詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

尾川義雄『影泥棒』

2013-01-20 23:59:59 | 詩集
尾川義雄『影泥棒』(能登印刷出版部、2012年12月20日発行)

 尾川義雄『影泥棒』のことばは「想像力」を刺戟しない。読んでいて、ことばに触発されて「妄想」が広がっていく、ことばが肉体をもって暴走していくということがない。つまり「現代詩」と定義されているものからは遠い。
 では、そこにはことばの魅力はないのか、というと、そうとはかぎらない。
 「養蚕暮らし」のなかほどを引用する。

蚕棚がずらーつと並び
食い盛り 肥り盛りの桑を噛む音は
早瀬を奔るさざなみの響き
玄関や納屋にも摘んで来た桑葉が拡げられ
親子六人が住む茅葺家屋は 寝所と食事場を
辛うじて残す養蚕作業所となった

黒点のある頭部を前後左右に振って食い続け
鋸状の桑の葉が二・三時間で骨だけとなり
桑葉の補給と蚕糞で汚れた蚕棚の差し替えに
早朝から深夜まで父母は掛かり切り
学校から帰る子供も手伝わされた
やがて蚕は脱皮前の睡眠に入る
食育と脱皮を数回繰り返し
白い体躯が じょじょに透明になり
絵の具のチューブを押し出すように白い液体を
体をくねらせ口先から 吐き出し吐き出し
蚕は真っ白な繭の中で動き止まり
体躯が縮み茶色の蛹に

 ていねいに蚕の生涯が描かれる。そのていねいさのなかにまた尾川の暮らしが折り込まれる。蚕を育てるのがどんなにたいへんだったか、それを肉体は忘れることがあっても、そのときの「ていねいさ」を肉体は忘れることができない。「ていねいさ」を肉体は「覚えている」。それがそのまま描写となって動いている。
 このていねいな描写、ことばの動きを読むと、ことばによって養蚕の「事実」がととのえられ、それにあわせて「暮らし」そのものがととのえられていく感じがする。尾川は「事実」を書いただけではなく、そう書くことで「暮らしの事実」を「暮らしの真実」にまで高めたのである。
 肉体が覚えている暮らしは「親子六人が住む茅葺家屋は 寝所と食事場を/辛うじて残す養蚕作業所となった」というような、思い出すとつらいようなことなのだけれど、ああ、美しいと思わず声が漏れる。つらい、苦しい暮らしの中にも思いがけないものが入ってくる。

早瀬を奔るさざなみの響き

 蚕が桑の葉を食べるときの音を、そんなふうに表現するとき、それは「比喩」にとどまらない。そのことばが動くとき、それは「比喩」ではなく、実際の風景なのだ。蚕を飼う山の中の集落。そこには山があると同時に川がある。川の水は音をたてて流れている。その音が聞こえる暮らし。それが「比喩」の形で肉体のなかによみがえる。ふるさとがその瞬間、美しく「なる」。つらく、苦しい養蚕の暮らしも、その早瀬のせせらぎの響きに洗われて美しい「こと」に「なる」。
 この正直な肉体の反応は、ことばを「ていねいに」動かすところから必然のようにして生まれてきている。蚕が桑を食べる音にも耳をすませ、その音の変化のなかに蚕の生涯を見ている。その耳の記憶に、川で遊んだ記憶も生きている。
 それは「学校から帰る子供も手伝わされた」という記憶に、

絵の具のチューブを押し出すように白い液体を

 という1行が結びつくところにも見ることができる。
 「絵の具のチューブを押し出すように」は単なる「比喩」ではない。それは尾川が子供時代に絵を描いたときの肉体の記憶、肉体が覚えていることなのである。「絵の具のチューブを押し出すように」ということばが動くとき、原田は蚕になって、絵を描くようにして白い繭をつくっている。こういう「正直」は得難いものである。
 この詩には「現代詩」の定義にあてはまるようなことばはない。だれもこの詩を「現代詩」とは呼ばないだろう。
 しかし、そのことばの運動のなかには、詩そのものが失ってはならない「比喩の肉体」がある。「ことばの肉体」がある。「ことばの肉体」と自分自身の「肉体」を「ひとつ」にして動いていく力がある。
 これは大事にしたい。








三昧の莚―詩集
尾川義雄
能登印刷出版部
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フョードル・ボンダルチュク監督「プリズナー・オブ・パワー 囚われの惑星」(★)

2013-01-20 09:49:53 | 映画
監督 フョードル・ボンダルチュク 出演 ワシリー・ステパノフ、ピョートル・フョードロフ、ユーリヤ・スニギーリ

 ロシアのSF映画。地球から戦争がなくなり、人間もほとんど不死になった未来。若者はひとりで宇宙旅行に出かける。で、ある惑星に不時着する。そこでは「匿名の父」が社会を支配していた。
 というようなことなんだけれど。
 まったくおもしろくありません。ある惑星というのが何やらソ連時代のソ連(変な言い方だね)、というかソ連に支配されている国を思わせる。ソ連に支配されているとは、別な言い方をするとソ連に安全を守られている、というのだけれどね。「匿名の父」のことばで言いなおすと。で、大半の市民は「匿名の父たち」の政治によって暮らしを守られていると思っているけれど、そこには「自由」がない。で、その「自由」をもとめて主人公が立ち上がる。
 あらら。
 「匿名の父」の独裁ぶりは、しかし、ていねいに描かれていない。つまり、魅力的に描かれていない。悪人が魅力的でないと、こういう映画はだめだねえ。紋切り型。「匿名の父」という「ことば」による説明からして「映画」を踏み外している。それって、「小説」でも許せないようなことだけれど。--まあ、原作は漫画らしい。漫画を否定するわけではないけれど(実際に私はその漫画を読んでいないので否定しようもないのだけれど)、漫画も「ことば」が主役になってしまってはおしまい。
 ロシアではヒットしたというのだけれど、なぜかなあ。長い長い共産党時代の感覚がまだ残っているのかな? あ、ソ連みたい、というのではなく、ソ連だとしてもいいのだけれど、それを批判するときはこんな感じに……という「教科書的」な展開。そのことにこそ問題があると気づかずにヒットしているのだとしたら、なんだかさびしい。
 最後に「匿名の父」が実は地球から不時着した地球人だったというオチ(?)は、ロシアのソ連からの解放は見せ掛けのものである、という「告発」のつもりなのかなあ? でも、その見せ掛けの解放から真の「自由」を獲得するというのも地球からやってきた若者というのではなあ。
 「自由」というのは、やはり、「いま/ここ」を生きている人間が自分の力で獲得するものではないのかなあ--とは、これもまた「教科書的」な哲学か。うーん。この映画は人間を「教科書的」に洗脳する力をもった新しい宣伝映画かもしれないぞ。
 気をつけよう。
                      (2013年01月17日、KBCシネマ2)

 


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