岡井隆「レクイエムの夜まで」(「現代詩手帖」01月号)
岡井隆「レクイエムの夜まで」は日記風の作品である。
「小(ちい)さ子の神」とは「比喩」である。つまり「わざと」書いたことばである。そしてそれが「わざと」であるということは、本当はそうではないということである。「嘘」ということになる。
なぜ、嘘をつくんだろう。
この「答え」は「わかっている」。その「答え」を「知っている」。でも、その「答え」を書き記すことはむずかしい。
なぜだろう。
嘘をつくのは、考えてつくからではない。--というと言いすぎなるかもしれないが、嘘をつくのは「嘘をつくということ」を「覚えている」からだ。何かを言おうとして、その瞬間「覚えている」嘘をつくということばの動きが、瞬間的にぐいと肉体から出てくるのである。
だから嘘というのは本当ではない--と書いてしまうと、なんだか変な感じだが、嘘と定義してしまうと本当ではなくなる。嘘なのだけれど、嘘をつくという肉体の動きには何かおさえることのできない本当(本能)がある。それは「いま/ここ」にあるものではない何かが嘘といっしょになってあらわれてくる誕生の悦びでもある。この悦びは本物だ。それが本物のであるということが楽しいのかもしれない。嘘をつくことで自分が自分ではなくなる、しかもその自分ではなくなるということのなかに誕生の悦びがあり、その「快感」が嘘をつかせるのかもしれない。
その自分ではない自分を見て、だれか(相手)が驚くのを見るのが楽しいのかもしれない。
と、ここまで書いたら、岡井の詩ではなく、谷川俊太郎の「朕」について感想を書きたくなってしまったが、ちょっと我慢して岡井の詩と向き合ってみる。(谷川の詩についてはあす書く--つもり。)
嘘の一番不思議なことは、一度嘘をつくとそれが止まらないということである。これは岡井の詩のつづきを読むとわかる。ただし、その止まらない嘘には、ちょっとおもしろい仕掛け(?)がある。
岡井の嘘には何かしら本当のことが含まれる。(岡井だけではなく、誰の嘘にも共通することだけれど)。嘘は嘘のままでは信じてもらえない、嘘だけではことばが行き詰まるので本当のことをまぜる。
「免疫力低下により麦粒腫」。まあ、ものもらいのようなものだろう。それを岡井は「高齢と寒気がもたらした免疫力低下」という本当(事実?)をまじえることで、ことばの運動の「土台」のようなものをつくり、その上でことばを動かす。そうするとことばが加速する。ぬかるみは走れないが、固く踏みしめた道路なら走りやすい--その固い地盤が「事実」ということになるのかな。
「小さ子の神」は「瞼の海」に「小舟」を「出す」という嘘が楽々と動くようになる。「瞼の海」は「瞼」が「左眼」と同様「肉体」を指し示しているので、すっと私の「肉体」にも入ってきて、ものもらいが瞼の裏でいやな感じで動いているのだなと「わかる」。この「わかる」は、私が「覚えている」ものもらいのときの違和感を思い出すという意味である。岡井のものもらいは潰れて海、じゃなくて、膿を出すのかな? そのために角膜が汚れ、一瞬、視界がふさがれたような感じになるのかな? 自分の肉体ではないのではっきりとはわからないが、ぼんやりと、そういうことが「わかる」(覚えていることを思い出す。)
この嘘は
という具合に加速する。手術は「暴力」による「惨殺」か。なるほどね。
で。(で、でいいのかな?)
で、この「ことばの加速(嘘の増殖)」は、岡井の場合、少し不思議な特徴を持っている。「小さ子の神」が「暴力的惨殺」ということばにたどりつく前に、実は、変なところを通る。寄り道(?)と言えばいいのか--でも、それは寄り道ではなくて「本当の道」なのだけれど。
これは岡井が原発袋叩きに異議をとえなた(?)ことと関係しているのだが、ここには「小さ子の神」のような比喩は存在しない。「日常」の感想が、「日常」のことばで語られている。それは、何といえばいいのか、一種の「注解」のように岡井のことばを補強する具合に働く。
「暴力」も「惨殺」も、「(抗生剤にて)保存」も、原発問題を想像させるでしょ? 「原発問題」についての「日記」を読んだあとでは、それを「肉体」が覚えていて、「暴力」「惨殺」「保存」に影響してくるね。
そのとき、それは「比喩」なのだけれど、比喩ではなくなる。
言いなおすと、「暴力」「惨殺」「保存」ということばの「わざと」はものもらい(小さ子の神)とだけ結びつく「純粋な比喩」ではなく、原発とも結びつく「複合的な比喩」ということになる。
岡井のことばの特徴は、この「複合的」というところにある。
別なことばで言い換えると、あることがらが複数の「注解」で増殖しながら、「現実」をまるごと抱え込むところにある。「複合」を生きる「いのち」を岡井は、そうやっておのずと「肉体」にする。
十一月二十日の杢太郎論を書いている部分。
この部分など、何のために書いている? 何の効果を狙っている? 「原発」と「暴力」「惨殺」「保存」のような「複合的比喩」につながる?
