詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

原田もも代『自画像によく似た肖像画』

2013-01-19 23:59:59 | 詩集
原田もも代『自画像によく似た肖像画』(七月堂、2012年11月19日発行)


 原田もも代『自画像によく似た肖像画』には確かに「自画像」に似たものが描かれているのだろう。「自画像(肖像画)」を見るとなんとなく「安心」する。そこにはその人がいる。似ている、似ていないではなく、そこには「なろうとする自分」がいる。そのときの「なる」はきっと自分を否定するではなく、自分を肯定するということだろう。生きてきた「過程」を肯定する。
 そういう視線の動きは「自分」だけに向けられるものではない。「新しい畳」という作品を読むと、そういう気持ちになる。

家中が
新しくなったように かぐわしい
たった一部屋の畳が
新しくなっただけだけれど

うれしくて
寝そべって本を読む
突いた肘が痛くて起き上がる
赤く食い込んだ畳の目の痕
畳はまだ畳ではなく
藺(い)草はまだ藺(い)草だったのだ
織られて 打ち込まれてなお屈せず
敷かれることにも歯向かう
したたかな草の力 その根性に敬服し正座する
むこう脛が痛い
足の甲が痛い

 新しい畳にふれて、畳ではなく、畳の「生きてきた過去」に触れる。触れてしまう。それも「頭」ではなく「肉体」で直接に触れる。
 畳に「なる」前、畳の面は「藺草」だった。そしてその藺草にも「生きてきた過去」がある。畳に触れたつもりが、畳を通り越して「藺草」の「生きてきた過去」に触れてしまう。そして「過去」は「いま生きている」ものであることを感じる。感じてしまう。このときの「感じる」は自分の肉体のなかから「覚えていること」を呼び覚ますことである。「生きている」に触れて「生きている」が目覚める。それは藺草が「生きている」であると同時に原田も「生きている」。
 原田は直接藺草を見たことがあるか。触ったことがあるか。それはわからないが、原田が触らなくても藺草を育てた人は触っている。藺草を刈った人は触っている。その「肉体」の「覚えていること」が原田の「肉体」の奥からよみがえる。原田の「肉体」と藺草を育て刈った人の「肉体」は別々で離れていても、それはつながる。草の強さ、強い葉っぱや茎に触れたり見たりした記憶が、草のいのちのつながりのなかで藺草と出会い、その「覚えていること」を原田の肉体に思い出させる。それに触発されて「生きている」原田が目覚める。
 新しい畳の目が原田の「肉体」に痕となって残る。それは原田の肉体がやわらかく「生きている」からである。そのとき原田はまた思い出すのである。自分の肉体がこんなふうに「柔らかい」のと同じように、藺草もまたほんとうは柔らかい肉体を持っていた。それを風にそよがせていた。そして濃い緑を空中に反射させていた。もっともっとまぶしい時代があった。--そういうものと、原田は出会っている。
 この「覚えていること(記憶)」を原田は「根性」と呼んでいる。これがおもしろいなあ。藺草の根性と向き合う。--これは原田が原田の根性と向き合うということだと思う。肉体の中の芯となって原田をささえている力を原田は根性と呼んでいるのだと思うが、それと向き合うということだと思う。「生きていこう」と決意すると言い換えてもいいかもしれない。「根性」を出して「生きる」。
 そのとき原田は「正座」をする。
 おおっ、いいなあ、と思う。こういう「肉体」の出てき方は気持ちがいい。原田は何かときちんと向き合うとき「正座」する。「肉体」に無理な形をとらせる。「精神(頭)」で何かと対面するというのなら、そのとき人間はどういう姿勢をとっていてもいいはずである。どんな姿勢をしていようが1+1=2というような「数学的事実」はかわらない。でもね、人間はそんなふうにしては何かとは向き合えない。正しく何かと向き合おうとすると「正座する」。これが原田の「生き方(思想、肉体)」なのである。「生きる」と向き合うとき正座しかない。そういう「しつけ」を生きている。
 「正座」のなかには原田が書いているように「敬服」も含まれる。敬服というのは、自分の傲慢をおさえるということである。「むこう脛が痛い/足の甲が痛い」ということを受け入れ我慢する。そういうことを肉体で受け入れないことには何かと真剣に向き合い、何かを受け入れたことにはならない。一種の痛みのなかで共生する。その痛みを覚えることが「しつけ」(体のうちから自分をととのえる)なのだが、この「痛み」なのかで藺草と原田はひとつになっている。共生している。つまりいっしょに「生きる」になる。
 あ、もちろん違う生き方もある。あるのだけれど、原田が実践しているのはそういう生き方である。「肉体」をまっすぐにととのえる生き方である。
 それがこの詩ではきちんと書かれている。

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谷内 修三
思潮社
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ジャンニ・アメリオ監督「最初の人間」(★★★★)

