尾川義雄『影泥棒』(能登印刷出版部、2012年12月20日発行)
尾川義雄『影泥棒』のことばは「想像力」を刺戟しない。読んでいて、ことばに触発されて「妄想」が広がっていく、ことばが肉体をもって暴走していくということがない。つまり「現代詩」と定義されているものからは遠い。
では、そこにはことばの魅力はないのか、というと、そうとはかぎらない。
「養蚕暮らし」のなかほどを引用する。
ていねいに蚕の生涯が描かれる。そのていねいさのなかにまた尾川の暮らしが折り込まれる。蚕を育てるのがどんなにたいへんだったか、それを肉体は忘れることがあっても、そのときの「ていねいさ」を肉体は忘れることができない。「ていねいさ」を肉体は「覚えている」。それがそのまま描写となって動いている。
このていねいな描写、ことばの動きを読むと、ことばによって養蚕の「事実」がととのえられ、それにあわせて「暮らし」そのものがととのえられていく感じがする。尾川は「事実」を書いただけではなく、そう書くことで「暮らしの事実」を「暮らしの真実」にまで高めたのである。
肉体が覚えている暮らしは「親子六人が住む茅葺家屋は 寝所と食事場を/辛うじて残す養蚕作業所となった」というような、思い出すとつらいようなことなのだけれど、ああ、美しいと思わず声が漏れる。つらい、苦しい暮らしの中にも思いがけないものが入ってくる。
蚕が桑の葉を食べるときの音を、そんなふうに表現するとき、それは「比喩」にとどまらない。そのことばが動くとき、それは「比喩」ではなく、実際の風景なのだ。蚕を飼う山の中の集落。そこには山があると同時に川がある。川の水は音をたてて流れている。その音が聞こえる暮らし。それが「比喩」の形で肉体のなかによみがえる。ふるさとがその瞬間、美しく「なる」。つらく、苦しい養蚕の暮らしも、その早瀬のせせらぎの響きに洗われて美しい「こと」に「なる」。
この正直な肉体の反応は、ことばを「ていねいに」動かすところから必然のようにして生まれてきている。蚕が桑を食べる音にも耳をすませ、その音の変化のなかに蚕の生涯を見ている。その耳の記憶に、川で遊んだ記憶も生きている。
それは「学校から帰る子供も手伝わされた」という記憶に、
という1行が結びつくところにも見ることができる。
「絵の具のチューブを押し出すように」は単なる「比喩」ではない。それは尾川が子供時代に絵を描いたときの肉体の記憶、肉体が覚えていることなのである。「絵の具のチューブを押し出すように」ということばが動くとき、原田は蚕になって、絵を描くようにして白い繭をつくっている。こういう「正直」は得難いものである。
この詩には「現代詩」の定義にあてはまるようなことばはない。だれもこの詩を「現代詩」とは呼ばないだろう。
しかし、そのことばの運動のなかには、詩そのものが失ってはならない「比喩の肉体」がある。「ことばの肉体」がある。「ことばの肉体」と自分自身の「肉体」を「ひとつ」にして動いていく力がある。
これは大事にしたい。
尾川義雄『影泥棒』のことばは「想像力」を刺戟しない。読んでいて、ことばに触発されて「妄想」が広がっていく、ことばが肉体をもって暴走していくということがない。つまり「現代詩」と定義されているものからは遠い。
では、そこにはことばの魅力はないのか、というと、そうとはかぎらない。
「養蚕暮らし」のなかほどを引用する。
蚕棚がずらーつと並び
食い盛り 肥り盛りの桑を噛む音は
早瀬を奔るさざなみの響き
玄関や納屋にも摘んで来た桑葉が拡げられ
親子六人が住む茅葺家屋は 寝所と食事場を
辛うじて残す養蚕作業所となった
黒点のある頭部を前後左右に振って食い続け
鋸状の桑の葉が二・三時間で骨だけとなり
桑葉の補給と蚕糞で汚れた蚕棚の差し替えに
早朝から深夜まで父母は掛かり切り
学校から帰る子供も手伝わされた
やがて蚕は脱皮前の睡眠に入る
食育と脱皮を数回繰り返し
白い体躯が じょじょに透明になり
絵の具のチューブを押し出すように白い液体を
体をくねらせ口先から 吐き出し吐き出し
蚕は真っ白な繭の中で動き止まり
体躯が縮み茶色の蛹に
ていねいに蚕の生涯が描かれる。そのていねいさのなかにまた尾川の暮らしが折り込まれる。蚕を育てるのがどんなにたいへんだったか、それを肉体は忘れることがあっても、そのときの「ていねいさ」を肉体は忘れることができない。「ていねいさ」を肉体は「覚えている」。それがそのまま描写となって動いている。
このていねいな描写、ことばの動きを読むと、ことばによって養蚕の「事実」がととのえられ、それにあわせて「暮らし」そのものがととのえられていく感じがする。尾川は「事実」を書いただけではなく、そう書くことで「暮らしの事実」を「暮らしの真実」にまで高めたのである。
肉体が覚えている暮らしは「親子六人が住む茅葺家屋は 寝所と食事場を/辛うじて残す養蚕作業所となった」というような、思い出すとつらいようなことなのだけれど、ああ、美しいと思わず声が漏れる。つらい、苦しい暮らしの中にも思いがけないものが入ってくる。
早瀬を奔るさざなみの響き
蚕が桑の葉を食べるときの音を、そんなふうに表現するとき、それは「比喩」にとどまらない。そのことばが動くとき、それは「比喩」ではなく、実際の風景なのだ。蚕を飼う山の中の集落。そこには山があると同時に川がある。川の水は音をたてて流れている。その音が聞こえる暮らし。それが「比喩」の形で肉体のなかによみがえる。ふるさとがその瞬間、美しく「なる」。つらく、苦しい養蚕の暮らしも、その早瀬のせせらぎの響きに洗われて美しい「こと」に「なる」。
この正直な肉体の反応は、ことばを「ていねいに」動かすところから必然のようにして生まれてきている。蚕が桑を食べる音にも耳をすませ、その音の変化のなかに蚕の生涯を見ている。その耳の記憶に、川で遊んだ記憶も生きている。
それは「学校から帰る子供も手伝わされた」という記憶に、
絵の具のチューブを押し出すように白い液体を
という1行が結びつくところにも見ることができる。
「絵の具のチューブを押し出すように」は単なる「比喩」ではない。それは尾川が子供時代に絵を描いたときの肉体の記憶、肉体が覚えていることなのである。「絵の具のチューブを押し出すように」ということばが動くとき、原田は蚕になって、絵を描くようにして白い繭をつくっている。こういう「正直」は得難いものである。
この詩には「現代詩」の定義にあてはまるようなことばはない。だれもこの詩を「現代詩」とは呼ばないだろう。
しかし、そのことばの運動のなかには、詩そのものが失ってはならない「比喩の肉体」がある。「ことばの肉体」がある。「ことばの肉体」と自分自身の「肉体」を「ひとつ」にして動いていく力がある。
これは大事にしたい。
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