なかなかわかりにくいのだけれど。
まあ、いいか、岡井には有名な男女の問題が記憶として肉体にあり、それやこれやを思い出して、「は、は、は。」と笑うのも、「現実」の「複合」を注解するものだよなあ、などとぼんやり思っている。つまり、ここから岡井の「人生全体」のようなものがなんとなくみえてくる。(勝手な想像だけれどね。)ものもらいだけの人生ではなく、岡井がいろいろな時間を生きていることがわかってくる。それはつまり私自身もいすいろな時間を生きているということを肉体そのものとして覚えていて、その覚えていたことが刺戟を受けて「わかった」つもりになるということだけれど。
「家妻と二人で」。なんとまあ、憎らしい(?)ではないか。杢太郎の部分もものもらいとは関係がないし、つまり、そういうことは書かなくてもものものらいの手術はおこなわれたのだろうし。
何よりも、この二十五日の「日記」の部分の、「家妻と二人で」はなくても文の「意味」はなりたつでしょ? 眼科の帰りにモールを通って食料品を見た、というのは「ひとり」でもできることである。でも「家妻と二人で」の方にも「意味」があるのだ。そして、その「意味」は杢太郎の詩が「おもしろくなつて来た」ということと「複合的な事実」として結びついているのだ。人生全体が思いもかけなかった形でふわーっと浮いてくる感じだ。
だんだん、何を書いているかわからなくなってきたなあ。何を書こうとしていたのだっけ?
嘘について。嘘は「事実」を踏まえながら暴走する。加速する。ここまでは、いわば一般的な法則だね。
岡井の嘘(「わざと」書かれたことばの運動)は、ひとつのテーマの中だけで展開するのではなく、現実の複数の場面を動く。そのとき、ひとつひとつの現実は、岡井のことばの運動の、瞬間瞬間にあらわれる注釈のような感じである。
そして、注解というのは本来「テキスト(嘘)」をわかりやすくするためのもの、テキストを主とするなら従のものなのだが、岡井の場合、その従が従だけでは終わらず、存在感を増していく。(ドンキホーテのサンチョパンサのようなものだ。)
だから、この詩はものもらいの詩? 原発の詩? 岡井の男女関係の詩? 何とでも読むことができる。岡井は何が書きたかったか--などと、問い詰めても始まらないし、どんな結論を出しても、それはそのときの「方便」にすぎない。
ただ、そこにそうしてあるだけなのだ。
私は「レクイエムの夜まで」の感じの「レクイエムル夜」の部分にまでは触れないのだが(あえて触れないのだが)、それはそこまで感想を書き進めて行っても、岡井の詩のどこが好きかは書き終えたことにならないから、ここで終わるのだ。
岡井隆「レクイエムの夜まで」は日記風の作品である。
十一月十六日夜 わたしの左目瞼に小(ちい)さ子の神が宿りたまふた。
「小(ちい)さ子の神」とは「比喩」である。つまり「わざと」書いたことばである。そしてそれが「わざと」であるということは、本当はそうではないということである。「嘘」ということになる。
なぜ、嘘をつくんだろう。
この「答え」は「わかっている」。その「答え」を「知っている」。でも、その「答え」を書き記すことはむずかしい。
なぜだろう。
