岡田ユアン『トットリッチ』(土曜美術出版販売、2012年10月01日発行)
ことばは「意味」を求めている。--というのは、ほんとうかどうかはわからないが、ことばを書いてしまうと、そこに「意味」を求めたくなるようにしむける力があるかもしれない。それはことばの本能なのか、それとも書いた人間の本能なのか。どっちでもいいことかもしれない。区別の必要はないかもしれない。そのときそのときの「方便」でどちらかを言ってしまえばいい、と私はいいかげんなことを考えている。岡田ユアン『トットリッチ』を読みながら。
この詩集には「行分けの詩」と「散文形式の詩」がある。散文形式の詩には「意味」を求める力が濃く出ている。散文というものが「意味」を必要とするものだからかもしれない。
「うえお」という作品。
「うえお」という店の名前から「あい・うえお」を思い浮かべ、「あい」をとっぱらった「うえお」なのだという「意味」を見つけ出す。そして、
ことばが「走り出す」のにあわせて「肉体(岡田)」が走りはじめる。「頭」がつかみとった「意味」に夢中になり、それを「頭」の中だけのことではなく「事実」にしたい。誰かと共有したいのだ。その「頭」がつかみとったことばを、肉体ごと届けたい。肉体が目的地にたどりついたら、ことばも目的地に着くのだ。「ことば」を運ぶのは肉体である。肉体が「ことば」を運んでいく、「頭」のなかの「意味」を運んでいく。と、岡田は思っている。思っているように見える。この「ことば」と「肉体」の一致(一致させようとしている感じ)がなかなか気持ちがいい。「意味」を「頭」だけで考えるのではなく、「肉体」でもつかみとろうとしている感じがする。なんだかわくわくする。
で、「もっと早く気づくべきだった。」が2回繰り返されるのだけれど。あ、このときちょっと工夫をして、
と1回目は「が(助詞)」を明確に書いて、2回目は省略するという具合にすると、意識が加速度をあげた感じがする。省略できるものを省略してしまうのが意識というものだから。「肉体」はそういうことができない--ということは、逆に言えば、岡田は「意識」ではなく「肉体」で書いている。しかも、先へ先へと急ぐ「意識」で「肉体」をただ動かすことに夢中になっているという「証拠」になるのかな?
で、急いで急いでたどりつくのだが。状況はなかなか思い描いたとおりにはならない。「意味」を求めているのに、「意味」はすぐにはこたえてくれない。
このじれったい感じがいいねえ。大将は岡田の「肉体」を見る。「頭」のなかを見ない。で、すぐには「ことば」が、つまり「意味」が共有されない。「肉体」はすぐわかるが、「ことば/意味(頭)」はわからない。割烹屋は、そこへやってくる人間を食べ物を杭に来たとしか思わないからね。
それでもそこにたどりついた岡井にとっては状況が違う。ここまで「肉体」が来た。「頭」がここまで来た、「意味」がここまで来たというのが岡井の「肉体」である。
「胸が躍りました。言葉よりも先に言葉にならぬ声がもれました。」は「意味(ことば)」と「肉体(胸・声)」の競走の具合がそのまま反映されていて、とてもいい呼吸だなと思う。「ことば」ではなく「胸(肉体)」が踊る。「ことば」ではなく「言葉にならぬ声(肉体の息)」がもれる。特に何が書いてあるわけではないのだが、その何も書かずに(つまり「意味」にならずに)ことばと肉体の競走そのものを再現しているところがとてもいい。
そして、
それなのに……。
ああ、大将は照れたように笑いました。名字が植尾と言いまして、そのまま平仮名にしてつけました。お客様によく聞かれますが、わけを知ると皆さん青ざめた顔になりそのままの状態でいらっしゃるので、何か悪いことをした心持ちになります。
いやあ、いいなあ、岡田の青ざめた顔が見えるようだ。そうか、描写はこんなふうに、人の会話はこうなふうに取り込むのかと思うね。相手の「ことば」と「肉体」がそのままぶつかってきて、「肉体」が反応してしまう。そして「意味」を裏切る。「事実」が噴出してきて「詩」になる。ここはこの詩のなかで一番いいところだね。
ところが、その後の展開がとてもつらい。
「あい対するものを求めよ!」 我らをさだめしものの声。
「過剰な」声というより「意味」がここからあふれはじめる。
せっかく一度は「意味」を裏切ったのに、散文が「意味」を求めて動きはじめ、岡田はそれについていってしまう。
