詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

財部鳥子「引揚者の十月」ほか

2013-01-11 10:23:29 | 詩(雑誌・同人誌)
財部鳥子「引揚者の十月」ほか(「鶺鴒通信」冬号、2013年01月10日発行)

 財部鳥子「引揚者の十月」原文は行の頭がそろっていないのだが、それをそのまま引用するのは目の悪い私にはかなりむずかしい仕事なので、頭をそろえた形で引用する。

夕陽は落ちて たそがれり
さらば故郷 さらば故郷 故郷さらば
トラックの荷台に乗った女子学生たちは
揺られながら悲しい歌を繰り返し唄っていた

なんと悲しいエッセンスだろう
なんと透明な
乳房だろう
教育だろう

 「エッセンス」はどういう意味だろう。というか、何を指していっているのだろうか。よくわからない。財部が書いている1連目--その「記憶」の抽出具合を「エッセンス」と呼んでいるのかな?
 わからないことはわからないままにして、そのあとの

なんと透明な
乳房だろう

 あ、これはいいなあ。歌を歌っている女子学生たちの乳房を言っている。そこには財部も含まれるのかもしれない。「透明な」には「純潔の」という意味が含まれるかもしれない。まだ誰もさわっていない乳房。その乳房の奥に「さらば故郷」と歌う「胸」がある。「女子学生」に「故郷」と言ってもねえ……。たぶん「故郷」の実感はそんなにない。ただ、そこに住んでいただけというだけであって、自分がつくりだす暮らしというものがないからね。だから「さらば故郷」と言ってみても、それは「自分の体験」というより歌の作者の体験である。つまり「清潔な乳房」と同じように「純潔」である。「未経験」が「透明」ということばのなかで出会うのだ。
 これは不思議な感覚なのだけれど、たぶん、郷愁とか抒情というものは「個人の体験」というより「個人以前の体験」なのかもしれない。「山のあなたの空遠く……」にしろ「ふるさとは遠きにありて思うもの」にしろ、それに最初に感動するのは中学生くらいのときで、よくよく考えるとそのとき中学生にはそういう「郷愁」の原点になるような体験というのはないね。未経験。それでも感動する。これは「あこがれ」のようなものだ。自分にないのに、それを自分が体験したらどんなにいいだろう……。自分の体験が入り込まないから、それは「透明」だ。
 でも、そういう「透明な体験」に突然、暴力的に割り込んでくる体験「強制体験」のようなものがある。それが財部の書いている「引き揚げ」ということになる。そこには、ほんとうのことと、体験とは知らずに体験してしまったことがある。その交錯を「透明」が貫き通すところが、なお美しい。
 そのまじり具合、交錯する感じが不思議である。

海を越えて大陸から逃げ帰った少女 私は
歌のなかに消えそうだ
私の故郷はもう消えたのだから
合唱する友だちも消えたのだから

 故郷は消え、友だちも消えた(亡くなった、交遊関係が途絶え消息がなくなった)。それでも「歌の記憶」がある。それが財部の「故郷」、つまり帰ることのできる場所である。それはそして「透明な乳房」の奥の「胸」である。「透明な乳房」といいたい気持ちがとてもよくわかる。
 私は女ではないので、これが「わかる」というのは変な感じで、それを「わかる」と言ってはいけないのかもしれないのだが、そうなんだろうなあと思う。「歌った記憶」(歌の内容)と同時に、そのときの「肉体」を思い出す。それは「頭」が覚えていることではなく「肉体」が、「透明な乳房」が覚えていることなのだと感じる。男に触らせていない乳房で「さらば故郷」と歌った。肉体で覚えてることには、たぶん男と女の差はない。「ひとり」と「ひとり」の違いがあるだけだ。
 その乳房はどこへ消えたか。「歌のなかに」消えた?
 消えないだろうね。
 いつまでも財部の「いまの乳房」のなかに「透明な乳房」がある。それを覚えている。覚えているからこそ、「なんと透明な/乳房だろう」と書く。「肉体」のなかにあるもの、「肉体」が「覚えていること」しか、人は書くことができない。肉体が覚えたことは、そして絶対に消えない。消えないからこそ、書かずにはいられない。あるいは、肉体が覚えていることは、ことばになっておのずと出てきてしまう。

女子学生たちは
メロディの中に住んでいる
楽しくて荷台から降りられないのだ
停留所の後の大岩の上には灰色のコウノトリ
巣があるのか鳴くでもなく丸くうずくまる

コウノトリに訊く 道はここで終りですか?
トラックから降りた運転手は
煙草に湿気たマッチで火をつけようとしている
喫煙は楽しいから彼は答えないだろう

 詩の終わりは「短編小説」のような感じだが、そこに書かれていることはなんだろう。トラックの運転手に、「透明な乳房」のその「透明」はわかりはしないということだと思って私は読んだ。(ほんとうは「わかる」のだけれど、とここで反論してもしようがないので反論は省略しておく。)女子学生だった財部(少女だった財部)にしかわからない「透明な乳房」があり、他方でそれを知らない「運転手」がいる。それが「生きる」ということかもしれない。だから、いま財部はその運転手に対して「知らないでしょ」(知らなかったでしょ)と書くのである。書かないと、財部の「透明な乳房」は誰にも知られず、財部の「肉体」のなかにだけ存在したことになってしまうからである。



 張愛玲「野営の喇叭」を張玲蘭が訳している。とても美しい文章である。「私」は喇叭の音を聞く。叔母に言うと、そなんものは聞こえない、という。空耳なのか。自分の記憶のなかにあるメロディーなのか。自分の「肉体」だけが「覚えている」音ではないのか。だが、誰かが口笛で喇叭のメロディーを吹いている。それが誰かはわからないけれど、「私」はとてもうれしくなる。窓辺に駆け寄る。--そういう「内容」なのだが、ここには「私の肉体」の中にあるものが、他者の肉体によって変奏されることで(誰かの肉体が同じものを覚えることで)、それが「私の肉体のなかにあること」ではなく、「事実」になるという悦びがある。
 この悦びに通じるものを、財部は「透明な乳房」で書いていると思う。財部の「透明な乳房」を誰かわからない人が書くわけではなく、財部は自分で書くのだが、書くことで「他人」になり、それを「肉体」から引き出し、「事実」にするのだ。







財部鳥子詩集 (現代詩文庫)
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思潮社
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