嘘をつくのは、考えてつくからではない。--というと言いすぎなるかもしれないが、嘘をつくのは「嘘をつくということ」を「覚えている」からだ。何かを言おうとして、その瞬間「覚えている」嘘をつくということばの動きが、瞬間的にぐいと肉体から出てくるのである。
だから嘘というのは本当ではない--と書いてしまうと、なんだか変な感じだが、嘘と定義してしまうと本当ではなくなる。嘘なのだけれど、嘘をつくという肉体の動きには何かおさえることのできない本当(本能)がある。それは「いま/ここ」にあるものではない何かが嘘といっしょになってあらわれてくる誕生の悦びでもある。この悦びは本物だ。それが本物のであるということが楽しいのかもしれない。嘘をつくことで自分が自分ではなくなる、しかもその自分ではなくなるということのなかに誕生の悦びがあり、その「快感」が嘘をつかせるのかもしれない。
その自分ではない自分を見て、だれか(相手)が驚くのを見るのが楽しいのかもしれない。
と、ここまで書いたら、岡井の詩ではなく、谷川俊太郎の「朕」について感想を書きたくなってしまったが、ちょっと我慢して岡井の詩と向き合ってみる。(谷川の詩についてはあす書く--つもり。)
嘘の一番不思議なことは、一度嘘をつくとそれが止まらないということである。これは岡井の詩のつづきを読むとわかる。ただし、その止まらない嘘には、ちょっとおもしろい仕掛け(?)がある。
なに、高齢と寒気がもたらした免疫力低下により麦粒腫が生じただけでのことだが、小さ子の神は折々瞼の海に小舟をお出しになる。と同時に左眼はかすかにふさがれる。
岡井の嘘には何かしら本当のことが含まれる。(岡井だけではなく、誰の嘘にも共通することだけれど)。嘘は嘘のままでは信じてもらえない、嘘だけではことばが行き詰まるので本当のことをまぜる。
「免疫力低下により麦粒腫」。まあ、ものもらいのようなものだろう。それを岡井は「高齢と寒気がもたらした免疫力低下」という本当(事実?)をまじえることで、ことばの運動の「土台」のようなものをつくり、その上でことばを動かす。そうするとことばが加速する。ぬかるみは走れないが、固く踏みしめた道路なら走りやすい--その固い地盤が「事実」ということになるのかな。
「小さ子の神」は「瞼の海」に「小舟」を「出す」という嘘が楽々と動くようになる。「瞼の海」は「瞼」が「左眼」と同様「肉体」を指し示しているので、すっと私の「肉体」にも入ってきて、ものもらいが瞼の裏でいやな感じで動いているのだなと「わかる」。この「わかる」は、私が「覚えている」ものもらいのときの違和感を思い出すという意味である。岡井のものもらいは潰れて海、じゃなくて、膿を出すのかな? そのために角膜が汚れ、一瞬、視界がふさがれたような感じになるのかな? 自分の肉体ではないのではっきりとはわからないが、ぼんやりと、そういうことが「わかる」(覚えていることを思い出す。)
この嘘は
十一月二十一日 眼科を再訪し手術的摘出つまり暴力(バイオレンス)による小さ子の神惨殺を協議。しかし当面は抗生剤(アンチ・バイオテック)にて保存的にゆくこととなる。
という具合に加速する。手術は「暴力」による「惨殺」か。なるほどね。
で。(で、でいいのかな?)