面倒なので概略を書くと、「あい」は完全菜食の店。「うえお」は魚や肉を出すので、どうも折り合いがうまくいかない云々。
で、そこに書かれていることは、実は「うえお」と「あい」のことではなくて、ことばと肉体のバランスの崩壊そのもの。「意味」が我が物顔に出てきて、岡田の「肉体」の疾走をとめてしまう。
そして大将が完全菜食主義と肉食の違いなどを語るのだが、このときから岡田の「肉体」が消えてしまう。突然つまらなくなる。大将が「意味」を引き継ぐというか、そこに別の「意味」をつけくわえる。そこには大将の「肉体」もない。そこにはいない客の肉体のことがことばで語られるだけである。菜食主義の店と肉食主義の店はあわない。菜食主義のあと肉は食べられないとかなんとか。--これがおもしろくないのは、そこには岡田の「肉体」も大将の「肉体」も存在せず、単に客のことばを反芻する大将と岡田の「頭」があるだけだからだ。言い換えると、そこでは菜食主義という「意味」と肉食主義という「意味」が出合い、「意味」同士が上滑りするからだ。つまり詩ではなく「物語」がどんどん長くなってしまう。
「意味」は「肉体」によって叩き壊され「無意味」になってしまわないと詩にはなれない。「肉体」が覚えている「真実(事実)」を掘りあてたことにはならないのだ。
岡田の詩にはおもしろい部分もあるのだが、岡田の「頭」はそのおもしろい部分を壊すようにして動いている--私にはそんなふうに見える。
ことばは「意味」を求めている。--というのは、ほんとうかどうかはわからないが、ことばを書いてしまうと、そこに「意味」を求めたくなるようにしむける力があるかもしれない。それはことばの本能なのか、それとも書いた人間の本能なのか。どっちでもいいことかもしれない。区別の必要はないかもしれない。そのときそのときの「方便」でどちらかを言ってしまえばいい、と私はいいかげんなことを考えている。岡田ユアン『トットリッチ』を読みながら。
この詩集には「行分けの詩」と「散文形式の詩」がある。散文形式の詩には「意味」を求める力が濃く出ている。散文というものが「意味」を必要とするものだからかもしれない。
「うえお」という作品。
うえお、うえおだ。駅裏にある、うえおに行こう。暖簾をくぐり、引き戸を開け、糊のきいた割烹着を着た大将がカウンターで仕事をしている。(略)注文など其方(そっち)退(の)けにして聞く。大将、愛の行方をご存知でしょう。(略)だからうえおなどという名前をお店につけたのでしょう。あいは料理に使うからありません。あいの痕跡を残してうえおとつけた。そうでしょう、大将。
「うえお」という店の名前から「あい・うえお」を思い浮かべ、「あい」をとっぱらった「うえお」なのだという「意味」を見つけ出す。そして、
もう居ても立ってもいられず、走り出します。大将の頷く姿が目に浮かびます。もっと早くに気つくべきだった。もっと早くに気づくべきだった。
ことばが「走り出す」のにあわせて「肉体(岡田)」が走りはじめる。「頭」がつかみとった「意味」に夢中になり、それを「頭」の中だけのことではなく「事実」にしたい。誰かと共有したいのだ。その「頭」がつかみとったことばを、肉体ごと届けたい。肉体が目的地にたどりついたら、ことばも目的地に着くのだ。「ことば」を運ぶのは肉体である。肉体が「ことば」を運んでいく、「頭」のなかの「意味」を運んでいく。と、岡田は思っている。思っているように見える。この「ことば」と「肉体」の一致(一致させようとしている感じ)がなかなか気持ちがいい。「意味」を「頭」だけで考えるのではなく、「肉体」でもつかみとろうとしている感じがする。なんだかわくわくする。
で、「もっと早く気づくべきだった。」が2回繰り返されるのだけれど。あ、このときちょっと工夫をして、
もっと早くに気「が」つくべきだった。もっと早くに気づくべきだった。
と1回目は「が(助詞)」を明確に書いて、2回目は省略するという具合にすると、意識が加速度をあげた感じがする。省略できるものを省略してしまうのが意識というものだから。「肉体」はそういうことができない--ということは、逆に言えば、岡田は「意識」ではなく「肉体」で書いている。しかも、先へ先へと急ぐ「意識」で「肉体」をただ動かすことに夢中になっているという「証拠」になるのかな?