2013-01-19 11:48:20 | 映画
監督 ジャンニ・アメリオ 出演 ジャック・ガンブラン、カトリーヌ・ソラ、ドゥニ・ポダリデス

 カミュの自伝(?)というか、カミュを描いた映画である。
 カミュよりも、その周囲の人間、特に祖母がとても印象的である。厳格である。家長として一家を支配している。カミュはその祖母のもとで母と叔父(母の義弟)といっしょに暮らしている。父はカミュが生まれてすぐに戦死している。
 私はカミュを真剣に読んだことがないので間違っているかもしれないが、あの切り詰めたような文体は祖母の正直の影響を強く受けていると思う。
 忘れられないシーンに、カミュが肉代をくすねて雑誌を買うエピソードがある。祖母が肉が少ないと肉店に苦情を言いにゆく。その帰り道、カミュは実はトイレでお金を落として、それで肉が少なくなったと嘘をつく。祖母はカミュに店に誤りにゆけと命じる。ここで終わるのではない。祖母はカミュがお金を落としたというトイレへゆき、汚物のなかに手を突っ込み、金を探そうとする。そこには生きることの「正直な真剣」がある。「もの」はなくなりはしない。持っているもの(存在するもの)は必ずそこにある。あるべきところにある。金だけではなく、あらゆるものはなくならない。人間性、人間の「本質」というものは、なおさらである。
 人間の本質は奪い去ることができない、暴力では略奪できない、と考えるとカミュに近づくことになるかもしれないが、そこまではこの映画は言わない。だが、どぎまぎしてしまう。この正直には、思わずどきりとする。カミュは祖母の姿を見ながらシャツの下に隠した雑誌をそっと捨てる。祖母の正直に触れて、さらに正直になることができなかった。そういう「負い目」のようなものが、祖母をとても美しく輝かせる。
 さらに、教師がカミュの家にやってくる。進学を勧めるためである。夜。家には電気がない。ランプの明かりのなかで、祖母が「あいにくこのあたり一帯が停電になってしまった」と言う。これは嘘である。だれもがわかる嘘である。嘘とわかっても嘘をつく。その嘘のなかにある「ほんとう」。電気がなくても「生きていける」という「ほんとう」があり、祖母はその人間の「尊厳」のようなものを守ろうとする。祖母は生きることの「尊厳」を知っている。「生きている」ということはそれがどんな暮らしであろうとはずかしいことではない。尊ばれることなのだと祖母は「知っている」。その知っていることをカミュは肉体にたたき込まれたのだと思う。嘘を突き破る「尊厳」と「正直」が人間の「肉体」の奥でつながっているということをカミュたたき込まれたのだと思う。
 似たようなエピソードに祖母とカミュが映画を見るというのがある。当時は無声映画。字幕で台詞が出る。祖母は文字が読めない。だから字幕をカミュが読むのだが、まわりから「静かに」と注意される。そのとき、祖母は「眼鏡を忘れてきた(ので字が読めない)」と主張する。ここには「ことば」と「真実」の乖離がある。そして、このときの映画というのはちょっと複雑な恋愛もの(タイトルは私にはわからない)で、スクリーンの二人が恋人かいとこかよくわからない。それを祖母がカミュにどっちなんだと聞く。カミュはこたえられない。そのことを叱られる。「何もわかっちゃいない」と。
 これはなかなか手厳しい指摘だが、祖母の「正直の真剣」と「人間関係の表面」とをぶつけて考えると、非常に哲学的なテーマが浮かび上がってくる。人間の関係はときには表面的である。そこでおこなわれていることは第三者にはわかりにくいことがある。しかし、それではその第三者がおこなっていることのなかに「正直」がないかというと、そうではない。「正直」が見えにくいのだ。それは、もしかすると見ている私(カミュ)が正直ではないからかもしれない。「正直」に到達していないからかもしれない。
 これに関係するエピソードに、アラブ人の級友とのけんかがある。アラブ人はカミュを批判して「先生におべっかをつかっている。オトコオンナだ」という。そのけんかを先生にみつかる。先生が「どっちが先に手を出した」と質問する。級友が「私です」と手を上げる。そのことにカミュは驚く。そのことからカミュは級友を尊敬することになる。けんかというものは、どちらが先に手を出したかなど実はわからない。級友はカミュをからかい、背中から押さえつけたかもしれない。けれど殴ったのは? カミュかもしれない。どっちでもいい。級友は自分の「正直」をきちんと言うことができた。そのことによって人間としての尊厳を守った。そのことが大切なのである。このことをカミュはしっかり覚えている。
 そして、この「正直の真剣」と「人間関係の表面」の問題は、最後に別の形で表現される。カミュは老いた母にフランスへ行こうと誘う。アルジェリアは危険をはらんでいる。だが、母親は拒む。なぜか。フランスにはアラブ人がいない。つまり、母親はアラブ人といっしょにアルジェリアで生きていたいのである。なぜか。これは私の推測にすぎないが、アラブ人がいる、絶対的な他者が自分のそばにいるということが彼女を「正直」にさせるからだ。絶対的な他人の前では嘘は通じない。「正直」だけでわたりあう。「正直」であるかぎり、人間は誰とでもわたりあえる、つまり共生できる。フランスへ行ってフランス人だけとの暮らしになれば、「正直」の度合いが違ってくる。それは自己の尊厳を守って生きるということの真剣さが違ってくるということだ。祖母といっしょに生きることで、母もまた「正直」の血を引き継いだのだ。血はつながっていないが「生き方」という血は誰にでも引き継がれるのである。
 この映画のタイトルの「最初の人間」とは、カミュが生まれたとき、産婆が父親に対して「最初の子供か」と質問し「そうだ、最初の子供だ」というところから取られているのだが、映画を見終わったあとでは、「最初の人間」とは「正直」をつかんだ人間という句具合に見えてくる。だれでも「正直」をつかむことで、自分自身で「最初の人間」になることができる。そう教えてくれる。だから、見終わった瞬間、よしカミュを読もう--そういう気持ちにさせられる映画である。自分の「正直」をつかみだすために何をしなければいけないのか考えよう、そう思う映画である。
                      (2013年01月18日、KBCシネマ2)






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