で、この「ことばの加速(嘘の増殖)」は、岡井の場合、少し不思議な特徴を持っている。「小さ子の神」が「暴力的惨殺」ということばにたどりつく前に、実は、変なところを通る。寄り道(?)と言えばいいのか--でも、それは寄り道ではなくて「本当の道」なのだけれど。
十一月十九日 眼科受診、投薬される。原発問題について雑文を書く。原発を魔女のやうに怖れる風潮もここまで高まると一種滑稽味を帯びる。つまり俳諧の世界だね。
これは岡井が原発袋叩きに異議をとえなた(?)ことと関係しているのだが、ここには「小さ子の神」のような比喩は存在しない。「日常」の感想が、「日常」のことばで語られている。それは、何といえばいいのか、一種の「注解」のように岡井のことばを補強する具合に働く。
「暴力」も「惨殺」も、「(抗生剤にて)保存」も、原発問題を想像させるでしょ? 「原発問題」についての「日記」を読んだあとでは、それを「肉体」が覚えていて、「暴力」「惨殺」「保存」に影響してくるね。
そのとき、それは「比喩」なのだけれど、比喩ではなくなる。
言いなおすと、「暴力」「惨殺」「保存」ということばの「わざと」はものもらい(小さ子の神)とだけ結びつく「純粋な比喩」ではなく、原発とも結びつく「複合的な比喩」ということになる。
岡井のことばの特徴は、この「複合的」というところにある。
別なことばで言い換えると、あることがらが複数の「注解」で増殖しながら、「現実」をまるごと抱え込むところにある。「複合」を生きる「いのち」を岡井は、そうやっておのずと「肉体」にする。
十一月二十日の杢太郎論を書いている部分。
あれあれ杢太郎の詩のうちでも評価の低かつたはずの「雷雨の夜」なんてのがおもしろくなつて来た。<男はまじめに涙ぐみてさせ言ひたれども/女は崩れたる膝直(なお)さむとせず/なほもひたすらにヰオロンをば/月琴(げっきん)のごとくにも、膝の上にて弾(ひ)き居(ゐ)たり。>といつた男女の構図が昨日のように思ひ出されて。は、は、は。小さ子の神の舟遊びの伴奏としても秀逸か。
この部分など、何のために書いている? 何の効果を狙っている? 「原発」と「暴力」「惨殺」「保存」のような「複合的比喩」につながる?
なかなかわかりにくいのだけれど。
まあ、いいか、岡井には有名な男女の問題が記憶として肉体にあり、それやこれやを思い出して、「は、は、は。」と笑うのも、「現実」の「複合」を注解するものだよなあ、などとぼんやり思っている。つまり、ここから岡井の「人生全体」のようなものがなんとなくみえてくる。(勝手な想像だけれどね。)ものもらいだけの人生ではなく、岡井がいろいろな時間を生きていることがわかってくる。それはつまり私自身もいすいろな時間を生きているということを肉体そのものとして覚えていて、その覚えていたことが刺戟を受けて「わかった」つもりになるということだけれど。
十一月二十五日 麦粒腫はやはり神の子だつた。眼科は繁華街のショッピングセンター・モールの八階にあり、家妻と二人で、おどろくべき豊富な品々の並ぶ食料品の棚をみ回る。こんなことは麦粒腫の、いや小さ子の神の宿りたまはざりせばわたしには訪れなかつたことだ。
「家妻と二人で」。なんとまあ、憎らしい(?)ではないか。杢太郎の部分もものもらいとは関係がないし、つまり、そういうことは書かなくてもものものらいの手術はおこなわれたのだろうし。
何よりも、この二十五日の「日記」の部分の、「家妻と二人で」はなくても文の「意味」はなりたつでしょ? 眼科の帰りにモールを通って食料品を見た、というのは「ひとり」でもできることである。でも「家妻と二人で」の方にも「意味」があるのだ。そして、その「意味」は杢太郎の詩が「おもしろくなつて来た」ということと「複合的な事実」として結びついているのだ。人生全体が思いもかけなかった形でふわーっと浮いてくる感じだ。
だんだん、何を書いているかわからなくなってきたなあ。何を書こうとしていたのだっけ?
嘘について。嘘は「事実」を踏まえながら暴走する。加速する。ここまでは、いわば一般的な法則だね。
岡井の嘘(「わざと」書かれたことばの運動)は、ひとつのテーマの中だけで展開するのではなく、現実の複数の場面を動く。そのとき、ひとつひとつの現実は、岡井のことばの運動の、瞬間瞬間にあらわれる注釈のような感じである。
そして、注解というのは本来「テキスト(嘘)」をわかりやすくするためのもの、テキストを主とするなら従のものなのだが、岡井の場合、その従が従だけでは終わらず、存在感を増していく。(ドンキホーテのサンチョパンサのようなものだ。)
だから、この詩はものもらいの詩? 原発の詩? 岡井の男女関係の詩? 何とでも読むことができる。岡井は何が書きたかったか--などと、問い詰めても始まらないし、どんな結論を出しても、それはそのときの「方便」にすぎない。
ただ、そこにそうしてあるだけなのだ。
私は「レクイエムの夜まで」の感じの「レクイエムル夜」の部分にまでは触れないのだが(あえて触れないのだが)、それはそこまで感想を書き進めて行っても、岡井の詩のどこが好きかは書き終えたことにならないから、ここで終わるのだ。
注解する者―岡井隆詩集 | |
岡井 隆 | |
思潮社 |