詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松下のりを『栞紐』

2013-01-16 09:53:02 | 詩集
松下のりを『栞紐』(土曜美術社出版販売)

 「現代詩」の定義はむずかしい。「現代」書かれているから「現代詩」といえるかというと、そうではないような気がする。「現代詩」には何かしら、「現代」ではないものが含まれていないといけないのだろう。そしてそれは「未来」というものだと思う。いままでのことばではとらえることのできないものを、いまのことばでとらえる--というのは矛盾である。矛盾であるけれど、矛盾だから「現代詩」という具合にわざと「現代」ということばをくっつけて矛盾を隠して、「これが正しい(新しい)」というのだろう。「正しい(?)」と「新しい」という一致する必要のないものが「ひとつ」になって「現代」ということになるのだろう。「新しい」が「正しい」かどうかは、「いま」はわからないことだからね。
 松下のりを『栞紐』のことばは、そういうこととは関係がない。「正しい」に疑問符はつかない。そのかわりに「新しい」に疑問符がつく。これが「新しい?」。いや、ちっとも新しくない。けれど、それでは古い? うーん、むずかしい。どんな古いことでも「いま/ここ」にあるとき、その「古い」は過ぎ去った時間のなかにあるのではないからね。まあ、こういうことを書いているとなんだかめんどうくさくなるのだが、ようするに、そういう詩である。そういうことばである。
 たとえば「炭の音」。

二日半日焼いて火止めをし
数日たった炭窯の前に
四、五人の男がたむろしている

もうぼつぼつよかろう
小屋の前の焚き火に
「飛騨の里」の雪が映えていた

二羽の白鳥が棲む池は
水車小屋の筧から水の落ちる場所以外
白く凍り
一羽は水のなかに
一羽は氷の上をゆっくり歩いていた

どうだ もうぼつぼついいだろう

炭を出す男たちの顔が
うなずきあった

炭窯のなかをのぞくと
骨のように焼けたナラ炭が
白い粉をふき
ぎっしりと窯の奥深くまで
つまっている

取材の記者たちが
カメラのフラッシュをたく

一本一本ふれあうと
カチンカチンとひびきのある
音がする
炭が生きているというのは
この音だ

 炭の窯出しの様子を描いている。ここに新しいことばはない。「炭が生きている」というのもごく普通のことばである。(私の田舎では、それぞれの家で炭焼き小屋をもっていて、それぞれの家庭が炭をつくっていたので、私にはとくにかわったことばには聞こえない。)普通のことばなのだけれど、その「普通」のなかにある「生きている」ということばが、あ、これが松下の「現代」なのだと教えてくれる。
 書かれていることは「新しくはない」。それがそれでも「いま/ここ」に「生きている」ことばとしてあらわれるとき、それは古いとは言えない。「過去」が「いま/ここ」と正確につながる。正確につながって、そこから「過去-いま」という「時間」を消してしまう。それは同時に「過去-いま(現在)-未来」という時間も消してしまうということである。「時間」が消えると「生きている」という「こと」だけが残る。そして「生きている」のなかで「炭」と「人間」が出会う。
 そうか。「出会い」がすべてなのだ。何かと出会う。そのとき、その「出会い」のなかに自分の抱え込んでいる「過去」が呼び出される。その「過去」と正しく向き合えるか。そこでは「自分」が試されている。
 炭がふれあうときのカチンカチン。その音をどう聞くか。透明な音、澄んだ音、はりつめた音……そういう形容詞ではなく「生きている」。「生きている」としっかり感じることができるかどうか。「生きている」をそれからどうやって動かすか。つまり、どう「覚えている」につなげるか。「生きている炭」--これは長持ちするのだ。火力が強いだけではなく、消えない。「長生き」する。「生きている」とは「長く生きる力がある」ということなのである。そういう火と炭の関係を肉体で覚えている人(その炭火にあたりながら、火の熱さを肉体で覚えた人)なら、そのことはすぐわかるだろうが、そうではない人には、この「生きている」はわかりにくいかもしれない。「生きている火」だからそれをつかって作る料理も味が「生きている」。そうして人の暮らしの「生きている」がつづく。
 そして、この「生きている」という感じは、そこに肉体をしっかり向き合わせるとき「生きている」ではなく「いっしょに生きる」にかわる。「いっしょに生きている(共生)」の感覚は、炭と人間の肉体という無関係なものを結びつけるだけではない。「いま/ここ」に生きている他の存在とも自然に結びついてひとつになる。
 詩の前半に白鳥が描かれている。この白鳥は炭焼き(炭の窯出し)とはまったく関係がない。白鳥がいようがいまいが炭は焼かれ窯出しされる。けれども、そういう「こと」のなかに白鳥は自然にとけこみ「いっしょに生きる」。そのとき松下は人間であると同時に「白鳥」でもある。白鳥だからこそ「生きている」ということばが広がる。

 誰かが生きるとき、ある存在の「生きる」を強く実感するとき、そこにはまったく別な何かが生きている。それを、どれくらい「ゆったり」した広がりのなかに抱え込むことができるか。自分の「肉体」をどれくらい包容力のあるものにできるか--「他者」をつつみこみながら、世界を実感できるか。
 これはむずかしい問題なのだけれど、そういうことができたとき、それはなんとも楽しいものになる。生きているということの不思議なおもしろさにふれあうことができる。
 「壺」という作品。

口の小さな白磁の壺を
お千代保稲荷の骨董屋でみつけた
店の親父のことばがいい
口の小さい壺は
幸せを入れたら外に出さない
縁起壺と呼ばれている
なる程
口が小さく下ぶくれした
大きな壺に
山水の青が美しい
普通だったらうん十万もするのだが
お宅さんの言い値で手を打ちましょう
おかみさんのしぶい顔が
しぶしぶ壺を霧の箱に入れた

あとで
小さな口をとがらせて
もめるだろうに

 口の小さな壺と口をとがらせて口を小さくしたおかみさんが重なる。ひとつになる。おかみさんが壺として「いっしょに生きる」。そのとき、おかみさんのなかには、たとえ不平をこぼし親父とけんかをしていても「幸せ」がつまっているとわかる。この感じがいい。こういう「幸せ」はことばを重ねて説明すれば嘘になる。「生きている」「幸せ」ということばだけで十分。肉体が「覚えている」幸せのすべて、「生きていること」のすべてをつれて、「いま/ここ」にあらわれてくる。



栞紐
松下 のりを
土曜美術社出版販売
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