井崎外枝子「身体調書」(「笛」262 、2013年01月発行)
井崎外枝子「身体調書」を読んで少し考え込んでしまった。
考え込んだのは、あ、おもしろいと思ったあと、なぜそれがおもしろい、と自問したせいである。
瞬間的におもしろいと思ったのは、なかなか動こうとしないからだを、部位をとりあげて、「右足A」「左足B」「腰骨C」と呼んでいるところである。A、B、Cという具合に書かれると、何だか自分のからだなのに自分から離れた存在のように見える。客観的というか、抽象的というか。まあ、どっちでもいいのだけれど。
あれ、でもねえ。
ここに書かれていることって、A、B、Cという表記がなかったら、何か違ってくる? からだが思うように動いてくれない、からだが反乱を起こしているように感じるというのは、A、B、Cがなくて、右足、左足、腰骨だけでも十分だね。A、B、Cは文章のなかでは「意味」をもっていない。「無意味」。
ふーん。
でも、そうすると、私の感じたことは、いったい何だったのだろう。
「意味」とは無関係な表記? 表記がなぜおもしろい?
いやいや、「詩は無意味」であるということからいうなら、A、B、Cは「無意味」だからおもしろいのだ。
でも。
たぶんそうではない。きっと。
A、B、Cは「無意味」ではなく、むしろ「意味の過剰」。A、B、Cがなくても右足は右足、左足は左足、腰骨は腰骨であることに違いはないのだから、A、B、Cは「意味」としては余分(過剰)。
過剰なものは、過剰というだけではおさまらない。肉体にA、B、Cをくっつけることで、右足は右足とは別のものになる。肉体から切り離されて「もの」になる。新しい「もの」の誕生は、新しい意味、新しい意識の誕生であり--それは「意味の過剰」であり、「意識の過剰」である。たぶん、「意味の過剰」よりも「意識の過剰」の方が正確かもしれない。「過剰」のなかに私が感じるのは「意味」ではなく、井崎という詩人の「意識」だからである。井崎は「肉体」を書くふりをして「意識」を書いている。そう気づいて、私はこの詩をおもしろいと思ったのだ。
過剰なものは常に暴走する。「もと」の存在から離れて暴走する。からだの部位を名称だけではなく記号で呼ぶと、記号が独立してそれ自体が「もの」から一個の単位(?)になる。その別の独立した単位は最初の「右足」「左足」という肉体を離れて「意識」の「象徴」のように、身軽に存在しはじめる。思うように動いてくれない何かとして、肉体を離れて、肉体の重みをのがれて軽快に運動する。--そういう変化がここにはある。
まあ、そこまでは書いていないのだけれど、記号化された肉体が「もの」から「単位」になり、「単位」を統合する抽象力によって暴走するという具合に書き進めると、この詩はもっとおもしろくなる。もっと「意識」が濃密に浮かび上がってくると思う。
井崎の詩は、そういうところまでは行かないのだが(そういうところへは行かないのだが)、「意識の暴走」の予感が誘い水になって動かしたと思われることばもある。
からだがうごかない理由は、「だるい」でも「いたい」でも何でもいいのだけれど、そう書いてしまえばそれですんでおしまいだけれど、そう書かずに具体的描写で「過剰」になっていくこともある。
この「休み」は何かな? 体育のときの整列の「休め」につながる「やすみ」かな? 「休みの姿勢」だから、たぶんそうだろうなあ。
しかし、これは「右足はぐったりしているし」で十分だよね。それで意味が通じる。けれど井崎はさらに「休みの姿勢」という「過剰」なことばを結びつける。この「過剰」はA、B、Cがなくても可能だけれど、A、B、Cがあるから動いたことばに思える。「意識の過剰」が記憶を過剰に刺戟し、子供のときの体育の姿勢を呼び出したのである。
