詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

河邉由紀恵「すのうドーム」

2013-01-26 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
河邉由紀恵「すのうドーム」(「どぅるかまら」13、2013年01月10日発行)

 河邉由紀恵「すのうドーム」はガラスの玉の中に建物や人形があって、ひっくりかえすと内部の白い粉が雪のように舞うおもちゃのことを書いているのだと思う。

歩いても歩いてもいつも同じような風景よく圧の風景
ゆすると白い雪が舞いあがり上へうえへしたへ下へま
わるまわるまちの音がとおざかる近いようでとおいは
るかなきょ離かんに胸をしめつけるようなせつなさと
こちらにはとどかないはずの水のにおいのなつかしさ

 句読点がなく、漢字熟語としてなじみのあることばが漢字とひらがなの交ぜ書きで書かれている。
 「歩いても歩いてもいつも同じような風景よく圧の風景」は「同じような風景よく(良く)」と読んでしまって、あ、ことばがつづかない。「同じような風景(、)抑圧の風景」と読み直して、私のなかで「意味」が育つ。
 スノーボールのおもちゃの風景は閉じ込められている。そして「いつも同じ」。こういうことを指して「抑圧の風景(抑圧された風景)」と読んでいるのだとわかる。
 なぜ、わかりやすいように(読みやすいように)書かないのか。
 「上へうえへしたへ下へ」はなぜ「上へ上へ下へ下へ」ではないのか、「きょ離かん」はなぜ「距離感」ではないのか。
 この説明を河邉に求めても答えは返って来ないだろう。そう書きたいからそう書くのである。
 また何らかの答えが返ってきたとしても、それで私が納得するかどうかわからない。
 だから、私は私が感じたことを書く。「誤読」してみる。
 私は河邉のこうした書き方に「肉体」を感じる。そして、それが好きなのだが、その「肉体」というのは、「歩いても歩いてもいつも同じような風景よく圧の風景」について書いたことと重複するが、何かをことばを優先させて理解しようとして、それがつまずく、そしてもう一度ことばを動かし直す--「風景よく、」から「風景、抑圧の風景」と読み返すときの呼吸(句読点の位置)と、ことばが「肉体(のどや舌、耳)」を動かすときの一瞬の「ずれ(ゆがみ)」の瞬間に、自分の「肉体」が河邉の「肉体」に触れられた感じがする。あるいは逆に河邉の「肉体」に触っている感じがする。
 ことばは「精神的」なのものであり、「頭」で理解するのが基本なのかもしれないけれど、その「頭」の動きをぐいと脇へおしよけ、そこに「肉体」が侵入してくる感じ--そこに不思議な感触がある。
 「抑圧」「上/下」「距離感」を私はどんなふうにとらえていただろうか。そのことばを(というのは正確ではないか……)、「よく圧」「上へうえへしたへ下へ」「きょ離かん」を私のことばでいいなおすとどうなるか。一瞬、言いなおせない。「よく圧」「上へうえへしたへ下へ」「きょ離かん」が、そのままぐいっと「肉体」のなかに入ってきて、「抑圧」「上/下」「距離感」を「肉体」から押し出してしまう。私の「肉体」のなかでことばが新しくなったような感じがする。知らないことばに出会い、なおかつそのことばがわかった、というような気持ちになる。
 このときの私の「肉体」の変化というのは、ちょっと女の「肉体」に触って、そこから跳ね返ってくる感触で、「あ、この女、私を嫌っている(悪いとは思っていない)」と感じるのに似ている。そういうことはもちろん私の「誤解」なのだが、まあ、そういう感じ。こういうことは直感の意見なので、いいかげんなものであるが。

すのうドームのふくらみのなか泳いでくるこおりうお
の目玉はなにを見たのかわすれやすいくちびるの人形
が青い水藻をくわえたまま水底へおちてゆくほうら底
の方で口をあける貝たちぼうふらかえるの子らと人形
はりょう足をとじたままくるしみながらしずんでゆく

