詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

苗村吉昭「意識のケヤキ」

2013-01-08 09:38:37 | 詩(雑誌・同人誌)
苗村吉昭「意識のケヤキ」(「歴程」582 、2012年12月20日)

 苗村吉昭「意識のケヤキ」を読んで体がぞくっとなった。体の芯が反応してしまった。近づいていっていいのか、遠ざかるべきなのか。そういう恐怖心が稲妻のように体の芯で光った。

この宿泊所には都合三回やってきている
滞在期間が三日のときも一年のときもあったが
俺はそのたびに似ているが違う部屋をあてがわれた
一度目はこの棟の五〇五号室
二度目は大きなケヤキの木を挟んだ向こうの棟の四一八号室
そしていま俺は六六二号室の鍵を開け荷物を降ろした
俺はケヤキの葉を通して四一八号室を覗き見た
よくは見えないが誰かが微かに動いている
そう
一年間の俺は確かにあそこにいたのだ
俺は四一八号室からケヤキの葉を通して何度もこの部屋を見ていたはずだ
このとき俺は奇妙な感覚に捕らわれたのだ
四一八号室の俺は過去の五〇五号室のことを認識しているが未来の六六二号室のことは知らない
しかし四一八号室の俺は予感のように六六二号室の俺を見上げ日々を送っていた
六六二号室の俺は懐かしむように四一八号室を眺め五〇五号室思い出している

 私は何が怖かったのか。「五〇五号室」「四一八号室」「六六二号室」ということばの「数字」が怖いのだ。部屋があればその部屋に番号がある。それだけのことかもしれないが、その部屋を思い出すのに、はっきりと「五〇五号室」「四一八号室」「六六二号室」と数字を繰り返すということが怖いのだ。
 途中に「一年間の俺は確かにあそこにいたのだ」という行がある。その「あそこ」は私は怖くない。「あそこ」というとき、動いているのは「肉体」である。ほかのことばにしなくても「あそこ」ではっきりとわかるし、「あそこ」だけで、そのときのあれこれを思い出すことができる。体が覚えている「こと」と「あそこ」はしっくりなじむ。
 そして、その「なじむ」感じは、その前の行の「よくは見えないが誰かが微かに動いている」の「よく見えないが」に通じるものがある。「よく見えない」けれど、それが「わかる」。つまり「よく見えなくても」納得できる。体で反応してしまう。
 ここまでは怖くないのである。ところが、

俺は四一八号室からケヤキの葉を通して何度もこの部屋を見ていたはずだ

 ここから、急にぞくっとしはじめる。

俺は「あの部屋」からケヤキの葉を通して何度もこの部屋を見ていたはずだ

 なら、たぶん、ぞくっとはしない。「あの部屋」から「この部屋」を見ていた。それは「肉体」のなかにはっきり「覚えている」感じがする。ところが「あの部屋」ではなく「四一八号室」になるととたんに「肉体」が消える感じ、肉体の持っているあいまいさ、いいかげんさが拒絶された感じになる。これが怖い。
 さらにそのあと「四一八号室」「五〇五号室」「六六二号室」という具合に、部屋が厳密に特定され、そこから「過去」「未来」というものが出てくる。

四一八号室の俺は過去の五〇五号室のことを認識しているが未来の六六二号室のことは知らない

 うーん。苗村にとって「過去」「未来」は私の感覚とはまったく違っているのだと思う。「時間」の感覚が違っているのだと思う。
 この詩には明確には書かれていないが、「五〇五号室」にいた「過去」と、「四一八号室」にいた「過去」というものが苗村にははっきり区別されている。まあ、それはほかの人にも区別されるものかもしれないけれど--私が言いたいのは、「五〇五号室」にいた「過去」を思い出す(A)、「四一八号室」にいた「過去」を思い出す(B)とき、わたしの場合にAのB距離(?)が同じになる。思い出す「こと」というなかにのみこまれて、違う時間なのだけれど、それを「思い出す」とき、「いま」と「あのとき」、「いま」と「そのとき」の距離の差がない。空間化できないというか「過去A-過去B-いま」と線上に記す具合には「肉体」のなかにおさまらない。でも、苗村は「部屋」を番号で区別するように、きっと「過去」も「番号」を割り振るかなにかするように区別してるんだろうなあ、と思う。その「番号」と「部屋の番号」はきっちりと「一体化」する。
 言いなおすと、そのとき「一体化」しているのは苗村の「肉体」と「時間」、苗村の「肉体」と「部屋」ではなく、肉体よりも「時間」と「部屋の番号」の方である--そういう気がする。だからこそ「部屋の番号」を正確に書かずにはいられないのだ。「あの部屋」「この部屋」「別の部屋」ではきっとだめなのだ。
 それが、なぜか、とても怖い。

そうだ
現在・過去・未来は同時に存在しながら意識のポジションを移行させているに過ぎない
ケヤキの葉が手招きするように風に揺れている
俺はそれぞれの部屋の眼になり現在・過去・未来が照応するの声を聞いた

 「現在・過去・未来は同時に存在」する。ただし、それは苗村の「肉体」のなかで「一体化」して存在するのではなく、「それぞれの部屋」と「現在・過去・未来が照応する」のである。それが「意識のポジションを移行させている」ということなのだろうけれど--私の場合、意識のポジションは移行しない。同時に存在するものは同時に存在するのであって、それを「意識」の操作で別々にはしない。けれど苗村はそれを別々にする。それが怖い。なぜかというと、意識を移行するとき、それにあわせて肉体も変化する。つまり、「眼」は苗村の「肉体」から離脱して「それぞれの部屋の眼」として存在する。--肉体も「ひとつ」の肉体としてそこにあるのではなく、機能の器官として独立し、「空間」として存在し、「時間」として存在する。この感覚が怖い。自分の肉体がいくつにも分裂して離れていくという感じが怖い。
 「意識」ということばが象徴的だが、これは「意識」の詩なのである。そして、その意識というのは、何か「肉体」を拒絶し、「頭脳(論理・思考)」と合致する。肉体は切断さればらばらになるかわりに(肉体の分離を犠牲にして)意識は連続する。「意識の連続」が苗村にとって「肉体の連続(肉体はひとつ)」よりも優先する。それが怖い。
 「あの部屋」「この部屋」「別の部屋」と「あのとき」「このとき(いま)」「別のとき」という表現では他人にはわからないけれど自分にはわかるからそれでいい--と私などは思ってしまうが、苗村はそうではないのだろう。それぞれをきちんと他人と共有できる「番号」のように客観的なものとして握り締めないと「事実」をつかんでいる気持ちになれないのだろう。
 そのことに、私は、ぞくっとしてしまったのである。
 私はよく一センチの円に内接する正千角形と正九九九角形は肉体では区別できない、それは「頭」でしか区別できないというようなことを書くが--ああ、この「比喩」は苗村には通じないなあ、と感じ、それが怖いのである。一センチの円に内接する正千角形と正九九九角形は意識(頭脳)に区別できる限り、それは肉体でも識別できるはずであると主張されそうで、怖いのである。




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