そうやって考えてみると、「意識の過剰」をとおして、私は井崎の「体験」というものを読んでいるらしいということがわかってくる。(もちろんこれは正確には、井崎のことばをとおして私が私の体験を読んでいることなのだけれど。)で、そうか、「意識」というもの、ことばそのものとは違って何やら「抽象的」なものではないということがわかってくる。どんな意識にも(ことばにも)体験がひそんでいる。A、B、Cには井崎が数学が好き(得意)だったとか、抽象的な論理を動かすのに苦労しなかったということも関係しているのかもしれない。
--これは、この詩のおもしろさに対する感想ではなく、私の、ちょっとした「想像」と「思いつき」(メモ)なのだけれど。
どこかへ行きたいのだけれどからだが思うように動かないという「意味」ではなく、そういうからだに対する「意識の過剰」がこの詩のテーマなんだな、と思って読むと。
あら不思議。
右足、左足、腰骨にはA、B、Cと記号が過剰についていたのに、胃腸や脳にはその過剰に付加された意識がない。
ほう。
井崎にとっては目で見える(あるいは手で触れる)ものには意識が過剰に働くが、目に見えないものにはそういう動きは反映されない。(このあと、右手C、左手D、右腕E、左腕F、背筋G、頸部筋肉Hという表現も出てくる。Cの重複は井崎のミスだろう。)ここから井崎のことばが「視覚」を中心に動いているということが推定できる。「視覚」の詩人ということになる。書いて、文字にして、そこで意識が動く--そのために詩を書いているということもわかる。
これはさっき書いた、ことばの動きには「体験(からだ)」がひそんでいるということの補足。からだがひそんでいるということは--何かを「覚える」ときにからだをどう動かしたかということ。その無意識の記憶。手や足を井崎は目でとらえている。動かしてみなくても、そこに手足が見えれば、井崎にとってそれが手足。ほんとうはそうではないのだけれど、そうとらえてしまう「視力優先」の「覚え方」がA、B、Cという記号の付加を呼び出し、それに誘われるようにして動いたのがこの詩なんだなあ、と思う。
私は詩そのものを読むというより、こういうことを読む方が好きなんだなあ、としきりに思うようになった。
井崎外枝子「身体調書」を読んで少し考え込んでしまった。
さあ、これが今日のスケジュール、急ぐんだ。そろそろ立ち上がってくれ、といくらいっても右足Aはぐったりと休みの姿勢だし、左足Bが前へ出ようとすれば、腰骨Cのあたりが突っ張り、締めつけてくる。お前たちは朝からこれか。こうなれば頭を下げてお願いするしか道はないようだと内心つぶやくが、季節もよくなったことだし、そろそろ目を覚ましてくれるのではと、一日延ばし。
考え込んだのは、あ、おもしろいと思ったあと、なぜそれがおもしろい、と自問したせいである。
瞬間的におもしろいと思ったのは、なかなか動こうとしないからだを、部位をとりあげて、「右足A」「左足B」「腰骨C」と呼んでいるところである。A、B、Cという具合に書かれると、何だか自分のからだなのに自分から離れた存在のように見える。客観的というか、抽象的というか。まあ、どっちでもいいのだけれど。
あれ、でもねえ。
ここに書かれていることって、A、B、Cという表記がなかったら、何か違ってくる? からだが思うように動いてくれない、からだが反乱を起こしているように感じるというのは、A、B、Cがなくて、右足、左足、腰骨だけでも十分だね。A、B、Cは文章のなかでは「意味」をもっていない。「無意味」。
ふーん。
でも、そうすると、私の感じたことは、いったい何だったのだろう。
「意味」とは無関係な表記? 表記がなぜおもしろい?
