。
<質問>じゃあ、どういう「意味」? 自分のことばで言いなおしてみて。
<受講生>ええっ、「ことがあった」なんて誰でもつかうことば。
    言いなおすことなんてできない。
(ね、これが池井の詩には「わざと」がないという根拠。別なことばでは言いなおす必要がない。「比喩」でも「虚構」でもない。)
<質問>じゃあ、こんなふうに考えてみた。
    もし「ことがあった」という行がなかったらどうなる? 「意味」は変わる?
<受講生>変わりません。
<質問>じゃあ、どうして書いたんだろう。
<受講生>えっ、私は池井さんじゃないからわからない。

 「知らない」わけではないけれど、「わからない」ことばがある。それはさっと読んだときは気がつかないけれど、大切なことだ。
 「わからない」ことばのなかには、それを書いたひとがいる。「池井さんじゃないからわからない」けれど池井ならわかる--そのひとだけの「意味」のようなものが、そこには含まれている。
 では、この池井の「ことがあったな」には何が含まれているのだろうか。

<質問>「ことがあったな」って、では、どういう時につかう?
<受講生>何かを思い出したとき。
<質問>思い出すのは何を思い出すのかな?
<受講生>「あったこと」
<質問>ほかのことばはないかな? 池井が書いていることばで……。
<受講生>おぼえていること。

 そうだね。思い出すのは「おぼえていること」。池井は「なんにもおぼえていないのに」と書いている。「おまえ」と「わたし」が誰で、どういう関係だったか、具体的なことは何にも覚えていないけれど、草を踏みしめたことは覚えている。そういう「ことがあったな」。
 そうすると「こと」というのは「くさをふみしめる」、その「踏みしめる」動詞だね。これは草の上に「いた」、草に「たっていた」という具合に、動詞が変化していくけれど、それは変化しても「こと」は変わらない。「動詞」と「こと」はそんな具合に密着している。
 そして「動詞」というのは「肉体」と関係している。「踏みしめる」は「足」で、足という肉体で。「たっていた」の行には「すあしで」とちゃんと書いてある。これは、私の流儀で言いなおすと「肉体で覚えている」ということ。
 「肉体」でははっきりと「覚えている」。しかし「肉体で覚えている」ことは、ことばではなかなか言い表すことができない。
 だから、

ただそれだけのことだけが
ただそれだけのことなのに

 と、あいまいに終わるしかないのだけれど。

<質問>この行のあとに、ことばを補うとしたら?
<受講生>……。
<質問>覚えている、の反対は?
<受講生>忘れる

 そうだね。
 で、私なら「忘れられない」補う。肉体で覚えたことは、いつまでも覚えている。忘れられない。自転車に乗ることを覚えたら、いくつになっても乗れる。泳ぐことを覚えたらいくつになっても泳げる。肉体は忘れない。そして、この肉体が覚えていることをことばで言いなおすのはむずかしい。自転車に乗ることを、左右にバランスをとりながらペダルをこぐ、前に進むスピードが横に倒れることを防ぐ、なんて言いなおしても、実際に自転車に乗っているときはそういうことをことばにして頭で意識しているわけじゃない。無意識だね。
 そういう「無意識」が覚えていることを池井は書いている。「無意識」だから、そこには「時間」がない。だから永遠。「無意識」だから「放心」。
 「ことがあったな」という行はなくても「意味」は変わらない。でも池井は「意味」ではなく、その「意味」が変わらない何かを書きたくて「ことがあったな」と書かずにはいられない。書いてしまう。「わざと」ではなく、ほんとうに「無意識」に。
 池井はいつでも「覚えていて/わすれられないこと」をそのまま何もつけくわえずに、生まれたての赤ん坊のような、ほかほかのゆげがたっている感じで書く。池井はこの至福を「めもあけられないまばゆさのなか/こころゆくまでみちたりていた」ということばで書いているのかもしれない。それを読むと私はとても幸福になる。私の「肉体」が覚えている何かがゆっくりと目を覚ます。池井のことばは私の肉体が覚えていることを目覚めさせてくれる。






池井昌樹詩集 (現代詩文庫)
池井 昌樹
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