で、急いで急いでたどりつくのだが。状況はなかなか思い描いたとおりにはならない。「意味」を求めているのに、「意味」はすぐにはこたえてくれない。
大将と言いかけておしぼりを渡された。意味ありげな笑みを浮かべている。私はおしぼりで手を拭きながら大将と言いかけたが、それより先に、お待ちしておりましたと大将が言った。ああ、ああ、と私の口からは感嘆詞しか出てきません。これで知ることができる。胸が躍りました。言葉よりも先に言葉にならぬ声がもれました。おまかせで、となんとか口にしました。そこへお通しが出てきました。ごぼうと牛肉のしぐれ煮です。甘めの味付けでした。
このじれったい感じがいいねえ。大将は岡田の「肉体」を見る。「頭」のなかを見ない。で、すぐには「ことば」が、つまり「意味」が共有されない。「肉体」はすぐわかるが、「ことば/意味(頭)」はわからない。割烹屋は、そこへやってくる人間を食べ物を杭に来たとしか思わないからね。
それでもそこにたどりついた岡井にとっては状況が違う。ここまで「肉体」が来た。「頭」がここまで来た、「意味」がここまで来たというのが岡井の「肉体」である。
「胸が躍りました。言葉よりも先に言葉にならぬ声がもれました。」は「意味(ことば)」と「肉体(胸・声)」の競走の具合がそのまま反映されていて、とてもいい呼吸だなと思う。「ことば」ではなく「胸(肉体)」が踊る。「ことば」ではなく「言葉にならぬ声(肉体の息)」がもれる。特に何が書いてあるわけではないのだが、その何も書かずに(つまり「意味」にならずに)ことばと肉体の競走そのものを再現しているところがとてもいい。
そして、
今だと思いました。このお店の名前の由来を聞かせてください。
それなのに……。
ああ、大将は照れたように笑いました。名字が植尾と言いまして、そのまま平仮名にしてつけました。お客様によく聞かれますが、わけを知ると皆さん青ざめた顔になりそのままの状態でいらっしゃるので、何か悪いことをした心持ちになります。
いやあ、いいなあ、岡田の青ざめた顔が見えるようだ。そうか、描写はこんなふうに、人の会話はこうなふうに取り込むのかと思うね。相手の「ことば」と「肉体」がそのままぶつかってきて、「肉体」が反応してしまう。そして「意味」を裏切る。「事実」が噴出してきて「詩」になる。ここはこの詩のなかで一番いいところだね。
ところが、その後の展開がとてもつらい。
そこで姉妹店を作りました。オーガニックレストランあいです。はめ込んだような過剰な驚き声が背後から聞こえました。声が背中に覆いかぶさります。
「あい対するものを求めよ!」 我らをさだめしものの声。
「過剰な」声というより「意味」がここからあふれはじめる。
せっかく一度は「意味」を裏切ったのに、散文が「意味」を求めて動きはじめ、岡田はそれについていってしまう。
面倒なので概略を書くと、「あい」は完全菜食の店。「うえお」は魚や肉を出すので、どうも折り合いがうまくいかない云々。
で、そこに書かれていることは、実は「うえお」と「あい」のことではなくて、ことばと肉体のバランスの崩壊そのもの。「意味」が我が物顔に出てきて、岡田の「肉体」の疾走をとめてしまう。
そして大将が完全菜食主義と肉食の違いなどを語るのだが、このときから岡田の「肉体」が消えてしまう。突然つまらなくなる。大将が「意味」を引き継ぐというか、そこに別の「意味」をつけくわえる。そこには大将の「肉体」もない。そこにはいない客の肉体のことがことばで語られるだけである。菜食主義の店と肉食主義の店はあわない。菜食主義のあと肉は食べられないとかなんとか。--これがおもしろくないのは、そこには岡田の「肉体」も大将の「肉体」も存在せず、単に客のことばを反芻する大将と岡田の「頭」があるだけだからだ。言い換えると、そこでは菜食主義という「意味」と肉食主義という「意味」が出合い、「意味」同士が上滑りするからだ。つまり詩ではなく「物語」がどんどん長くなってしまう。
「意味」は「肉体」によって叩き壊され「無意味」になってしまわないと詩にはなれない。「肉体」が覚えている「真実(事実)」を掘りあてたことにはならないのだ。
岡田の詩にはおもしろい部分もあるのだが、岡田の「頭」はそのおもしろい部分を壊すようにして動いている--私にはそんなふうに見える。
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