いやいや、「詩は無意味」であるということからいうなら、A、B、Cは「無意味」だからおもしろいのだ。
でも。
たぶんそうではない。きっと。
A、B、Cは「無意味」ではなく、むしろ「意味の過剰」。A、B、Cがなくても右足は右足、左足は左足、腰骨は腰骨であることに違いはないのだから、A、B、Cは「意味」としては余分(過剰)。
過剰なものは、過剰というだけではおさまらない。肉体にA、B、Cをくっつけることで、右足は右足とは別のものになる。肉体から切り離されて「もの」になる。新しい「もの」の誕生は、新しい意味、新しい意識の誕生であり--それは「意味の過剰」であり、「意識の過剰」である。たぶん、「意味の過剰」よりも「意識の過剰」の方が正確かもしれない。「過剰」のなかに私が感じるのは「意味」ではなく、井崎という詩人の「意識」だからである。井崎は「肉体」を書くふりをして「意識」を書いている。そう気づいて、私はこの詩をおもしろいと思ったのだ。
過剰なものは常に暴走する。「もと」の存在から離れて暴走する。からだの部位を名称だけではなく記号で呼ぶと、記号が独立してそれ自体が「もの」から一個の単位(?)になる。その別の独立した単位は最初の「右足」「左足」という肉体を離れて「意識」の「象徴」のように、身軽に存在しはじめる。思うように動いてくれない何かとして、肉体を離れて、肉体の重みをのがれて軽快に運動する。--そういう変化がここにはある。
まあ、そこまでは書いていないのだけれど、記号化された肉体が「もの」から「単位」になり、「単位」を統合する抽象力によって暴走するという具合に書き進めると、この詩はもっとおもしろくなる。もっと「意識」が濃密に浮かび上がってくると思う。
井崎の詩は、そういうところまでは行かないのだが(そういうところへは行かないのだが)、「意識の暴走」の予感が誘い水になって動かしたと思われることばもある。
からだがうごかない理由は、「だるい」でも「いたい」でも何でもいいのだけれど、そう書いてしまえばそれですんでおしまいだけれど、そう書かずに具体的描写で「過剰」になっていくこともある。
右足Aはぐったりと休みの姿勢だし、
この「休み」は何かな? 体育のときの整列の「休め」につながる「やすみ」かな? 「休みの姿勢」だから、たぶんそうだろうなあ。
しかし、これは「右足はぐったりしているし」で十分だよね。それで意味が通じる。けれど井崎はさらに「休みの姿勢」という「過剰」なことばを結びつける。この「過剰」はA、B、Cがなくても可能だけれど、A、B、Cがあるから動いたことばに思える。「意識の過剰」が記憶を過剰に刺戟し、子供のときの体育の姿勢を呼び出したのである。
そうやって考えてみると、「意識の過剰」をとおして、私は井崎の「体験」というものを読んでいるらしいということがわかってくる。(もちろんこれは正確には、井崎のことばをとおして私が私の体験を読んでいることなのだけれど。)で、そうか、「意識」というもの、ことばそのものとは違って何やら「抽象的」なものではないということがわかってくる。どんな意識にも(ことばにも)体験がひそんでいる。A、B、Cには井崎が数学が好き(得意)だったとか、抽象的な論理を動かすのに苦労しなかったということも関係しているのかもしれない。
--これは、この詩のおもしろさに対する感想ではなく、私の、ちょっとした「想像」と「思いつき」(メモ)なのだけれど。
どこかへ行きたいのだけれどからだが思うように動かないという「意味」ではなく、そういうからだに対する「意識の過剰」がこの詩のテーマなんだな、と思って読むと。
あら不思議。
仕事を放棄しているのは手や足だけではない。内臓部では真っ先に胃腸が赤信号を出した。しかもここはSOSをダイレクトに脳に送るから、このごろは脳も混乱気味。ときどき間違った指令を出して赤恥を書いている。
右足、左足、腰骨にはA、B、Cと記号が過剰についていたのに、胃腸や脳にはその過剰に付加された意識がない。
ほう。
井崎にとっては目で見える(あるいは手で触れる)ものには意識が過剰に働くが、目に見えないものにはそういう動きは反映されない。(このあと、右手C、左手D、右腕E、左腕F、背筋G、頸部筋肉Hという表現も出てくる。Cの重複は井崎のミスだろう。)ここから井崎のことばが「視覚」を中心に動いているということが推定できる。「視覚」の詩人ということになる。書いて、文字にして、そこで意識が動く--そのために詩を書いているということもわかる。
これはさっき書いた、ことばの動きには「体験(からだ)」がひそんでいるということの補足。からだがひそんでいるということは--何かを「覚える」ときにからだをどう動かしたかということ。その無意識の記憶。手や足を井崎は目でとらえている。動かしてみなくても、そこに手足が見えれば、井崎にとってそれが手足。ほんとうはそうではないのだけれど、そうとらえてしまう「視力優先」の「覚え方」がA、B、Cという記号の付加を呼び出し、それに誘われるようにして動いたのがこの詩なんだなあ、と思う。
私は詩そのものを読むというより、こういうことを読む方が好きなんだなあ、としきりに思うようになった。
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