 この3連目では、私は「水底へおちてゆくほうら」にびっくりした。「水底へおちてゆく方ら」???? わからない。「よく圧」「きょ離かん」はまだわかりやすい。「頭」が拒絶されるけれど、それに対向するように「頭」が復活してくる。「抑圧」「距離感」とわりと短い時間で「意味」になる。
 でも、これはなに?
 「水底へおちてゆく方、ら底」? 「ら底」の「ら」にあてはまる漢字がわからない。私はまだまだ「頭」で詩を読む人間なので、こういう瞬間には、かなりとまどう。
 句読点(呼吸の位置)を何度かかえながら、ことばを肉体をくぐらせてみる。声に出すわけではないが、のどや耳をつかって動かしてみる。そうすると、

水底へおちてゆく、ほうら、底の方で……

 という形に落ち着く。あ、「ほうら」は「感動詞」、誰かに注意を促すときなどにつかうことばなのだ。(これが正しいかどうかは、まあ、私は知らない。--私はそう読んだというだけのことである。)
 で、こういうとき、私の「現代詩講座」では受講生にとっても意地悪な質問をする。

<質問>河邉の書いている「ほうら」を自分のことばで言いなおすとどうなる?
<受講生>……

 だれも言いなおすことができない。
 で、ここで、私は「飛躍」のだが……。
 この言いなおすことのできないことば、それが詩人の(河邉の)「肉体」であり「思想」なのである。それは「意味」として「理解」できるものではなく、「肉体」の動きとして(呼吸やことばのリズムの変化として)、そこにそれが「ある」ということを「実感」することしか許されていないものなのである。
 そして、その次には、その「肉体(思想)」と読者が「共存」するかどうかだけが問題になる。
 これは現実の暮らしのなかでも起きることだが、誰かがいる。そこに肉体がある。それが好きであれ嫌いであれ、それと「共存」するしかない。そのときの「共存」と関係している。「共存」をとおして「私」の「肉体」をかえていく--そういうことが問われている。
 あ、ちょっとことばが急ぎすぎて抽象的になってしまったが。(私はここ2、3日、ノロウィルスにやられてダウンしている。頭が働かない。頭が肉体として動かないと、どうしても書いていることが抽象的になる。頭が、ずぼらを決め込む--というようなことは書かなくてもいいことなのだけれど、まあ、書いておく。)
 で。
 もう一度「飛躍」すると。
 この「ほうら」という「肉体」そのものの「呼吸」をいったん「理解する」--つまり、それをそれとして受け入れると、うーん、

   口をあける貝たちぼうふらかえるの子らと人形
はりょう足をとじたままくるしみながらしずんでゆく

 この、なんといえばいいのか「美しいおもちゃ」にはふさわしくないような「もの」をそこにある「こと」として受け入れるしかなくなる。そこにかかれている「こと」が、「ほうら」見えてくるでしょ?
 ああ、これがおもしろいなあ、と思う。
 「口をあける貝たちぼうふらかえるの子らと人形/はりょう足をとじたままくるしみながらしずんでゆく」なんていう「風景」は見たいと望んだものではないけれど、私にはそれが見えてしまう。
 こういうことが詩なのだと思う。
 自分の予想もしなかったものを、詩人のことば(肉体)をくぐりぬけることで見てしまう。触れてしまう。聞いてしまう。--それは、その瞬間、その詩人の「肉体」になることだね。言い換えると、「一体」になる。「セックスする」。
 河邉には一度だけ実際にあったことがあるので、こんなことを書くと、うーん、セクハラになるのかなあ。でも、まあ、私は女の詩人であれ、男の詩人であれ、そんなふうにして詩を読む。

 脱線してしまった。
 河邉のことばの書き方(表記方法)は、「作為的」といえば「作為的」かもしれない。けれど、こういう「作為」は単発でなら可能でも持続するのはとてもむずかしい。何よりもつづけているうちに変化していくし、その変化を「頭」は暴走してしまう。それをおさえながら「肉体」の領域にとどめておくのがむずかしい。
 河邉は、それを「ことばの肉体」にまで鍛え上げている。そのことを「ほうら」ということばの動かし方に感じた。



桃の湯
河邉 由紀恵
思潮社
コメント (1)
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