詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

佐川亜紀『押し花』

2013-01-09 10:10:56 | 詩集
佐川亜紀『押し花』(土曜美術出版販売、2012年10月20日発行)

 佐川亜紀のことばには独特の強さがある。硬さがある。そのために私の肉体にはすっとは入ってきてはくれない。ただし、その抵抗感(?)はきのう読んだ苗村吉昭の「頭」が肉体を支配しているという感じとはかなり違う。苗村の場合は、そのこだわり(数字のように客観的なもので肉体を定義していく)はあくまで「個人的(苗村的)」なのだが、佐川の場合は少し違う。佐川は「個人的」という感じで書いていると思うけれど、私は「個人的」という感じには受け取れない。
 微妙な言い方になるが、苗村の詩を読む場合、目の前に苗村がいて、そのことばが私の方にぐっと近づいてくるとき、私の肉体は思わず身を引いてしまう。佐川の詩の場合、そのことばは近づいてくるというより、私の肉体に対して「こっちへ来い」と誘う。私が近づいて行かないといけない。で、その「誘い」なのだが、肉体へ直接呼び掛けてくるような誘いならふらふらと肉体は動いていく(頭が「だめだ」と拒絶してもふらふらとついて言ってしまう)のだが、どうも違う。そこで私はとまどうのである。肉体への呼びかけというのは、「こっちへ来なさい」と同時に「こっちへ来てはだめだよ」という「矛盾」を抱え込んでいるのだが、佐川のことばは「こっちへ来なさい」と同時に「こっちへ来なくてはだめ」という命令(?)のようなものを含んでいて--うーん、これが、私のように軟弱な人間にはつらい。
 軟弱な人間というのは、「こっちへ来てはだめだよ」と言われると反対にその方へ行きたくなる。「こっちへ来ないとだめだよ」と言われると行きたくなくなる。「だめ」と言われることの方をしたがるのが軟弱な人間の「定義」なのだ。

 前置きが長くなったけれど。たとえば「花は時の手のひらを開く」という、ちょっと興味をそそられるタイトル詩。

花の柔らかい体には
時の闇と光が刻まれている
首を長くして
なつかしい方を望む

花の足を通った泥の流れ
夜の皮膚を何枚もはがし
朝の海をかき乱し
青い乳が流れる

 軟弱な(つまり、すけべな)私は「夜の皮膚を何枚もはがし」という行に反応して想像してはいけないことを想像する(だめと言われるとしたくなる、というのはこういうこと)。そうすると「花の足を通った泥の流れ」というのも凌辱された女の、暴力に汚れた足のように見えてくるし、「朝の海をかき乱し」も「そうか、夜通しそういうことがあったのか」と思う。「青い乳」は幾人もの男の精液かもしれない。
 そういうこともきっと踏まえて書いているのだろうけれど、それが次の連で、

爪を染めた鳳仙花の花びらは
異国の土地まで連れ去られ
初雪は軍靴に踏まれた

 こうなると、それは単なる強姦(レイプ)ではなくなるね。1連目の「時の闇と光が刻まれている」というときの「時」は、「個人的」な時間ではなくなる。もちろん「歴史」も「個人的」なものを除外しては歴史にならないのだけれど--個人がちょっと消えてしまう、個人が「集団」の一員になってしまうのが歴史というような気がして。「軍靴」の「軍」ということばが象徴的だが、「軍」には「個人」はない。「個人」の主張が乱立すれば「軍」は動けなくなる。
 さらに、

花は時の手のひらを開こうとする
手にこびりついた血の臭い
日本の私たちの罪が
赤い水時計の中で落ち続ける
解けない時は
氷のように固いままだが
日本の震災犠牲者に捧げた祈りは
空に高く広がる

光の方を向くもの
光に包まれるべきもの
その苦しみの言葉は
魂の新生の羽根を運ぶ

 「日本の私たちの罪」と言われても、私は困る。それは確かに「日本の罪」だろうけれど「私たち」のであるかどうか。そのことを私の「肉体」は納得しない。それを「わかる」のは「頭」であって、私の肉体はそれを「覚えていない」。
 ここがむずかしい。
 肉体で「覚えている(覚える)」ことには限界がある。「肉体」はひとつだからね。だからそれを「頭」で補いながら「知識」を増やしていかなければいけないというのはそのとおりなんだけれどね。
 でも、それを詩の世界にまで要求されてもねえ。
 佐川は要求などしていない、佐川自身がそうしたいからそうしているだけと言うだろうけれど。
 でも、そういう「頑張る佐川」を見ると、うーん、なんとなく自分の軟弱さが気にかかる。後ろめたくなる。「後ろめたさ」を「基準」にして動いてもいいのかもしれないけれど、うーん、私はやっぱり「好き」という欲望で動きたい。「してはだめだよ」ということをするのも「後ろめたい」よりも「それがどうしようもなく好き」ということなんだと思っている。
 佐川は、この詩で、「日本の私たちの罪」は罪として知った上で、それでも韓国の人たちが東日本大震災の日本の犠牲者に祈りを捧げているということに対して感謝し、その祈りから「魂の新生」がはじまると言っていると思うのだが。
 これって、「日本の私たちの罪」を「土台」に据えないことには(鳳仙花の咲く大地を描かないことには)、描けないものなのだろうか。なぜ、韓国の人たちの祈りを紹介するのに「日本人の私たちの罪」をわざわざ書かないといけないのか、それが私の「肉体」には納得できないのである。

 どんなことにも「歴史」がある。そして「歴史」があるかぎり、そこには「私たち」が存在する。「いま」という時は「いま」だけで存在するのではなく「過去」を持っている。「ここ」も「ここ」だけが存在するのではなく「広がり」を持っている。その時間と空間の「広がり」のなか、「連続」のなかで人間を見つめなおさなければならない。
 それはその通りだと思う。佐川は完璧に正しい。そして、その「正しさ」が私のような軟弱な人間にはつらい。軟弱な闇に隠れていないで、こっちの「正しさ」の方に出てきなさい、と言われても……「頭」はそのとき出ていくかもしれないけれど、「肉体」はきっと軟弱な闇に隠れてじっとしている。早く「頭」を解放してくれないかなあ、許してくれないかなあ、と思いながら肉体は我慢している。
 そういう感じがする。

 佐川のことばは、とても清潔ですっきりしていて気持ちがいい。一篇一篇を同人誌などで読む時より、こうやって一冊にまとまったものを読むと特にその美しさが際だってくる。どこまで言っても汚れないことばは、それが佐川の「肉体(思想)」になっているということを教えてくれるけれど--それは私の「肉体」とはぴったりあうという感じではない。変な言い方だけれど、佐川の「ことばの肉体」と私の「ことばの肉体」はセックスができない。佐川の「ことばの肉体」の前では私の「ことばの頭(?)」は、教えを受ける「生徒(児童かもしれない、園児かもしれない)」になってしまうのである。
 佐川の書いている「ことばの肉体」は、「先生」の会話にまかせてしまいたい、というような気がしてくる。







押し花―佐川亜紀詩集
佐川 亜紀
土曜美術社出版販売
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする